占領政策


マッカーサー改革指令 不戦の誓いはいずこへ? 五年目の赤紙は女に
マッカーサー改革指令

1.選挙権附与による日本婦人の解放。
2.労働組合の結成奨励。
3.より自由なる教育を行う為の諸学校の開設。
4.秘密検察及びその濫用に依り国民を不断の恐怖に曝し来りたるが
如き諸制度の廃止。
5.所得並に生産及商業上の諸手段の所有の普遍的分配を齎すが如き
方法の発達に依り、独占的産業支配が改善せらるるよう日本の経済機
構を民主主義化すること。
不戦の誓いはいずこへ?

 「逆コース」の総仕上げは、朝鮮戦争によってもたらされた。1950年6月2
5日、北緯38度戦を境に危うい均衡を保っていた南北朝鮮の対立は、北朝鮮軍の
侵攻から内戦になり、米ソ両国が介入する熱戦へと広がった。マッカーサーは吉田
内閣に警察予備隊設立を指示し、日本全土を在日米軍の出撃基地とした。政財官界
では、戦犯として追放されていた人々の追放解除・第一線復帰が行われ、逆にレッ
ドパージは全産業へと広がった。
警察予備隊には旧軍幹部も登用され、後の保安隊・自衛隊の原型となった。日本資
本主義は、朝鮮戦争特需でうるおい、ようやく本格的な経済復興の軌道にのった。


参考資料

戦後日本50年史概要 『日本史のエッセンス』加藤 哲郎

ここで言う「逆コース」とは新憲法が目指した、先の大戦を反省材料に平和国家
と云う大義名分が、「米国の都合」で簡単に路線変更された事を指すのだろう。
結局、米国の諸政策の殆どは自らを利する事が優先され、日本の為と云う事など全
くと言って良い程、考慮されていない。当然の外交常識であるが。

「昭和20年8月15日、未だ戦後は始まらなかった」
(副題・五年目の赤紙は女に届けられた)

 北千島での守備隊とソ連軍の戦いが、八月拾五日を過ぎても熾烈に行われた事は
小掲示板でも述べている。また、小野田寛夫さんの戦いが戦後数十年も、「公式」
に続いた事は有名だ。しかし、それらは終戦の詔書が発せられる前からの状況継続
だった。此処で紹介するのは、終戦を迎えて普通の暮らしに戻っていた、然も女性
に対して送達された正式な赤紙(戦時召集令状)である。

 戦時中は男だけでなく、女も「慰安婦」以外の戦力として戦場へ駆り出された。
所謂、従軍看護婦が其れに当たり、壱万数千名が殉職している。殆どが日赤所属の
看護婦で、其の中には次の様な例があった。日赤では看護婦を養成する為の施設を
持っていたが、そこでは学費も免除され、給金も出たという。

 手に職が付いた上に給金も貰えると云うので、生活の苦しかった九州地方から、
子女の応募が多かったそうだ。但し甘い話ばかりでは無く、御礼奉公の様な義務も
あった。何よりも当時の世相を反映して、養成所修了後の十二年間は「戦時召集令」
に応じるとの条件が付いた。この「赤紙」は男子のものと同一様式、拒否すれば厳
しい処罰を受けた。

 昭和25年6月、朝鮮動乱が始まると、米軍は日赤に対して看護婦の招集を命じ
たのだ。その際に招集手段として遣われたのが「赤紙」、戦時召集令状であった。
つまり、発令時より逆上って十二年以内に、看護婦養成所を修了した者に対して赤
紙を送達したのだった。受け取った女性は驚いた事だろう。

 戦後既に五年も経過して、忌まわしい記憶から逃れようとしている時の赤紙だ。
中には戦場経験の無い者も居ただろう。調べてみると十二年間の応召義務は有効、
また戦時召集令も亡霊の様に生きていた。この間迄の「鬼畜」の為、今更ながら戦
地へ連れていかれる。応召前に水杯を交わして覚悟を決めて、集合場所の福岡に出
発した。

 幸い、心配した様に半島へは連れて行かれず、彼女等の任務は半島から後送され
て来る、米軍の傷病兵の世話が任務だった。本来の看護業務は米人看護婦が当たり、
邦人看護婦は其の補助や、傷病兵の身の回りの世話をさせられた。


 不戦を誓わされたのに米国の都合で「参戦」させられ、しかも旧軍の亡霊の樣な
戦時召集令状まで復活した。警察予備隊もそうだが、米国の飽くなき欲望の道具と
される運命は、何時頃から始まったのだろうか?