日支戦争


満州事変 日支(日中)戦争 日満議定書
支那事変 斎藤隆夫議会質疑

満州事変

 日本は昭和3年(1928)4月19日に山東省へ出兵。この年に張作霖の爆殺
事件を起こしている。昭和6年9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変で、
関東軍は戦線を満州全域に拡大した。昭和7年3月1日には満州国の建国宣言が出
され、9月15日には日満議定書も締結され、関東軍は満州全土を占領していた。

 この時期、内蒙古東部を含む熱河省で、華北の張学良(張作霖の息子)と通じた
湯玉麟が反満抗日の態度を示した。5月31日、塘沽(タンクー)で停戦協定が締
結された。
日支(日中)戦争

 昭和12年7月7日、華北北京郊外の蘆溝橋(ろこうきょう)で日中両軍が衝突
した。これが廬溝橋事件で、この時から日中戦争始まる。そして南京を占領した日
本軍は虐殺事件(南京大虐殺)を起こしたとされる。

 一九三七年七月七日、盧溝橋事件を契機とする日本の中国侵略戦争。十五年戦争
の第二段階。日本は三八年中に主な都市、鉄道の沿線を攻略、中国は重慶に遷都し
て抗戦、長期戦化し、四一年一二月太平洋戦争に発展。
シナ事変。日支事変。日華事変。
日満議定書

 日本国は満洲国か其の住民の意思に基きて自由に成立し独立の一国家を成すに至
りたる事実を確認したるに因り満洲国は中華民国の有する国際約定は満洲国に適用
し得へき限り之を尊重すへきことを宣言せるに因り日本国政府及満洲国政府は日満
両国間の善隣の関係を永遠に鞏固にし互に其の領土権を尊重し東洋の平和を確保せ
んか為左の如く協定せり

一、
満洲国は将来日満両国間に別段の約定を締結せさる限り満洲国領域内に於て日本国
又は日本国臣民か従来の日支間の条約、協定其の他の取極及公私の契約に依り有す
る一切の権利利益を確認尊重すへし

二、
日本国及満洲国は締約国の一方の領土及治安に対する一切の脅威は同時に締約国の
他方の安寧及存立に対する脅威たるの事実を確認し両国共同して国家の防衛に当る
へきことを約す之か為所要の日本国軍は満洲国内に駐屯するものとす

本議定書は署名の日より効力を生すへし(1932年9月15日調印)
支那事変 斎藤隆夫議会質疑
(昭和15年2月2日)

 (上略)政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとす
るのであるか、国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くこ
とが出来得ると期待せない者は恐らく一人もないであらうと思ふ。

(中略)是に於て私は政府に向って御尋をするのである。支那事変処理の範囲と内
容は如何なるものであるか。重ねて申しまするが、支那の独立主権は完全に尊重す
る、支那の独立主権を完全に尊重する以上は、将来支那の内外政治に向っては苟且
にも干渉がましきことは出来ない。

 若し干渉がましきことを為したならば、支那の独立主権は立ちどころに侵害せら
れるのである、領土は取らない、償金は取らない、(中略)此の占領地域より日本
軍全部を撤退すると云ふことである。是が近衛声明の趣旨でありますか、政府は此
の趣旨を其の儘実行する積りでありますか。是が私は聴きたいのであります。

 総理大臣は言ふに及ばず、軍部大臣に於ても此の点に付ては御説明を煩はして置
きたい。(中略)東亜新秩序建設の実体は、政府の見る所は何であるか。之を承っ
て置けば宜しいのであります。(下略)

衆議院議事速記録(官報号外)


【支那事変】
日中戦争に対する、当時の日本側の呼称