樣々な戦争協力

お国のための徴兵検査 皇国のためにする祈り 宗教報國會
カトリック教会の戦争協力 戦争責任と謝罪文
お国のための徴兵検査

 日本の男子は満20才になると徴兵検査を受ける義務が課せられたが、徴兵検査
は身体、身上について行われ、甲・乙・丙の3種に分けられ、兵役原簿に記入され
た。この原簿は各都道府県にある連隊区司令部に保管された。原簿を下に、在郷軍
籍人名簿(軍名)が新たに作られ、これに本籍地、現住所、氏名、生年月日、学歴
のほかに、これまでの職業、徴兵年次、役種、兵種(歩、騎、砲、工、輜重、衛生
の別)体格および特技など軍務に関する一切が記載された。

 この原簿から誰を招集するかの権限は、連隊区司令部に属したが、連隊区司令部
では、金品と引換えに、原簿の破棄や兵役に耐えられない病歴の記載等の不正が行
われた。招集を逃れた者の職業をみると、軍需景気で儲けている人や会社の重役が
圧倒的に多く、その他配給業務に携わる幹部、料理屋の主人、群を抜く地名人であ
った。

 まさに「地獄の沙汰も金次第」とはこのことである。"名誉ある招集令状"は不名
誉な手段によって悪用されたわけである。
資料=『新聞集成・昭和史の証言』第18巻497頁
皇国のためにする祈り

○○(大阪教区所属)です。
毎日新聞(01/10/31 朝刊:「余禄」)で紹介されていたものです。
マーク・トウェインの「出兵の祈り」にあるのだそうです。

教会では牧師が旗と国に対する献身的愛情について説教し、神の助けを求めて戦い
の神に祈った。日曜の朝、顔を輝かせた志願兵たちと身内や友人を前に祈祷が始ま
った。慈悲深い神が若い兵士たちを元気づけ、危険から守り、旗と国に栄光を授け
るだろう、と。

そのとき年配の外国人が入ってきた。外国人は言った。


神はお前たちが望むなら祈りをかなえようというご意向だ。人間の祈りには口から
出た祈りと口から出なかった祈りと二つある。神の耳には語られなかった祈りも届
いた。それは、こんな祈り。

神よ、愛国者たちが出兵します。力をお貸し下さい。
敵の家を炎で焼く手伝いをして下さい。
敵の罪のない未亡人の心を、悲しみで締めつける
手助けをして下さい。
敵を幼い子どもたちとともにぼろ着のまま飢えと
渇きにあえがせ、荒れ果てた不毛の土地をよるべの
ないままさまよわせる手伝いをして下さい。

なんじはそう祈ったのだ


1904年ごろの文章だそうです。たしかに教会は、そのように祈っていたので
すね。日本の教会も同じように祈っていました。
(1937年「皇国のためにする祈り」)

ああ天主、我らは主の御前に平伏し、光輝ある我が大日本帝国に生まれ出たる幸
いを、深く主に感謝し奉る。主は主の御栄光の為に、我が国に極東における特殊
の使命を与え給い、建国以来2600年の間、常に天佑と神助とを以って我が国
を守り給えり。

我らいかにして主の祝福に報いんや。我等はこれによりて常に感謝に溢れて、天
皇陛下に忠誠を誓い、聖寿と無窮と竹の園生のい弥栄とを祈り奉り、一旦緩急あ
る時は義勇公に奉じて、ますます国威を中外に宣揚せんと欲す。

願わくは我等の尽忠報国の真心を祝し給え。又天上の真理の光を我が国の上に輝
かし、救霊の御恩恵をあまねく我が同胞に注ぎ給え。かくて大いなる平和の内に、
外に対しては官民心を一にして国運の発展を計り、内にありては上下相和して太
平の地を楽しむ事をえしめ給え。我等の主キリストによりて。アーメン。

「公教会祈祷文」昭和12年10月1日発行、189ページ。
「カトリック教会の戦争協力・神社参拝」より
宗教報國會

 宗教団体と宗教者の戰時協力体制として発足させられた(実質的な
強制)宗教報国會は碁督教局、仏教局、神道局の三局で構成されて居
ました。軍部は大戦時に侵略或いは進駐した外地を宣撫する為にも、
是等を利用して居た訳です。

 碁督教局幹部であった故・志村辰弥神父によれば、公教会からは支
那や東南アジア等にに派遣されたそうです。占領地の住民を宣撫する
為には宗教が適当であろうと考えた軍部の要請に従ったものです。
 活動の機会を大きく制限されていた公教会としては、何であろうと
も宗教活動が出来る事は喜びであった。しかし、派遣先では日本兵が
修道女を辱める等に遭遇しても制止すら出来ず、現地の教会に対して、
何事も我慢して耐え忍んでくれと言うしか術が無かった。

 志村神父は楽天的な人物であり、派遣前には軍刀を持参しようと考
えた程に勇んで居ましたが、支那に於ける宗教者としての無力さに遣
り切れない思いであったろう。戰時協力の前には宗教は宗教ですら無
かった事が、宗教報国會が公教会の暗部でもあり恥部でもあった。
「カトリック教会の戦争協力」
1999/10/16 講師;青木静男神父(東京教区)


いま一番大切だと感じることは若い人に話すことの必要性です。これからの日本
と世界の明日を担う若い人を私は頼りにしております。これは、逆から考えれば、
自分がそういう年齢になったということでもあります。

今日私がお話ししたいことはカトリック教会が代表して日本を考えるということ
についてです。日本のカトリック教会がカトリック教会の将来ではなくて日本の
国の将来を考えることこそ必要なのです。

これからの時代は否応なく世界交流の時代となるでしょう。こうした時代になに
を考えねばならないかはある意味できわめて簡単なことです。それは世界の人々
がお互いを尊重し仲良く暮らすにはどのようにしたらよいかということです。

私は最近福音のすばらしさを改めて感じています。イエスが説いた福音は、いつ
の時代にもどこの人にも通用するものです。福音はものの考え方の原理原則であ
り、単なる知識ではなく知恵を人間に与えます。私がキリスト教を他の方々に紹
介するのはこの福音が人間的に役に立つからだと思うからです。

幸せ、幸福ということは誰でもが希求することではありますが果たしてそれは客
観的なものでしょうか、あるいは主観的なものでしょうか。信仰は本来自由であ
りますから、それを信じるか信じないかは受け止める人によるでしょう。しかし
自分が幸せと感じればそれでいいのだ、他の人のことは知らないという態度は極
めて自己本位でしかも危ういものなのです。平和や幸福は絶えずそれを脅かそう
とするものと戦い、勝ち取っていかなければ、ある日突然奪われるものなのです。

私自身、もし戦争があと何ヶ月か続いていたら特攻隊として命を落とすところで
した。また、こうしたことが過去の出来事でないことは、コソボや東チモールの
事態をみれば明らかなことです。

神は、人種、民族、宗教の違いを越えてすべての人間を救おうとしておられます。
本日の講話の目的は話を聞いたことをきっかけにしてここにおられるみなさんの
お一人、お一人が平和にまつわる問題を考え始めることです。

今からお話しする話の内容・解決は一朝一夕ですむ話ではありません。私はこの
話を平和のために生涯活動し続けた相馬司教の名古屋教区で若い高校生を含めた
方々を前にできることに大きな意味を感じております。是非、これを機に「平和
をもたらす人は幸い」というイエスに従って、平和のために働く人が一人でも増
えることを願っています。


新たな世紀を目の前にして

今一番大きなことは新しい世紀を迎えようとしているということです。この新た
な世紀を迎えるに当たって私たちは過去の歴史を総括する必要があります。

日本は明治期以降、軍事国家への道を走り続け、人間を人間とも思わないことを
してまいりました。日本は過去においてアジアの人々をはじめ世界に大変な迷惑
をかけました。このことを未だはっきりさせていないのが日本の現実だといえま
す。

このような日本とカトリック教会の体質は似たところがありまして、かつてカト
リック教会も過去に犯した過ちを絶対に認めませんでした。しかし、1962年
に開かれた第二ヴァチカン公会議で過去の方針を大きく改め、教会のあり方を根
本的に刷新することになりました。ヨハネス23世教皇の「窓を開ける」という
象徴的な言葉で始められたこの会議によって、教会に新鮮な空気も入ってきまし
たが、よいものが失われ、悪いものも入ってきたという面もあることは見逃して
はならないことです。2000年の教会の歴史には悪いこともいっぱいあったこ
とを認め、検証していく必要が教会にはあります。

他方、日本は終戦になっても昔と同じような道をたどろうとしています。先ほど
日本とカトリックの体質に似たところがあるともうしましたが、それは権威主義
的体質といってよいでしょう。一般に権力に人間は弱いものです。しかしこの権
力はそもそもキリストに反することなのです。

若者は権力に抵抗する傾向がありますが、また、そうする必要もあるのです。
ものをいうべき時に相手が誰であれいうべきことをいうことは極めて重要な使命
です。私たちは洗礼を受けたときキリストについていくと約束したのだから、キ
リストの福音に基づいて権力に足して異議申し立てをする使命があるのです。


教会の歴史

カトリック教会も中世には、魔女狩りに代表されるように人間を人間とも思わな
いことをしてきました。また、当時のカトリックの硬直した体制からプロテスタ
ントが生じたのも無理はないことでした。現ローマ教皇もそのことを指摘してい
ます。カトリック教会の代表者が歴史を振り返り遅まきながらいうべきことをい
っております。

このような発言がどうでもいいことなら、いうべきことがないならキリスト信者
でいる意味はないと思います。あえて私たちがキリスト信者として踏みとどまる
理由は、キリストが宣べ伝えたメッセージをこの社会、世界で宣べ続けること、
非福音的な価値観に異議申し立てをするためではないでしょうか。

世界的規模のキリスト教全般にいえることは、日本にも当てはまります。かつて
日本のカトリック教会はキリスト教的でない振る舞いをし、戦争に協力しました。
「積極的に協力したわけではなかった」と言っても、言い訳にはなりません。歴
史の事実として客観的に日本のカトリック教会、プロテスタント教会は戦争に協
力しました。

現在、再び日本は来た道を戻ろうとしています。そういう気配、気(ケ)があり
ます。気とはもののけのケのことで、本来は神以外には取り去りようがないもの
です。その悪は荒療治しなければならないものなのです。

私は、日本はとても美しい国だと思っています。しかし、この美しい日本には極
めてキリストに反することがあります。これは涙をのんでも取り去らなければな
らないことです。それが日本のキリスト教徒に託されている使命だと私は信じて
います。ひるがえって、このような使命を果たすことがイヤならキリスト教徒を
やめればいいし、やめても救われないわけでもないと私は思っています。

今日はここに「カトリック教会の戦争責任」と題する本を持ってきています。
お集まりのみなさまには是非本を買っていただきたいと私は望んでいます。本を
買うことには二つの意味があります。一つは自分で読んでこの問題に関する理解
を深めることができます。二つ目は仮に自分は読まなくても買っておいておけば
誰かが読んでくれるかもしれない可能性があるということです。

この本ではかつて日本のカトリック教会がひた隠しに隠してきたことが明らかに
されています。この本は、かつて日本の教会当局、指導者たち、そしてヴァチカ
ン当局が出した文書が直接引用されています。この本には客観的な事実が記載さ
れているだけです。特定の意見とか見解、思想が展開されている訳でありません
から、内容に賛成するか、しないかではなくそれが事実かどうかを確かめるだけ
でよいのです。



それでは本日のテキストに入りましょう。

このテキストは今日みなさまにご紹介した本のさらに抜粋ですが、おそらく時間
がないので一つ一つをここでよくよむことはできませんから、あとでゆっくり読
んでください。



1 
陸海軍軍人に賜はりたる勅諭 1882年

明治政府誕生後、まず最初にしたことは富国強兵策でした。まず第一に、軍あり
きということですが。軍というのは日本人の血を騒がせるものがあるのです。も
しも、日本が武器を持たなければ戦争を始めなかったはずです。

このようなことを教えることは究極には教会の責任だと考えています。学校でも
親でも教えないことを真に教育するべきは教会の使命です。しかし教える前に学
ばなければなりません。すべてに越えて軍隊を選んだというのが明治政府です。
民主主義は人権を大切にしますが、軍隊は国家権力を大切にする暴力組織です。

人権か国権かどちらかを選択するとしたら、人権を大切にしなければなりません。
なぜなら人間は神のかたどりだからです。神の似姿として造られた人間の尊さ、
すなわち人権を侵害させてはならないのです。この問題は現在の問題でもありま
す。コソボ、東チモールに私たちは人権が損なわれている事例をみることができ
ます。

私たちは平和を享受する(楽しむ)だけでなく、平和のために働かなければなり
ません。もちろん平和を享受するほうが楽に決まっています。しかし、平和は奪
われやすいのです。自分だけではなく、子供、孫まで平和を味わうことができる
ようにしようとすれば、平和が奪われることを阻止するために働くことが大切な
のです。

そして、このことは男性の問題というだけでなく、女性の問題でもあるのです。
自分の愛しい人が人殺しになることは悲劇ではありませんか。

わたしは憲法の改悪の次は徴兵制が来ると見ています。もうその時代が来ようと
しているのです。手遅れになっては遅いのです。



2 
大日本帝国憲法 1889年

天皇の3権とは統治権、統帥権、祭祀権のことです。

統治権は君が代、統帥権は日の丸のことだと言えば、国旗国家法案の裏にあるも
のが透けて見えてくるようです。君が代とははっきりと天皇の支配する代のこと
でありますし、日の丸は日本が占領した地域に最初にはためくものでありました。



3 
教育ニ関スル勅語 1890年

一旦緩急あれば、天皇のために死ねというのがこの勅語の内容です。今ではさす
がにそんなことはないだろうと思っていると、有事立法ということも出てきてい
ます。国家の一大事となれば、アメリカと一緒なら、アメリカの後ろからなら戦
争をし、その為に死んでもやむなしということでしょうか。



5 
日清戦争始まる 1894年

日本の国土は狭く、人口は多いという環境からか、日本は絶えず、国外、大陸に
進出しようとする傾向があります。昔は日本単独で進出して敗戦と言うことにな
りましたが、今は集団で、国連の名で戦争や支配に加担しようとしています。国
連は絶対に正しいことを行っているとナイーブに信じ込むことも危ないと思いま
す。

かつての帝国主義、国家主義は世界の流れに逆行するものです。現代世界におい
ては情報、交通は国境を越えています。

第二次世界大戦後ハーグで平和会議が開催されたとき、日本の平和憲法が採択さ
れました。当時日本国憲法は全世界から支持を受けたのでした。しかし憲子ちゃ
ん(日本国憲法に愛着を込めてあえて「のりこ」と呼びます)は今死にそうです。
見る目のある人が見ればわかるすばらしい憲法なのにそれを持っている本人が殺
そうとする悲劇的なことが起こっているのです。

私は靖国神社のありかたに反対し続けて参りましたが、一言で靖国神社とは侵略
戦争のために人殺しをした人をまつり、そうした人を神として参拝する神社なの
です。

また先ほど成立した盗聴法は平和運動をつぶそうとしております。国家の政策に
とってじゃまになる人の身辺を調査し、通信を傍受し最終的には拘束することを
ねらっているのです。



19 
全日本教区長共同教書 1935年

この本に掲載されております資料を順に追ってみて参りますと日本の教会の戦争
協力のプロセスが分かります。最初は積極的ではありませんが、やがてはなりふ
り構わず戦争協力の道をたどっています。

青年の取り柄は正義感です。ですから大義名分を説かれれば、純粋にそれを信じ
るところがあります。

私たちは教会の個々の指導者を裁くのではありませんが、他方で善意からこのよ
うなことをしたとしても結果は悪いものであったということははっきりさせてお
かねばなりません。

問題意識があって命を懸けてやるべきことを見いだしたから一心にやるという精
神構造は今も昔も同じところがあります。私は戦争に加担した当時の人々を批判
している訳ではありません。しかし、一本筋を通しておかなくてはならないのは、
根幹は平和あってこそだということです。

高校生のみなさんの学生生活だって平和あってこそです。ひとたび戦争になった
らなにもかも手遅れになります。そういう事態は想像しにくいかもしれませんが、
コソボや東チモールでは現にそうしたことが起きております。

この大きな社会のうねりに対して自分一人が立ち向かっていってもなにも出来は
しないという無力感に捕らわれるかもしれません。しかし私たちの背後には神が
おられるのです。自分一人の力でやるわけでは決してないのです。最初から平和
や人権を損なう力と戦う意志のない人は論外ですが、平和への戦いは神の加護が
必ずあるのです。

また平和の問題に関していえば、無関心は客観的に戦争推進派に味方しているこ
とになります。中立はこの問題にはあり得ません。戦争推進派は無関心の人をわ
ざと作ろうとしています。ガイドライン法が国会で可決成立したとき、重大な曲
がり角を日本が曲がったとマスコミは知らせるべきでした。マスコミはいつも客
観的な事実を報道しているのではなく、大衆を操作していることが多いのです。
ガイドライン法の成立を知らせる新聞の一面には、朱鷺の赤ちゃん誕生のニュー
スがカラー写真までつけて掲載されていました。聞いた話によれば天皇の即位式
に朱鷺を使うので、日本は莫大な費用をかけて朱鷺を絶やさないようにしている
ということです。うがった見方かもしれませんがガイドラインが通ったときにそ
の朱鷺の雛の写真を一面に出すのは、何かそこに意味を込めていると思えないで
しょうか。

今はこのようなことを心から危惧して警鐘を鳴らしておりますが、こうした活動
に対して教会の外部の方から反対を受けるのではなく、教会の内部、いわば身内
が敵となって運動を潰しにかかってきます。同じ信仰の仲間から白い目で見られ
ます。こうした目に遭うのは生身の人間にはつらいことです。自分の力だけでや
ろうとするとすくんでしまいます。

しかし、皆さん、たとえ少人数であったとしても、平和のために働くことは神の
業をおこなうことです。神は必ず力を与えてくださると私は信じております。現
実的に手を貸してくださいという祈りをするのです。

ここに信仰を持っているものと持っていないものとで現実の見え方の違いが出て
きます。人間の目から見たら絶望的とみられることであったとしても、神に信頼
するのです。神の業を行っているにも関わらず神が力を貸してくれないはずはあ
りません。

戦時下の日本で戦争反対の運動をすることは、教会の信者全員を窮地に追い込む
ことであって、教会指導者の立場から考えればなかなか実行できなかったことだ
ったのでしょう。しかし、だからといって、戦争協力はやむを得なかったと正当
化することはできません。



第二ヴァチカン公会議

かつてのカトリック教会の政治や社会に対する態度の中にはある種のずるさがあ
りました。それは取りようによれば、「この世のことは考えないであの世を考え
ろ。社会なんかどうなってもいいが自分の魂の救いを考えろ」と言っているよう
に受け取られます。こうして自己陶酔や宗教的エゴイズムを助長しそれに陥った
人を信心深い人と見なしてきた部分があります。こうした見方にたてば、日雇い
労働者やホームレスが困っていようが、人権侵害の問題があっても自分たちは関
係ないという態度になります。「チェザルのものはチェザルに、神のものは神に」
という聖句はそんな意味では決してないはずです。

もしも国家(チェザル)が人権を損なうなら、教会は人間を神から預かっている
のだから、人権を損なうことに関して国家(チェザル)にクレームをつけること
が教会の義務なのです。近年、日本のカトリック教会も遅ればせながら、社会、
不正に対してものをいうようになってまいりました。以前、教会はいわば構造悪、
社会の構造的な欠陥を指摘することはありませんでした。社会的な問題、弱者や
貧者、病者に対しても、以前は慈善という考えで接しておりました。しかし、経
済・機構の欠陥を直さなければ貧しさなどはなくならないのです。こうした巨大
な構造悪の前では個人的な善業などはむなしいとしかいえません。この構造悪に
目を閉ざし個人的な彼岸の救いを説く、そんな宗教はやはり阿片しか言いようが
ないのです。今必要なことは人権のために立ち上がることです。雨が降ろうが、
槍が降ろうが戦っていくのです。人間に対する愛とはそういうものだと私は思っ
ています。教会はもしその使命に生きなかったら偽善でしかないのです。人権を
奪われて苦しむ人々を顧みず、飽食しながら、祈り愛を説くことは偽善以外のな
にものでもありません。



カトリック教会は福音の価値観と対立する政治に対しては意義申し立てをするこ
とが必要です。福音は個人にもたらされていると同時に社会にもたらされている
のです。この福音を社会に告げるのは私たちをおいてほかにはありません。私た
ちこそ神から遣わされているのです。たとえ小さな力であっても、誰でもできる
のです。この運動をやる人には聖霊が乗り移るのです。行動は誰にでも起こせま
す。旧約聖書に現れる預言者の役割はまさにこの役割でした。

日本の国はこのまま軍事国家への道をたどると世界の国を敵に回すことになると
為政者に警告しましょう。私は日本の国を愛しています。真に日本の国を愛して
いるから他国からひんしゅくを買うようなことを慎むよう勧告するのです。私の
愛国心は軍事推進を声高に語る彼らに勝るとも劣りません。

世の中は合併、合流時代となりボーダレスが進行しています。にもかかわらず、
今もって日本政府は国境を問題にしあれこれ画策をしています。

こんなことをいうと迫害を受けるともうしましたが、迫害は覚悟のうちです。
神がついているのです。迫害のことを考えると確かに身がすくみますが神が必ず
助けてくださると信じています。今の状況はまだ絶望的ではありません。まだ間
に合うと私は思っています。

私のこのような話は快楽には役に立ちそうではありません。ここにきてくださる
皆さんがいるのでまだ望みがあると私は思います。最初にもうしましたが若者を
信頼しています。そして彼らにこうした事実について教育をしなければならない
と考えます。若い人が戦争や人権の問題を知っていないというのは大人の責任で
す。遅ればせではありますが共に人権のために働きましょう。人間らしい人間、
世界に誇れる日本人になるために共に歩みましょう。

今の若者は合理的、打算的だといわれます。しかし、もっとも深いところで人間
の気高さということと関係しています。人間我が身に求め大切にすべきことを、
教会で学ぶ必要があります。人間の本当の価値は学力や資力など世間の価値にあ
るのではありません。命を懸けても大切にしなければならないのは、何でしょう
か。人間にとって一番大切なものは果たして何なのでしょうか。快楽、暴力など
が横行するのは真の価値が与えられていないからに他なりません。

ここにいる高校生の皆さんはすばらしい子たちでありましょうが、平和が壊され
たら皆さんの命そのものが脅かされることになります。



平和を求めるのは女性にも大切なこと

一見そうは思われておりませんが、平和の問題は女性にとってもっとも大事な問
題です。命が損なわれること、生命に関することに女性は無関心でいられないは
ずです。なぜなら、女性にとって命は理屈ではないからです。その命が危険にさ
らされているなら他人事ではありません。命が危うくされているというなら女性
もデモでも何でもやるべきでしょう。

ここにはシスターもいらっしゃいますが、シスターが大挙して国会前などでデモ
をすると大変目立つので効果的ではないでしょうか。きっとマスコミで報道され
て、カトリック教会の宣伝になることでしょう。キリスト教が警鐘を社会になら
すことが大切です。ただ祈っているだけではだめなのです。それは一時代前の信
心です。私たちはご聖体を栄養にして、キリストに反する世間の価値観と戦いま
しょう。ご聖体は私たちの活動を支えるヴィタミンのような働きがあります。



相馬司教をしのんで

最初に申し上げましたが名古屋教区では相馬司教が正義と平和を率先して活動し
ておられました。教会で正義と平和の仕事をやっていれば必ず批判がでるもので
す。小教区、教区を越えて今やらなければならないことを率先してやったのは相
馬司教でありました。本日は相馬司教ゆかりの地で、若い高校生を始めとしたみ
なさんの前で平和について語ることができたことを心から感謝しまして、このお
話を終わります。
みなさまへ

12月26日(火)18時25分 投稿者 みき

「日本リバイバル同盟」(NRA)
戦争責任と謝罪文


 1996年5月に発足した「日本リバイバル同盟」(NRA)は、唯一の主で
あり教会のかしらであるイエス、キリストの御名のもとに、以下の様に戦争責任
を告白し、謝罪いたします。 

 私たち日本の教会は、過去、国家神道に追随し、天皇を現人神とする偶像礼拝
の罪を犯し、またアジアの教会に神社参拝を強要する罪を犯しました。私たち日
本の教会は、国家による植民地政策、侵略戦争を警告し反対する「見張り人」の
努めを果たすことができず、アジアの国々へ植民地支配、侵略戦争に加担しまし
た。

 私たち「日本リバイバル同盟」(NAR)は、日本による三六年間の「朝鮮半
島植民地支配」、また「第二次世界大戦におけるアジア諸国への侵略」及び、
「韓国堤岩里.堤岩教会虐殺事件」「関東大震災朝鮮人虐殺事件」「南京虐殺事
件」「インドネシア、西カリマンタン白骨死体事件」「七三一部隊による生体解
剖」「従軍慰安婦」「強制連行」「真珠湾攻撃」「在日外国人の人間尊厳の侵害
」、その他多くの、極悪非道の残虐行為の一切を認め、神の御前に深く悔い改め、
被害国と国民に対し、即ち韓国、北朝鮮、中国、台湾、ベトナム、タイ、カンボ
ジア、ミャンマー、シンガポール、インドネシア、フィリピン、その他多くの国
々や国民に哀心より謝罪いたします。 

 この大罪は、私たち日本人の高慢から出たものです。戦時中、自国を「神国日
本」称して、「神社参拝」や「天皇崇拝の偶像礼拝」を強制し、特に多くのクリ
スチャンを迫害いたしました。この神をも人をも恐れずに犯した罪をお詫びいた
します。 

 私たちは、こうした罪を再び犯すことがないように、神のあわれみをもとめつ
つ、被害を与えた国々に謝罪と償いの業をいたします。 

 その具体的な業として、

 第一に、八月十五日(敗戦の日)と十二月八日(開戦の日)を、「断食と悔い
改めの日」と定め、「日本リバイバル同盟」(NRA)の全教職、信徒はもとよ
り、全日本の教会及びキリスト者に、これを配布し、断食と悔い改めをいたしま
す。 

 第二に、謝罪が被害国と国民に納得していただき、真に受け入られるために、
各国の政府機関、新聞等のマスコミ関係者、教会及び教会の代表機関に、この謝
罪文をお送りすると共に、出来る限り代表団を派遣し、謝罪いたします。


 「わたしたちの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りを
ささげ、私の顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天か
ら聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」 歴代誌U 七章十四節


               1997年8月 
               「日本リバイバル同盟」(NRA) 

委員長     奥山 実 

副委員長 大川 従道 

同      野口 白告 

同      栄 義之  

他             評義委員一同