新憲法発布


日本国憲法
日本国憲法

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と君主主権を定めた戦前の大日本帝国憲法の改
正の必要は、GHQにとって自明であった。だが、国のしくみの基本を定める憲法
改正は、国民の合意によってなされるのが好ましかった。
同じ敗戦国イタリアでは、国民投票によって君主制を廃止し、不戦を誓った新憲法
が1946年5月に施行された。日本国憲法については、政府内や政党・民間に多
様な憲法構想があったが、当初の日本政府の憲法改正草案は、「天皇ハ至尊ニシテ
侵スヘカラス」と「神聖」を「至尊」に変えただけのものだった。

 GHQは、@天皇は最上位にあること、"戦争放棄と戦力不保持"、"貴族制度の廃
止"、のマッカーサー3原則を骨子として草案づくりにのりだし、それを日本政府に
提示した。象徴天皇制とともに、国民主権、恒久平和、基本的人権、国権の最高機
関としての国会、地方自治などの考え方が、このGHQ草案段階で示された。日本
政府内部には明治憲法の部分的改正に固執する反対意見も根強かったが、けっきょ
く国民主権・戦力不保持の承認のみが「象徴」としてでも天皇制を残しうる道であ
ると悟り、1946年3月、GHQ草案をもとにした改正草案を発表する。

 昭和天皇は、「今となっては致方あるまい」とそれを裁可した。ただし、GHQ
草案の「外国人は法の平等な保護を受ける」という規定や人権条項のいくつかは削
除され、国民主権条項も曖昧にされた。

 国民の多くはこの憲法草案を歓迎した。財界は、資本主義制度が守られ天皇制も
維持できたので安堵した。草案発表1ヵ月後の第22回衆議院議員選挙が、事実上
の国民投票となった。1946年4月の総選挙は、女性参政権が認められ、選挙権
が満25歳から20歳に引き下げられて初めての国政選挙であった。有権者は東条
内閣下の翼賛選挙の2・5倍になった。戦前非合法だった共産党も候補者をたてた。

 公職追放で現職議員の多くが追放されたので新人が目立った。466の定員に2
770人(内前・元職146人)の立候補で女性候補も89人にのぼった。1人1
党の184人を含め、候補をたてた政党の数は258もあった。4月10日の投票
結果は、投票率72・1%、自由党140、進歩党94、協同党14、社会党92、
共産党5、諸派38、無所属81であった。39人の女性代議士が初めて誕生した。
 総選挙後も政局は混乱し、吉田茂を首班とした自由党・進歩党連立内閣が成立し
たのは5月22日のことであった。

 日本国憲法は、衆議院・貴族院での討論でいくつかの修正が加えられ、1946
年11月3日に公布され、翌47年5月3日から施行された。憲法第9条第2項の
戦力不保持規定の前に、「前項の目的を達するため」といういわゆる芦田修正(芦
田均の提案)が加えられたのは衆議院の審議過程であり、後の自衛隊合憲・違憲論
議で重要な役割を果たす。
国会の外では労働組合の生産管理闘争が盛んで、46年5月19日の食糧メーデー
(飯米獲得人民大会)には「米よこせ」を掲げて25万人もが加わっていた。

資料 加藤 哲郎 戦後日本50年史概要
『日本史のエッセンス』