第3話 クィーン
 彼女は、宇宙を眺めていた。
 もしかすれば、明日の朝には自分は天の火に焼かれ死んでいるかもしれなかったが、彼女は一晩中宇宙を眺めていた。
 だが、アクシズは地球には落ちなかった。彼女の幼い記憶を残すそれは、夜空に輝いた生命の輝きによって弾かれたのだった。
「……シャア」
 その時彼女の心に去来したのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ冷たい虚しさだけだった。また一人、彼女の側から離れ宇宙に散っていったのだ。彼女は涙なく泣いた。
 それから半年ほど経った頃だった。執事が、見知らぬ一人の男を連れて現れたのは。
「ご機嫌麗しゅうございます。ユア マジェスティ クィーン ミ……」
 男は彼女の前に跪くと、慣れないふうにそう言った。
「良い。貴公はそのような世辞を言いに、生命を賭けて地球のこんな片田舎に来たわけではないのだろう……!」
 彼女は若干不機嫌な表情を浮かべると、目の前の男に言った。
「……ハッ。私はネオ・ジオンモビルスーツ中隊長、ハント・オーデ少佐であります」
 男は名乗ると、心中を明かした。
「クィーンもご存知通り、連邦のロンド・ベル隊の前にシャア総帥は敗れられました。艦隊は寸断され、敵の追討軍の前に生き残った部隊も僅かとなりました。このままでは我々は全滅です。そして、我々に協力したスウィートウォーターの住民も死を待つより他はありません! どうかクィーン! どうか!」
「……わたしは立たぬ!」
 ハント少佐の言葉に、彼女は腰掛けた椅子から立ち上がると、穏やかに、だが鋭い声で言った。
「わたしが立ったところで、怒りと悲しみ、そして虚しさを生むだけだ。貴公の懇願。我が心に刺さるが、わたしは立つわけにはいかぬ」
 そう言いつつ彼女は男に背を向け、窓の外に視線をやった。格子窓の向こうは静か過ぎるほどの闇夜だった。
「しかし、クィーン! こうする間にも、幾人もの兵士たちが……!」
「黙らぬか! わたしは立たぬと言ったのだ! シャアは死んだ! ネオ・ジオンは滅びたのだ! それでいいのだ!」
 彼女は怒声を放った。だが、ハント少佐は語気を強めると、彼女に詰め寄った。
「なりません! クィーン! ネオ・ジオンは滅んでなどいません! ……ネオ・ジオンはクィーンを求めているのです! クィーンさえ立ち上がられれば、各コロニーのジオン派も再起することでしょう! 兵士たちは進んで戦地に赴くことでしょう! 再び正統なるジオンの光を示せば、世界を腐敗と横暴で支配しようとする地球連邦を必ずや滅ぼせます!」
 ハントの声が部屋に響いた。彼女はハントに振り返ると、怒りに唇を震わせて叫んだ。
「貴様、まだ言うか! わたしは立たぬと言ったのだッ!」
「クィーンは、ネオ・ジオンを見捨てるおつもりなのですかッ!?」
「ええい! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇッ!」
 彼女は激しく頭を振って叫んだ。茶色の長い髪が典雅のように舞った。
「少佐! わたしが立てばどうなる? わたしが立てばどうなるのだ! 結局また多くの人間が死ぬだけではないか! 生命が、無駄に散るだけだ!」
 ハント少佐は思う。これはやはり、ただの小娘ではない。十五、六歳の少女に考えられる事柄ではない。さすがは血のなせる業というものか。
「……ならば、クィーンは地球連邦の横暴を許されるとおっしゃるのですか!」
「良しとはせぬ! だが、わたしは立つわけにはいかぬのだ!」
 彼女はそう言って、静まり返った夜空を指した。
「貴様はシャアの最期を見なかったのか! あの光は、地球に生命を吸われた者の光だ! あれは地球に魅入られ死んでいった者たちの最期の輝きだ! わたしは、もはやあんな光を見たくいない。たとえ、連邦が虚偽と驕慢を並べようともな!」
 余韻が響いた。ハントはその余韻を噛みしめながら立ち上がった。
「わかりました、クィーン。今はこれ以上申しません。ですがいずれまたここに現れます。その時こそは、我ら流浪するスペースノイドを導いてください……」
 ハントはそう言い残して去っていった。おそらくは、戦場へと。

 その日から、様々の情報が彼女の耳に触れるようになった。連邦政府の腐敗政治、ジオン派コロニーへの援助の打ち切り、連邦の軍事力に屈するサイド6。それら有形無形の情報は、彼女の住む屋敷の執事から暗にもたらされるものだった。
「……貴様は、このわたしに戦争をやらせたいのか? そのためにこのような手の込んだマネをするのか?」
 執事の面には、大きな傷が走っている。紫色の髪に混じった銀髪が、彼の重ねた年の数を推し量らせた。
「……いえ。まさか、そのような……」
「フッ。貴様はかれこれ十年近くわたしの側にいるのだぞ。わたしに、貴様の見え透いた魂胆が分からぬとでも思っているのか? わたしは、あの男にも立たぬと言った。わたしは、人前に姿を曝してはならない人間なのだよ……」
 彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。この人里離れた土地には数年前から移り住んでいる。
 彼女は、生まれたその時から「血」という名の呪縛に縛られているのだ。それも、一族がこの地球圏にばら撒いたすべての業を背負わされて。
 そしてなにより、彼女自身が自らの存在を恐れているのだった。彼女が立てば、それだけで再びネオ・ジオンは地球連邦との戦争状態に陥るだろう。コロニー群の支持を得られるかは分からなかったが、更なる生命が散る事には変わらない。
 まして彼女が、一族の業を背負ったままで、「血」という呪縛に精神を縛られたままで、今まで以上のなにが得られるというのか。結局彼女にとって、この呪縛と業を解かない限り、再び歴史の表舞台に立つわけにはいかなかったのである。
「……もはやこの血筋は絶えねばならないのだよ。流された多くの血の上に脈打つ血筋だ。滅びるに限る……」
「…………」
 彼女の言葉に、マ・クベは無言を返した。
 だが、地球連邦の圧政に苦しむスペースノイドの声は、彼女の心境に変化を与えた。それは宿命なのかと、自分の心に問いかけた時、彼女の心はそれを否定した。
 彼女自身の心が、それを求めたのだ。
 初めて彼女の下を訪れてから六ヵ月後、ハント少佐は再び彼女の前に現れた。
「……フ。わたしは宇宙に住む生命に魅入られ、地球に住む生命の中に墜ちる運命のようだ。……ハント少佐。わたしは宇宙へ行く。案内を頼めるかな?」
「では、クィーン自らが……」
 ハントは涙に咽びながら言った。いくらも痩せたその背中が、この数ヶ月間の苦労を滲ませた。
「そういう事だ。行き先はスウィートウォーター。わたしの民を解放する」

 彼女が訪れたスウィートウォーターの実情は、彼女の想像をはるかに上回った。
 コロニー全体に腐臭が満ちていた。浄化しきれない空気は重く、まずい。濁った水には病原菌が湧き、伝染病の温床となっている。そして、満足に整わない食糧に、そこら中の子供が飢えていた。
 住民たちの反応は複雑だった。失意の底に埋もれた彼らにとって、今の生活を営みきるのが精一杯であった。だが、一人、また一人と賛同者が現れるうちに、住民たちの反応は変わっていった。このどん底の暮らしを一変させたいという心が芽生えたのだった。
「ハント少佐。これからわたしは各コロニーを回る。地球連邦政府の圧政に苦しむコロニーはここだけではない。各地のジオン派に呼びかければ、再びスペースノイドの独立を勝ち取るのも不可能ではない。……マ・クベ!」
 彼女はそう言うと、一人の男を呼んだ。彼女の屋敷で執事を務めていた男だった。
「まさか、あなたがマ・クベ少将なのですか?」
「……なにか問題でもあるのかね、ハント・オーデ少佐」
 マ・クベは唇の端を持ち上げると、驚くハント少佐にそう言った。
「ここスウィートウォーターは貴様に任せる。それから、月を忘れるな」
「ハハ。このマ・クベ、しかと承りました」
 彼女はその日のうちに出立した。ネオ・ジオン再興の道のりを、彼女は今歩み始めたのである。

「……我々の道のりは長いものである。そして、我々は未だその道のりの出発点に立っただけに過ぎない」
 彼女の声がコロニーに響いた。声はさらに続く。
「これは連邦の政策に反発したコロニーの反乱ではない。スペースノイド一人一人のための聖戦である。我々は、ネオ・ジオンとして地球連邦政府に独立を要求した。だが、彼らの返事はなかった。これは、彼ら地球連邦が我々スペースノイドの存在を軽視している証拠である!」
 彼女がスウィートウォーターを訪れて四年。あの地球連邦の傲慢を許す事になったシャアの敗北から、すでに五年が過ぎようとしていた。
 年月は彼女を変えた。うら若い早乙女は、美しく可憐な美女に変わったのだ。
「わたくしネオ・ジオンのクィーン、ミネバ・ラオ・ザビがここに宣言する! 我らネオ・ジオンは、必ずや地球連邦の圧政と搾取を排除し、スペースノイドのスペースノイドによる独立を勝ち取る事を! ……ジーク・ジオンッ!」
 コロニー中にその言葉が響いた。それは、スペースノイドの生命の言霊であった。そして、地球と宇宙は、新たな生命の輝きを見ることになるのである。
 時に宇宙世紀0098年、十二月二十二日のことであった。
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第4話 勃発