第1話 ラサ
 わたしの名前はイリア・スム・ラーサ。
 今は、宇宙世紀0098年、十二月二十九日午後七時である。
 夜の帳もすでに降り、わたしの一家は夕飯の支度をしている。
 ダイニングにある一つのテーブルに、料理が盛られていく。イスは四つ。食事は三人分。
 空席の一つは、兄の席である。
 わたしの父は、地球連邦軍のモビルスーツパイロットである。今年四十七歳になった父はすでに軍籍を退いているが、パイロットとして高い戦績を収めた父の影響で、わたしの兄も地球連邦軍にモビルスーツパイロットとして籍を置いている。
 兄は、ラサでも有名な機動モビルスーツ小隊の小隊長である。ネオ・ジオンの部隊が地上に降下したとかで、南米の援軍として兄の部隊が出動する事になったのである。
 兄のいない食卓は、それほど稀な事ではない。軍人である兄は、帰宅できない任務に付いてる事も多く、三人だけで囲む静かな食卓はよくある事だ。
 だが、誰ともなく不安感をその静けさの中で感じる。兄がラサ軍港から出動してまだ一日だというのに、父や母、そしてわたしを包み込んだ不安はこの食卓を押し潰してしまいそうだった。
 食事を終える。食べた感覚は、まだ無い。味わう余裕を失っている自分に、わたしは気付いた。席を立ち、食器を片づける。
「ちょっと外の風にあたってくるわ」
「イリア。早く戻ってらっしゃいよ」
 母が、振り返りながら言った。父は、いつもの父らしく無言でいる。
 わたしと家族は、ラサに住んでいる。五年前、わたしの一家は復興最中のラサに移住する事になった。連邦軍の士官であった父が、復興中のラサに転属されたからである。最初の二年間は、忙しいものだった。
 わたしは、エレカのアクセルを踏む。
 戦場へ発った兄のエレカである。四輪駆動のマニュアルと、珍しいオフロードエレカではあるが、それもモビルスーツパイロットの兄らしい。
 エレカは夜風を突っ切り、山の頂きに登る。再開発も終えた市街から離れれば、途端に暗い夜空も変わり、宇宙が天空に開ける。高度の高いラサの空気は、薄く澄んでいる。エレカを降りれば、迫るような大きな宇宙が、頭上一杯に広がった。
 東の宇宙を眺める。戦場に赴いた兄の身を案じた。平静を装うゆえに、父も母も家族を思う感情を出せないでいる。それを出してしまえば、家族みんなが不安と恐怖に押し潰されてしまいそうだから。
 わたしは、少しの間そうしていようと思い、エレカに身体をもたせ掛けた。
「……兄さん!?」
 いきなり聞こえた何かに、イリアは振り返った。
 兄の声にも聞こえたそれは、違う。だが、そのイリアを呼んだ何かがイリア自身を圧し包み、なにか得体の知れない凝縮されたような感覚が宇宙から、そして目の前のラサから浮かび上がってくるのを感じた。
 耳鳴りがする。冷たい汗が伝う。吐き気に、イリアはひざを折った。
 不快感が襲う。自分とは異なる無数の誰とも分からぬ意識の流れが、心の中に入り込んでくる。悲しみが押し潰し、憎しみが引き裂いていく。恐怖が重く底へと沈んでいき、虚無が鋭く突き抜けていく。
 そして、意識の大きな流れがイリアの心の水槽を壊してしまうように、膨らんでいく。イリアは叫びそうになる。声は出せない。本当に自分が壊れてしまうかもしれないと、恐怖が沸き起こり、それがさらに心の水槽が中から割ってしまいそうで、恐怖に駆られた。
 それから、切れた。
 耳鳴りが消え、嘔吐感も不快感も失せる。ただ、足が震えて立ち上がれなかった。
 何が、自分に起こっていたのか分からなかった。イリアはただ呆然と、いつもと変わらないラサの光を見ていた。家々の、日常の光を見ていた。
 その一瞬の後、イリアの前から光が失せた。

 宇宙より降りる天の火。
 すべてを焼き尽くす憎しみの炎。
 光のために光は失せ、音は空間の歪みへと消える。
 膨大な熱量を受け、空間が歪んでいく。そして、歪みに耐えられなくなったそれは、崩落と共に光の中へと消えていく。
 衝撃が街を襲い、波動が大地を抉る。ありあまる熱量は上空へと広がり、上昇気流と共に巨大な暗雲を生み出す。
 宇宙から見える雲。その禍々しい姿の下には、業火に焼かれるラサ。そこに住む幾百万という生命と共に、光は地球の中に融けていく。
 後には、悲しみと、憎悪だけが残る。
 そして、暗雲からは、ひとしきりの雨が降ってくる。

 イリアは、身体を打ちつける雨の音に意識を取り戻した。
 あの感覚は、今はもうない。ただ、気の遠くなるような耳鳴りだけが頭の奥に響いている。
 イリアは、身体を起こした。雨の音が静かにやかましい。
 一体どれほどの間、自分は気を失っていたのだろう。空は、もう薄ら明るい。
 いや、違う。まだ、日は昇っていないのだ。ただ、ラサの方だけが、真っ赤に明るく輝いている。
 最初、それがなんであるかイリアには理解が伴わなかった。空を明るく真っ赤に染めるそれは、ラサの街を焼く業火であった。
 炎が次から次へと燃え広がり、煙が眼下を飲み込んでいく。空の黒雲から降り注ぐ灰色の雨がその中へと消えていき、肌を引き裂くような熱気が足元を駆け上がってきた。
 イリアは、エレカに乗った。  フロントガラスを失い、皮の焼けるキナ臭い匂いが充満したエレカは、なんとか動き出した。不確かな四輪が、危なげに地面を捉えて走り出す。
 瞬きを忘れた瞳が、熱気に焦げる。不用意に吸い込んだ大気は苦く、喉と肺を焼いた。だがイリアは、それでもエレカを走らせた。
 やがて広がるラサの街並み、の残骸。
 五年の歳月をかけて立派に復興したばかりのラサは、瓦礫の山となっていた。溶けた大地と、砕けた家々。堅牢に建てられた軍の施設も微塵となっている。
 死の匂いが充満している。黒煙の塊が、イリアのエレカを舐めまわして過ぎていく。息苦しくなるような嫌悪感が肌に張り付く。
 地獄絵図だ。
 生きている者はいるのだろうか。
 いや、いる。一思いに死にそこなった哀れな生命が、瓦礫の中、煙の中、炎の中に幾千と閉じ込められている。
 だが、誰も助ける事はできない。蚊の泣くような、死を引きずるすすり泣きが、やがて弱々しく途絶えていくのを、イリアは感じるだけしかできない。瓦礫の中を低速でエレカを進ませるイリアは、死に行く者を看取ることすら叶わない。
 やがてイリアは、走り慣れた街路の跡に出る。
 崩落した左右の建物が、道を塞ぐ。オフロード用のエレカでも通れそうにない。
 イリアは、エレカを降りた。溶けた大地が、イリアの靴を焼いた。
 凄まじい匂い。凄まじい光景。
 なにが燃えた匂いなのかは分からない。なにがそこにあったは分からない。
 ただ、イリアは歩を進める。すでに心に浮かび上がる予想を認識していながらも、イリアはそのために歩を進めた。
 まるで、そこにそれは最初からなかったかのようであった。
 家は、そこには、ない。
 イリアは、溶けた大地にひざを打ち付けた。

 宇宙から降りる十数個の光。
 ネオ・ジオン艦隊のザンジバラル級である。今しがた連邦の宇宙艦隊を撃滅させたネオ・ジオン艦隊が、マ・クベを司令官としてラサへと降りてきたのだ。
 搭載されたモビルスーツは順次発進し、廃墟と化した地上へ降下してくる。ソーラレイの攻撃を受けたラサ基地に、本来のような高い防衛力はなく、僅かに残る陸戦型ジェガンも無駄な抵抗に終わった。
 元は連邦軍の空港であった滑走路の跡地に、ザンジバラルが着陸する。その周りを、一個大隊に相当するネオ・ジオンのモビルスーツ隊が護衛し、瓦礫と化したラサの街は制圧された。
 ラサに降り立ったモビルスーツの中には、あの黒塗りのギャンもあった。
「マ・クベ少将。ラサを陥落させるためにソーラレイの力が必要だったのは分かりますが、こうして全部破壊してしまったら、ラサを制圧する価値はないのではないでしょうか?」
 強化人間βである。先のラサ上空戦で、連邦艦隊の挟撃を指揮した黒騎士βである。
「……確かに、この状態のラサの戦術的価値は低い。だが、このラサ攻略が持つ政治的、象徴的価値は、地球の半分を制圧するより大きいのだ」
 マ・クベが、ザンジバラルの司令室にあるイスに腰掛けて言った。
「地球は知ってのとおり広い。そして、戦争は戦いの結果だけが趨勢を決めるものではない。我々ネオ・ジオンにとって、地球降下作戦は時間との勝負だ。これからの作戦を円滑にするためにも、まずは敵の指揮系統を撃滅し、連邦軍を混乱させておかなくてはならないのだよ」
 マ・クベが、手元の指令書を取り上げ、立ち上がった。
「β。私は、これより本隊を率いてオデッサまで進攻する。お前には一個大隊を預け、東南アジア方面への進攻を任せる。連邦に立て直すヒマを与えるな!」
「ハッ! 了解しました!」
 マ・クベの指揮官らしい声に、βは踵をそろえた。そして、指令書を受け取ると、βはザンジバラルを後にした。

 βは、マ・クベから授かった指令書をニ、三度読み返しながら、静かに自分の機体の方へと歩いている。空港に降りたザンジバラルから黒騎士のギャンへは、やや歩かなくてはならない。
 黒騎士βが指揮することとなった部隊は、ザンジバラル級が二隻のモビルスーツ一個大隊。その半数は先刻のラサ上空戦で指揮した二個中隊であり、マ・クベの信頼と期待の厚さを感じさせる。
 しかし、指揮官としての強化人間の評価は、その開発が行われて以来、極めて低い。もっとも、ニュータイプ的な資質があるというだけで子供を強化していたのだから、当然といえば当然である。
 だが、強化人間βの存在意義は、そんな強化人間にありがちな弱点を克服するためなのだ。強化人間も、優れた指揮官として活躍しなくてはならない。それが、βに求められている資質なのである。それが出来なければ、また強化されるか、眠らされるか、破棄されるしかない。
 同じように強化人間として、指揮官として、ニュータイプとして大きな戦果を上げているマ・クベ少将の期待に応えられなければ、どうあれβに明日はない。
「……兵士としてあればいいのだ」
 βは、一言そう言うと、指令書から視線を上げた。
 一年戦争時代の記憶は、強化の過程か、コールドスリープの過程かでほとんど失われたようだ。戦場の戦い方だけは鮮明に覚えていたが、自分が誰であり、どこで戦い、なんの為に生きていたかは、決して甦らなかった。
 脈略のない記憶辿りは研究所での楽しみの一つでもあったが、β自身無意味と感じ、今ある戦場の過去以外は、ないものとして認識すると決めた。
 βは、兵士として強化されたのだ。
 無感動が、廃墟と化したラサの街から、脳裏へと広がっていく。
 一夜明けた今でも、炎は燻っている。火災の激しい地域には、ネオ・ジオンの軍隊が消火にあたったが、それ以外のところはまだ炎の音を奏でている。
 そしてその傍らには、悲惨にも生き延びた者たちが、悲しみと憎悪の嗚咽を絶やす事なく地獄の夜を明かした。
 生きた者たちは、漆黒の軍服に身を包んだβを見て、多くの感情が同居した視線で睨み据えたが、βの心には、なにも感じるものが起らなかった。
 βは、それをただの光景として捉えて歩いていった。漆黒に塗られた愛機が、崩れた家々の向こうに聳えているのが見える。それさえも無感動に見やったβは、不用意にも足を止めた。

 目の前に、一つの塊がある。真っ黒い灰に包まれた、人影だった。
 赤い髪をしている。地獄の一晩で積もった黒い灰を洗い流せば、それなりに艶やかな赤い髪だろうか。
 身に付けた衣類にたいした事はない。悲惨な生き残りと同じく炎に焼け、衣類に覆われていない肌身は、熱と炎にさながらボロ雑巾のように黒ずんでいた。
 女は、自分を見る視線に気付き、頭を上げた。
「わああ!」
 悲鳴のような叫びをあげると、女は爪を立てて飛び掛った。が、素早く身をかわしたβに手首を捻られると、焼け焦げた地面に背中を打ちつけた。
「小娘! 死にたいか!」
 βは腰の小銃を抜く。銃口が倒れた女の頭蓋にあたり、冷たい感触を与える。
 だがβは、その喧騒を察した生き残りどもの視線を感じた。ここでこの女の脳みそをぶちまけるのは簡単だが、後で占領政策に支障をきたすのは避けたほうが無難かもしれない。廃墟でも、ラサはラサだ。
「死人が一人、二人増えたところで、なにも変わったりなんかしないでしょう」  女は、頭にあった硬い感触が離れるのを感じると、βに聞こえる程度の声でそう言った。というよりも、昨夜の熱気を吸い込んで喉をやられているのだろう。
「フッ。死んで楽になりたいのなら、私でなくてもいいはずだ」
 βは小銃をしまう。そして、一歩身体を引いた。
「あなたが! 憎いのよ!」
 女は、そう言った。
「私がか? だったらどうする? 本当に憎いなら、本気で殺してみせろ」
「言われなくったって……」
 女の赤い瞳がβを見上げた。灰で黒くなった肌に浮かぶ白い目と、その中で輝きを放つ赤い瞳は、憎しみを浮かべていても殺意を浮かべてはいなかった。
「無理だな。哀れでしかないお前に、私は殺せない」
 女は、ギリッと歯を噛みしめた。βが、感情のない瞳でそれを見下ろしている。
「クククッ。帰る場所をなくして死にたいのなら、楽になりたいと思う前にその憎しみで一人でも多く地獄に引きずり込んでみせろ」
 βは、含み笑うと、皮肉な口調で言った。
「あはたは……、わたしに殺される」
「結構だ。殺したい時に殺してみせろ」
 女の赤い瞳に、一瞬殺意がこもる。βはその殺意を感じ取ると、面白いものを見たように唇の端をもたげ、女に背中を向けた。
「だが、このラサには誰も留まらない。お前がどれほど私を憎み、どれほど私を殺したいと思っても、ラサには機会はないぞ」
 背中を睨み据える女に、βは言った。
「立て。来い」
 女は、立つしかなかった。足取りはふらついたが、βはそれを手助けするつもりはなかった。
「名は?」
 左手にある黒塗りのモビルスーツ。目の前には、ネオ・ジオン軍のザンジバラル級巡洋艦。うだつの上がりそうにない一人の軍人が戦艦から迎え出る。
「……イリア」
 βがその軍人に指示を出す。左手にあったモビルスーツを艦内に収容させるつもりなのだろう。数名の軍人たちが、彼の指示に従う。
「イリア・スム・ラーサ……」
 イリアは、そう言ってタラップを登り、戦艦に乗った。
「そうか。私には名前はない。好きに呼べ」
 βは、そしてザンジバラルに乗り込んだ。

 ブライト・ノアは、複座のジェット戦闘機の後席に座っている。
 ラサからホンコンの九竜基地までのフライトの間、ブライトはずっと眠っていた。飛行は前席のパイロットがやってくれている。
 モビルスーツ全盛のこの時代に、戦闘機乗りは影を潜めていている。それでも制空権を得るためには優れた戦闘機が必要なのであり、地球を支配する地球連邦軍がその性能向上を完全に忘れているわけではない。空戦を行うならば、まだモビルスーツより戦闘機のほうが性能が上だからだ。
 モビルスーツに用いられる多くの技術が、戦闘機の範囲で応用されている。全天周モニターは当然だし、前世紀の戦闘機と比べれば破格の性能アップを遂げている。
 さりとてモビルスーツに戦場の主役を交替した戦闘機の役目と言えば、司令官の緊急移動ぐらいなものなのである。この戦闘機が複座になっているのも、そういう事情のためなのである。後席は、客席だ。
 戦闘機がランディング・ギアを下ろす。九竜の軍用空港だ。耳に響く管制官の声で、ブライトは目を覚ました。
 ブライトも、今ではこのホンコン九竜基地の司令官である。着陸した時に、隊員たちの前で寝ぼけた顔はできない。
 滑走路が真下を滑る。どうしても不安にさせる音を立てて戦闘機は着陸すると、スルスルと停止した。
 陥落したラサ。
 宇宙のネオ・ジオン軍から、ソーラレイの地上照射をうけ壊滅したラサは、今頃ネオ・ジオン軍の降下部隊に制圧されている事だろう。
 ブライトが、南米ジャブローを制圧したネオ・ジオン軍に対して、九竜基地の防衛を強化するために一旦任地に赴くジェット戦闘機に乗った、一時間ほど後の事であった。
 燃え盛る巨大な火柱は、飛行中のモニターからも確認できた。
 もはやラサには基地としての機能は残っておるまいから、そこに降下したネオ・ジオン軍は、拠点を求めて近隣の基地に怒涛のように襲い掛かるだろう。アジアとヨーロッパを含めたユーラシア大陸が、一気に戦場へと化す。
 ホンコンの九竜基地もその例外ではないはずだ。
 敵は、司令本部を失った地球連邦軍に対して、電撃的な侵攻作戦を展開するだろう。未だ防備の調わないアジアの各基地を蹂躙し、このユーラシア大陸から連邦勢力を一掃するつもりだ。
 ジェット戦闘機のコクピットから降り立ったブライトは、即座に出迎える副官たちに命じる。
「至急近隣基地に連絡を入れろ! 共同して防衛ラインを築き、ラサ降下部隊の進攻を食い止めるとな!」
 慌てて走り出す副官の一人。ブライトは歩を止めず、滑走路を司令室の方へと向かって行く。ホンコンはそもそも狭く、その中の九竜基地も地理的重要度は高くても、防衛に適するほど堅牢とはいえない。補給路を失えば、陥落は目に見えている。
「モビルスーツは今すぐ出撃できるようにしろ! 各兵科準備怠るな! 陸上機動艇の出動もあるぞ! 使える兵器は全部かき集めろ!」
 おそらく、九竜基地の戦力だけでは進攻するネオ・ジオン軍を迎撃する事はできない。無論、それは他の基地も同様だ。各個に戦っていても意味はない。
「では、大佐。この基地の守備隊でネオ・ジオン軍の進攻を迎撃するのですか?」
「他に手があるのか」
 そもそも、こんな地上のせせこましい基地で敵の襲来を待つより、こちらの有利な地形で敵を迎撃した方がいいに決まっている。その際に、近隣基地から援護の部隊があれば、戦力的にも対等に戦えるというものだ。
「ですが、この基地の防衛は? 大佐のご家族は、このホンコンに……。今は、ホンコンもジオン降下の煽りで治安が……」
「そんな事に割ける兵員はない。ホンコン市警に任せるしかないな」
 俺も、戦争が肌に染み込んでいるのかもな。
「連邦軍は、開戦以来ずっと後手だ。これ以上奴らの好きにさせるわけにはな」
 確かに、アジアから連邦の勢力が一掃されてしまえば、それだけでもネオ・ジオンの進攻を助長してしまう。上陸作戦は非常に大きな負担を要する。ホンコンを失っても、東南アジアの一帯を死守できれば、連邦軍の大きな橋頭堡となるはずである。
 それから、九竜基地は一気に殺気だった喧騒に包まれていった。軍装を整える兵士。物資を搬入する陸戦艇。モビルスーツは武装をまとい、甲高い機動音とともにその両の足で大地を捉える。
 そして、一年戦争から死線を戦い抜いてきた一人の英雄が、ついに立ち上がる。
 もうアムロはいない。ガンダムもない。
 だが、両の翼を失おうとも、ペガサスは戦場に舞い戻るしかないのだ。いつの頃からか彼は、戦場で生きる性と運命を背負っているのだ。

 ジャブローから、ダカールへ衛星通信が結ばれている。
 一人の美しい女性と、覇気の失われた数人の男たちが話をしている。
「そうですか……」
 その気品湛えた美しい女性は、やや低い抑揚のない声でそう言った。
「お、お待ちを! クィーン・ミネバ!」
 男どもは、その声に震えて叫ぶ。彼女は、押しかけていたボタンを一度だけ止める。
「ネオ・ジオン帝国の承認は良しとしても、スウィートウォーターへの支援再開、サイド3の割譲、地球連邦軍の即時武装蜂起、無条件降伏。どれも一筋縄ではいきませぬ。まずは軍と協議して……」
 男どもは、民主主義の蔓延と官僚政治の腐敗が生み出した、クズどもだ。誰にもミネバの心意は分からない。ただただ、彼らが手に入れた利権を失いたくないために、こうして終戦協定を持ちかけてきた。
「…………」
 沈黙。
 この恐ろしい沈黙が、男どもの背すじを凍らせる。
 ミネバの容姿は、このミノフスキー粒子で乱れた映像の中でも、輝くように美しく、そして恐ろしいほどに冷たい。一度とて笑みを浮かべなかったその容貌は、まるで魂のないように冷然としたものであった。
「……連邦政府高官諸君。わたしは、待ってはいない……。我がネオ・ジオンが出すすべての要求に応えていただかねば、この終戦協定も無かった事……。ジャブローもラサも落ち、あとはダカールだけ……」
 男どもは、震えて言葉も出ない。玉のような汗を浮かべている者もいる。恐怖に歯の根もあわない者もいる。男どもは、心を失った。
「ふふふ。それでは……」
 ミネバは、最後に、微笑んだ。だがそれは、宇宙の闇のように冷たかった。
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第2話 平原のコヨーテ