20章 「決心と、若干の欲望」
 
 数分後、リツコ博士は、シンジ少年が入れてくれたダージリンの紅茶をすすりながら、ソ
ファにシンジ少年と並んで座っていた。噂には聞いていたが、その紅茶は、少し驚くほどの
美味だった。レイの思っても見なかった乱入によって、「計画」は大幅な修正を余儀なくさ
れたが、これぐらいの余録には預かってもいいだろう。
 シンジ少年も、同じ紅茶のカップを前に、くつろいでいた。リツコは、ごく当たり前の
(それでも決して安物ではないのだが)葉と道具で、何故ここまで紅茶がおいしくなるのか
と半ば本気で考えた。シンジ少年にも、冗談めかして聞いてみたのであるが、
「特別なことはしていませんよ。時間と量を正確にして・・・あとは、練習ですよ。」
 との答えだった。
 味と香りもさることながら、この紅茶をゆっくり楽しんでいると、さっき押しつぶされそ
うだったイライラや絶望・・・ネガティブな考えが、解きほぐされていくようだった。
(このお茶も・・アスカや、ミサトが、血眼になって独占したがるわけだわ・・・
 錯覚・・・にしては、効果があまりに顕著よね・・・)
 となりで話し相手になってくれている、この少年の存在によるところもきわめて大きいの
だろうが・・・
 気持ちが楽になったせいか、雑談のなかで、レイの話題も出てきた。
「レイ、思ったより、帰宅が早かったわね・・・・なにかあったのかしら?」
「ええ、リツコさんも、明日もお仕事だし、あんまり遅くなるといけないから。」
「え・・・・」
「急ぎの用事は終わったみたいだし、後は、また明日学校で話そうって。」
 リツコは、危うくカップを取り落としそうになった。
(じゃあ・・・シンジ君・・・私を気遣って・・・・
 レイとの雑談を早めに切り上げてくれたの?)
 それが、たとえば儀礼的なものだとしても、好意的な相手が自分を気遣ってくれることは、
とても、幸福なこと。リツコは、そんな当たり前のことを、ずっと忘れていたような気がし
た。シンジ少年が、少し考えてから、ためらいがちに声をかけてくる。
「あと・・・よけいなことだと思いますけど、リツコさん、なにか嫌なことでもあったんで
すか?」
「いえ・・・どうして?」
「さっき、なにか、大変そうな感じがしたから・・・もしかしたら、綾波と意見の衝突があ
ったりしたのかなって・・・・」
 リツコは、複雑な感情に、呼吸を飲み込んだ。
 シンジは、鈍感なのか鋭敏なのか全く解らない少年だったが、ともかく、自分の変化に気
づいてくれていたのだ。それは、自分が表情を隠すのに失敗したと言うことなのだが、この
場合は、なぜだか嬉しいような気もする・・・ああ、自分はどうしたんだろう、混乱してい
る、間違いなく混乱している・・・
「ありがとう・・・シンジ君。」
 気がついたときには、自分でも思いがけないほど嬉しそうに・・・感謝の言葉が出ていた
のである。
「え!?」
 シンジ少年は、自分が何気なく言った一言に、予想もしない言葉を返されて絶句する。
 アスカであれば「よけいなお世話よ!」という怒声が飛んでくるかもしれないし、ミサト
であれば、それをねたにまたからかいの一言も来るところだったと思う。
「確かに、レイとは、ちょっと意見がぶつかったこともあって・・・少しイライラしていた
かもしれないわ。大人げないわね。気を付けるわ。」
「・・・・・」
 リツコは、上機嫌で紅茶を飲み干すと、そっと立ち上がった。
「せっかく気遣ってもらったわけだし、今日は、もう休みましょうか。」
「あ、はい!」
 お茶の道具一式を片づけるシンジ少年を手伝ってから、自室へと向かう前に、シンジ少年
にもう一度、微笑む。
 ・・・と、前もって細工しておいた、バスローブのゆるい帯を、またしても「事故」を装
ってするりと落とすリツコ。
 当然、バスローブの前の部分は、その危うい合わせ目がはだけて・・・・
「きゃっ・・・!!」
「!!!!!!」
 本日何度目か、その場で硬直するシンジ少年。
 後々の効果も考えて、ほんの一瞬でリツコはバスローブをかきあわせた。が、
(手応えあり!!)
 と、内心、力のこもったガッツポーズを再度かます。
「え、あ、その、ご、ごめんなさい、シンジ君!!このローブ、ちょっと緩くて・・・!」
 外面は、あくまで「突発的な事故」にあわてふためいているように、顔を真っ赤にして横
を向くリツコ。シンジ少年は当然、リツコより遙かに真っ赤になって、この場で一切の運動
と呼吸を止めていたが、ふと我に返ると、ちょっと困ったようなリツコの視線に行き当たる。
「ご、ご、ごめんなさい、リツコさん!!!」
「あ、あの、シンジ君が謝ることはないわ。前にも行ったけど、私の不注意だし・・・・」
「は、はい・・・あの・・・でも・・・」
 身の置き所のない様子のシンジ少年に向かって、恥ずかしそうに笑うリツコ。
「・・・見えちゃった?」
「・・・あの!その!」
 てきめんにうろたえるシンジ。
「ごめんなさい、私の身体なんか、見えても嬉しくないわよね?」
「そんな!あの!」
「・・・・じゃあ、見たい?」
 リツコが、何気なさそうな言葉と共に、少しだけバスローブの胸元を持ち上げてみせる。
シンジ少年の可視領域に、ごくわずかに、白い肌と別の色彩が認識される。
 当然、連鎖式に先ほど目視した事象が思い出されるシンジ少年。
・滑り落ちたバスローブの帯。
・開かれたバスローブの前半身。
・真っ白な肌と、隆起に飛んだ理想的なボディライン
・綺麗な鎖骨、はっきりとした胸の谷間と、形の良い臍。
・そして・・・その下に一瞬見えたのは・・・・
「う、うわぁああああ!!!!」
 先ほどにまさる勢いで廊下を疾走し、自分の部屋へと逃走するシンジ少年。
 今回は柱に頭突きを乱打しなかったのは、リツコと、また治療してくれたレイへ配慮した
結果だっただろうか。
 一瞬、取り残されて唖然としたリツコは、我に返って、おかしそうに一度微笑むと、足音
を忍ばせてシンジ少年の部屋の前までやってきた。
 耳を澄ますと、ドアごしに、もふー、もふーというまたしても怪しげな呼吸音がかすかに
聞こえてきた。そこでリツコは、いたずらっぽい表情を浮かべると、不意に、ドアの向こう
に声をかけた。
「シンジ君?」
「!!」
 扉の向こうで、空気が震えるほど驚いた気配。
 それから、もの凄い警戒心をはらんだような沈黙。
リツコは、こらえきれないように声に出さないまま笑うと、静かに声をかけた。
そう、この儀式だけは、前からずっと、あこがれていたのだ。
「・・・おやすみなさい、シンジ君。」
 一瞬、面食らったような沈黙。そして、
「あ・・・あの・・・」
「・・・・」
 一呼吸あってから、
「おやすみなさい、リツコさん・・・・また、明日。」
 リツコは、心底満足そうに微笑むと、ドアの向こうの見えない相手に向かって手を振って、
自分の寝室へと向かっていった。
 そう、ずっと、ずっと、あこがれていたのだ。自分の好きな相手と、穏やかに
「おやすみなさい」
 の挨拶を交わすということは・・・・

 ようやく、深夜の赤城リツコ邸に、静かな夜の沈黙が降りようとしていた。

 リツコは、ただ一枚羽織っていたバスローブも脱ぎ捨てて、寝室のダブルベットの清潔な
シーツにその裸体を滑り込ませた。
(ふふ、色々あったけど・・・・贅沢な、夜だったわね。)
 今日一日で、シンジ少年との距離は、一気に詰まったような気がする。また、その課程や
手法も、まずまず満足のいくものだった。かけた手間や費用も馬鹿にならないが、十二分に
費用の元は取れたと思う。
 心地よい薄暗がりのなかで、リツコは、先ほどの決心をもう一度、新たにした。
 そう、あの少年のためになることは、自分にできる限り、何でも行おう。
 疲労軽減は言うまでもなく、あの、得体の知れない人類補完計画とやらも、もし、シンジ
少年に過度の負担を強いるならば、場合によっては潰さなければならない。
(伊達に、人生の半ばを、研究に費やしてきたわけじゃないのよ・・・・)
 ことによっては、上司であり非公式に愛人でもあった碇指令も、また、人類を裏から支配
してきたあの委員会とやらも、敵に回すことに、ためらいはない。
 その決心は・・・ゼーレを敵に回すかもしれないという覚悟は・・・・恐ろしいことのは
ずなのに、奇妙に高揚した気分をもたらした。
(私と、MAGIが全力をつくせば・・・そう簡単には、対抗できないわよ・・・)
 そう、それは「シンジ君のために」という、一つの目的のせいかもしれない。
 本人は意識していなかったかもしれないが、
「道具として、歯車として義務づけられたものの反乱」
「実は心臓部近くにいたものの造反の恐ろしさを武器にする」
「場合によっては全世界を敵に回す覚悟」
 という、この一連の決心と行動予定は、実は、今さっき来訪し、実行していった綾波レイ
とほぼ同じものだったりする。
 さすがに育ての親娘というところだろうか?
 ついでに言うと、
「シンジ少年のため」
 という一点ですら同じなのであるが・・・・ついでに、最終目標もまた。
(そして・・・できれば・・・その、シンジ君とも、一度ぐらいは・・・)
 具体的な情景まで考えて、様々な汚れ仕事をしてきたはずのリツコ博士は、少女のように
顔を赤らめていた。
(まあ、その、べつに、良いわよね。正当な報酬と言うことで・・・)
 シンジ少年が聞いたら様々に反論はあると思うが、リツコ博士は納得していた。

21章へ続く