神道と国家神道


神道 国家神道 国家神道の教義
加速する神社創建と造営 神道国教化と信仰の自由 国家神道廃止指令
天皇の人間宣言
神道
(もと、自然の理法、神のはたらきの意)


 日本固有の民族信仰で、祖先神への尊崇を中心とする。古来の民間信仰が、外来
思想である仏教・儒教の影響を受けつつ成立し理論化されたもの。平安時代には神
仏習合・本地垂迹(ホンジスイジヤク)があらわれ、両部神道・山王一実神道が成
立、中世には伊勢神道・吉田神道などが起り、江戸時代には垂加神道・吉川神道な
どが流行した。明治以降は神社神道と教派神道(神道十三派)とに分れ、前者は太
平洋戦争終了まで政府の大きな保護を受けた。
かんながらの道。
国家神道

 明治維新後、神道国教化政策により、神社神道を皇室神道の下に再編成してつく
られた国家宗教。軍国主義・国家主義と結びついて推進され、天皇を現人神(アラ
ヒトガミ)とし、天皇制支配の思想的支柱となった。第二次大戦後、神道指令によ
って解体された。
国家神道の教義

 国家神道の思想的前提としては、復古神道の天皇崇拝や水戸学の国体観念等があ
げられるが、その教義は天皇の万世一系、現人神(あらひとがみ)論、日本神国論、
忠孝一致説などを柱としていた。国民への浸透にあたっては、神社参拝や教育の果
たした役割が大きい。

 各社は神社供進金を得て、国家神道鼓吹の中心拠点を目指したのであった。大正
中期以降の官幣大社、各神宮、国幣中社の増加がめざましく、自治体支出の神社供
進費も、大正末以来急激な増加を続けた。しかし、多くの神社は民衆によって維持
されており、土俗的な祭祀内容も引きずっており、神社神道がすべて国家神道の中
に包含し尽くされてはいなかった。
国家神道の確立

 慶応4年(1868)の祭政一致の方針と神祇官復興の宣布、明治3年(187
1)の大教宣布、同5年の教部省設置等々、明治政府はその発足当初から神道国教
化への布石を矢つぎばやに打ち出していた。しかし、不平等条約の解消という重い
課題を背負って、信仰の自由容認のポーズと神道国教化の本音の調整に腐心しなけ
ればならなかった。

 神社神道非宗教の体裁を整えつつ、大日本帝国憲法は「安寧秩序を妨げず」「臣
民たるの義務に背かざる限り」という条件をつけて「信仰の自由」を規定した。
明治前期、神仏分離と並行して、官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社と
いう神社の格付けが行われていたが、日清・日露戦争を経て神社信仰は強化された。

 明治39年の国庫供進金制度の発足に引き続き、府県、郡、町村も神饌幣帛(し
んせんへいはく)料を供進して行く。宗教局が内務省から文部省に移され、神社局
とも完全に分離された大正2年(1913)には官国幣社以下神社神職奉務規則が、
翌3年には官国幣社以下神社祭祀令、同祭式が公布された。すでに、教育勅語戊辰
詔書の拝読も定着しつつあり、国家神道はこのころ確立したという事ができる。
加速する神社創建と造営

 大正12年国民精神作興に関する詔が出されたが、教化団の活動などを通じて、
「国民精神」「皇国精神」作興運動が展開される。満州事変以後は国体明徴運動と
なり、国家神道の教説にも一層の増幅がはかられた。各地でも昇格県社が増加し、
供進金も飛躍的に拡大された。協賛金方式による神社の巨大工事が相次いで敢行さ
れた。「八絋一宇」「祭政一致」などのスローガンが唱えられ、歴史や修身の授業
は国家神道の教義に近似して行った。
神道国教化と信仰の自由

 明治維新期から太平洋戦争終結に至るまで国家宗教的地位にあり、イデオロギー
的基礎となった宗教。神社神道を再編成して皇室神道と結びつけた祭祀中心の宗教
を指す。昭和20年(1945)12月のいわゆる「国家神道廃止令」では、「日
本政府の法令に依って、宗派神道或は教派神道と区別せられたる神道の一派、即ち
国家神道、乃至(ないし)神社神道として一般に知られたる非宗教的なる国家的祭
祀として類別せられたる神道の一派」と定義されている。

 神社局が内務省におかれていたのに対し、宗教局は文部省におかれており、行政
ルートの上からも国家神道と教派神道やその他の宗教は区別されていた。ただ国家
神道という言葉自体は「神道」「惟神(かんながら)の道」「国体」などと呼ばれ
ていたものが、戦後の占領下に
State Sintoの訳語として一般化した。
国家神道廃止指令

 昭和20年8月、わが国はボツダム宣言を受諾して終戦を迎えるが、12月占領
軍によって国家神道廃止指令が出され、修身、日本歴史、地理の授業も停止された。
21年1月1日の天皇の人間宣言によって、国家神道は制度上消滅。ボツダム宣言
にも「宗教及思想の自由の尊重」がうたわれていたが、22年5月施行の日本国憲
法の中にも重要事項として規定された。神社神道も国家の保護を離れ、他の宗教と
同じ地平に立つ事となる。
天皇の人間宣言

 国民の中では、「人間宣言」によっても「天皇=現人神」のイメージは残ってい
た。1945年12月の世論調査では、天皇制支持95%、否定5%であった。合
法化された共産党の主張した天皇制廃止は、46年5月でも11%の支持しかなか
った。戦勝国アメリカでは天皇を戦犯とみる世論が強く、45年6月のギャロップ
調査では、天皇の「処刑」33%、「終身刑」11%、「追放」9%、「裁判で決
める」17%であった。しかし、アメリカ政府内部では「天皇制は支持しないが利
用する」という方針が有力だった。

参考文献 (加藤 哲郎)戦後日本50年史概要、大分県史など