第14章 「戦前工作」

 しかし、冷徹なリツコは、こういう事態を予想していなかったわけではない。内
心の激怒を毛ほども表情にださず、相手を驚かさない程度に表情を緩めて、シンジ
少年に笑いかけた。
「シンジ君、ごめんなさい、急なことで連絡が疎になってしまって。本当は、前以て貴
方の行動予定が必要だったのだけど。わざわざ、指示を聞きにきてくれたの?」
 シンジ少年は、背後の二名からの殺気を浴びつつ、少し表情の選択に戸惑う。
「あ、あの…本当は、お仕事が終わってから、と思ったんですけど…」
 好ましげに目を細めたリツコは、気にしないで、と軽く頭を振った。
「いえ、ちょうどいいわ。今日は、なぜか、仕事が速く終わったの。
 シンジ君さえよかったら、これから、一緒に家に向かいましょうか。」
〔なにおぉお、このマッド科学者![一緒に]ですってぇ!?〕
〔なんなのよ、白衣の悪魔!!その得意そうな顔はぁぁああ!〕
 完全に無視され、ぎりぎりと歯を噛み慣らす約二名のうち、アスカが一瞬早く我
に返って、ミサトを肘でつついた。
〔なにやってんのよ、ミサト!引き継ぎ引き継ぎ!〕
〔あ、そ、そうね!!〕
 一瞬で表情を切り替えたミサトは、ずいとリツコの真正面に進み出た。
「E計画責任者にして、サードチルドレンの暫定保護者である赤城リツコ博士へ、
時間的に余裕のない作戦だったため、不足していた情報を伝達します。」
 余裕のある視線で、先を促すリツコ博士。
「サードチルドレン・暫定保護者の任務を、本日定期業務終了後、サードチルドレ
ンが実際に生活することになる場所にて、同行する前任者の確認を経て、任務の引
継ぎを行ないます。」
 わずかに、表情に刺があらわれるリツコ博士。ミサトは、そ知らぬ顔で続ける。
「以上、なにか、そちらから質問は?」
「とくにはないわ。…アスカは?」
「セカンドチルドレンは、同僚の所在地となる場所の確認および記憶のため、同行
を申し出ています。拒否する理由がなかったので、申し出は了承されました。」
 目の前でかわされている会話の、内容の意味はわかっても、目的がよく分からな
いシンジ少年。怪訝そうな表情で、二人の上司を見比べている。
〔…そう、とことん利己的な動機だけど、手を結んだってわけ、貴方たち…〕
 微苦笑すると、うなずいてみせた。
「…了解。復唱します。これより、サードチルドレンの居住地となる場所にて、前
任者より、保護任務の引継ぎを行ないます。」
〔何よ、リツコ!?こんなにあっさり、了承するなんて?〕
〔なにかあるでしょ、このマッド女…〕
 それぞれの思いを胸に、エントランスから駐車場へと向かい三人の美女たちを、
一歩遅れて、シンジ少年は不思議そうに眺めていた。

 ネルフ本部内で、数々の伝説とタイヤの焦げ跡を残し、
「マニュアルに非ずばクルマに非ず!!」
 と豪語するミサトのルノー・アルピーヌは、通常からは考えられないほど紳士的
な運転で、ネルフ本部に程近い、マンションに到達した。
 4LDKオートロックマンションのここは、ネルフ官舎扱いであり、入居者もほ
とんどネルフの職員という場所であった。
 地下の駐車場にルノーは入り、リツコを先頭に、エレベーターで3階にあがる。
〔わかってるわね。ミサト?〕
〔ええ。〕
 リツコ博士から二歩ほど遅れてシンジ少年、そしてさらに一歩遅れてアスカと
ミサト。最後尾の二名は、絶えずにアイコンタクトをとりあっている。
 一階には、かなり大きなエントランスがあるはずだが、駐車場から直接エレベー
ターに乗ったのでは確認は出来ない。それでも、大理石風の壁の文様や、派手すぎ
ない程度に高級そうな照明、押さえた色合のカーペットなどは、このマンションの
決して安くはない家賃を想像させる。シンジ少年が、なんとなく落ち着かない気分
になってしまうのは、若くして家計をあずかっていたものの職業病というべきか。
 やがて、一つのドアの前に到達したリツコが、カードキーをスリットに通す。
 ここぞとばかりに緊張する二名をやっぱり無視して、リツコは軽く微笑んだ。
「あんまり部屋には戻らないから、なにもなくて恥ずかしいんだけど…」
「いえ…」
「じゃあ、あがって。」
「はい。」
 一瞬、ミサト家での、思い出深いやりとりが思い出されて、どう挨拶すべきか悩
んだシンジ少年だったが、今にも飛び掛からんばかりのアスカと、上目遣いに見つ
め続けるミサトの無言の圧力を全身で感じたため、ごく簡単な返事と一緒に一礼し
て、赤城リツコ博士宅へと[初侵入]したのであった。

「さっきも言ったけど…あんまり、この部屋には戻らないから、なんにもなくて…
ちょっと殺風景だけど。いらっしゃい、歓迎させてもらうわ、シンジ君。」
「…ありがとうございます。よろしくお願いします、リツコさん!」
 友好的な挨拶をかわす二名の傍で、別の二名は顔色を失っている。
〔こ…こんなはずは…〕
〔何よミサト!話が全然違うじゃない!〕
 アスカ、ミサトの二人が期待していた
[失効済み書類、やプリントアウトした計算式、巨大なパソコンに集積されたケー
ブル、記憶媒体各種にうめつくされた、ブラインドを落とした薄暗い部屋]
[出前ピザ、半分飲んだワイン、始末してない猫のトイレ等の転がる荒れた部屋]
[もしくは、ハウスクリーナーに任せっぱなしの、がらんとした空虚な部屋]
 等などを期待し、一つのアラでもあれば
「サードチルドレンの[休養]を兼ねた保護者交替の場にはふさわしくない!」
 と難癖を付けるつもりだったのだが…
 ドアの内側には、期待とはまったく別の光景が、広がっていたのである。
 必要最低限の物だが、必要なものが必要な所にあるキッチン。日持ちのしそうな
パスタや缶詰等は、種類別にまとめて豊富に置いてある。調味料の種類も少なくは
なく、調理器具も食器も、女性の一人暮らしに必要な分だけが、作り付けの棚のな
かに礼儀正しく収納されている。
 リビングは、あまり使い込まれてはいない様子ではあるが、中型のテレビとDV
Dデッキ、HDレコーダー、小さなコンポ等が、整然というには自由に、雑然というには
効率的に置かれ、それにテーブルとソファが、ちょうどくつろぐのに最適の位置に
据えられている。
 清潔感のある白を基調とした配色の壁が多いことを考えているのか、肌寒い印象
にならないようにだろう、ソファやカーペット、カーテンは暖色の物が多く、わざ
とらしくない程度に、柔らかい印象の風景画や、動物の置物があちこちに見受けら
れる。確かに、少し、ビジネスホテルを思わせるような生活感のなさがあるともい
えるが、かの名高き[魔窟]の記憶も薄れないシンジ少年には、好感以外の感想は
もたらさなかったようである。
〔…なんだろう…?〕
 それに、何だか、この部屋の雰囲気は、落ち着くものがあった。
「…葛城三佐、引継ぎを。」
 敗北感に打ちのめされたミサトに、冷静な声に包まれた勝利宣言が届いた。

「…サードチルドレンの、保護者の任務を、交替いたします…」
「確かに、引き継ぎました。」
 簡単で、儀礼的な確認をすますと、地面を這うようなため息を残して、ミサト・
アスカの両名は退場していった。シンジは、ややクエスチョンマークの混じった表
情で、リツコは、近年見なかったぐらいの上機嫌な微笑で、ひらひらと手を振って
二人を見送った。
 あの後、さらにミサトたちは
「シンちゃんの荷物、もう届いてるんでしょ?良かったら、荷解き手伝うわよ!」
「はん、今回だけは、無償で働いてやるわ!」
 とさらに食い下がったのであるが、その時すでに、リツコ博士は、余裕のある表
情を崩さずに、シンジ少年に話し掛けていたのである。
「シンジ君、こっちの部屋が、貴方の部屋になるわ。見てみてね。」
「あ、はい…」
 リツコの指差したドアは、厚い一枚板のもので、クラスィスルな書体で
[Shinji Ikari]
 と書かれた真鍮のプレートが下がっている。嫌な予感を覚えたミサトが、シンジ
少年が開けたドアの内側を、あわてて覗き込んだ。
「うぐっ…!」
 絶句するミサト。
 部屋のなかは、すべての家具、私物が、[あるべき物があるべき場所にある]と
いう状態になっていた。前日のうちに運びだしていたシンジ少年の荷物は、ほぼミ
サト宅のものと同じレイアウトに配置され、リツコ博士が買い足したものか、微妙
に、見慣れない棚やインテリアが混じっている。
「ごめんなさい、日時に余裕が無いということだから、勝手に荷解きまでしてしま
ったけど…私物は、極力いじらないようにはしたから。」
「いえ!こんなことまでやってもらって、すいません!ありがとうございます…」
 シンジ少年の笑顔に、くすぐったそうに首を振るリツコ博士。
 彼女が、職務に追われる日常の、貴重な睡眠時間を削って、アメニティ・コーデ
ィネート、空間配置学、はては風水まで総動員して、シンジ少年の部屋のレイアウ
トを考えていたことを知るものはいない。いるとしたら、[共犯者]のMAGIぐ
らいのものだろう。
 うながされて部屋に入ったシンジ少年は、興味深げに部屋を見渡しして、趣味の
いい、深い青色の遮光カーテンを嬉しそうに撫でている。
 ミサトとアスカは、当然、一言もかえせない。
[シンジ少年から部屋を強奪した犯人]と[それを認めて物置を手配したもの]に
どう言った反論が可能だっただろうか?
 かくして、リツコ博士の[戦前工作]は、完全に近い成功をおさめたのである。

                               15章に続く