時は、紀元三世紀半ば――。
二一四年夏に劉備が蜀に入り、二十年あまりに渡って続いてきた魏・呉・蜀の天下三分の情勢は、ここに来て大きな転換を見ようとしていた。
二三四年の春から秋にかけて、五丈原で魏と蜀の両軍が衝突。魏軍は都督・司馬懿の方針通り、固守の姿勢を見せて時間切れでの粘り勝ちに持ち込むかと思われたが、後もう少し、というところで司馬懿本人が蜀軍本陣に奇襲をかけて失敗、捕らわれの身になるという大失態を演じてしまう。
あと一月も待っていれば勝ちに持ち込めたはずの戦いを、何故に彼がこういう行動に出たのかは、よく分からない。巷間には女物の衣装を贈られるなどの諸葛亮の挑発に堪忍袋の緒が切れたとか、はたまたただ魔が差しただけだったとか言われてはいるものの、事の真相は闇の中。何せ、この戦いで、司馬懿は蜀軍の主だった将ともども、夜空の星と消えてしまったのである――。
命からがら魏に逃げ帰った張コウをして、
「嗚呼……あの戦いのことは、二度と思い出したくありません!」
と言わしめ、一ヵ月ほど自室に引きこもらせてしまったこの戦いは、まさに、魏・蜀両軍の当初の狙い通り、天下三分の情勢を流動化させるには十分な戦いとなった――のだが。
皮肉にも、この戦いで利したのは、魏でもなければ蜀でもなく、この戦いには関与しなかった呉だったのである。
と、いうのも。
三十年ばかり前に死んだはずの猛将・呂布が忽然と戦場となった蜀本陣に姿を現し、諸葛亮や司馬懿のみならず、劉備や曹操までをも討ち果たし、魏・蜀両軍を瓦解させてしまったのである。
この時、蜀本陣には魏・蜀ともにそうそうたる顔ぶれの武将が揃っていたのだが、それも一瞬で塵と消えた。わずかに生き残った将兵が故国に戻り、五丈原での詳細を報告するに至ったのだが――その中に、劉備と復縁し、五丈原に従軍していた孫尚香の姿もあった。命からがら呉に帰還した孫尚香の報告に、孫権はすぐさま左右に戦の準備を命じた。目標は、呉の都・建業とは長江をはさんで目と鼻の先にある要衝・合肥。曹操・司馬懿が五丈原で命を落としたことによる混乱に乗じて、孫権は長年魏と争ってきた合肥を制し、一気に中原へと攻め上らんとしたのである。
若き俊英・陸遜を都督に、周泰、甘寧、黄蓋といったそうそうたる面々を率いて直々に合肥に親征した孫権であったが、ここで大きな二つの壁にぶち当たる。
ひとつは、曹操が合肥近郊に築いた堅城・合肥新城。
今ひとつは、魏の五将軍でも随一の猛将と謳われる張遼であった。
張遼は合肥新城に拠って頑強に抵抗し、曹操に代わって魏の皇帝となった曹丕が直々に率いる援軍を合肥に迎え入れることに成功、速戦によって合肥を制するという呉軍の当初の目的は完全に断たれ、泥沼の消耗戦に引きずり込まれてしまう。
もちろん、曹丕が合肥に入った時点で、呉軍はしかるべき将に合肥の陣を守らせて建業に退くべきであったし、実際、軍議においてはそのような意見が多数を占めた。にも関わらず、途中で軍を入れ替えるなどして長丁場の対陣に及んだのは、それだけ孫権が合肥にこだわっていたためであろう。
結局、大小の戦いを織り交ぜつつ、三年の長きに渡って魏・呉両軍は合肥でにらみ合ったが、双方益なく、二三七年、孫権は合肥の陣に太史慈を主帥とする一軍を置いて建業に戻り、これに応じて、曹丕もまた合肥を張遼に任せて許昌へと戻っていった。
そしてこれより二年後、二三九年。
合肥で消耗した兵力を回復し、今度は蜀侵攻の準備を進める孫権のもとを、ある異民族の少女が訪れたのである。
「……………」
毅然とした瞳でこちらを見つめ返す異民族の少女に、孫権は対応を図りかねていた。
見たところ、年の頃は、十代半ば――いや、もう少し、幼いかもしれない。大陸にあってはお世辞にも上等とは言えない衣服に身を包んでいるものの、首に下げた翡翠の珠と、先端部にやはり翡翠の宝玉をあつらえた杖、そして何より、居並ぶ文武の官から彼女を守るように控える壮年の男の雰囲気からして、目の前にいる異民族の間では相当の地位にあると思われた。
この時代、異民族の姿を見かけるのはそれほど稀有なことではない。
北方では烏丸、匈奴、鮮卑といった勢力が古くから侵入を繰り返していたし、西方には羌族といった異民族もいる。隣国の蜀では、十年程前に諸葛亮が南蛮大王孟獲を七回に渡る戦いの末に服従させたという話も聞く。乱れた世にあって、周辺の異民族が流入、あるいは組織だって侵入してくるのは良くある話だ。
だが――そんな中で、目の前にいる少女は、それらとは少し、事情が異なっているように思えた。
烏丸や匈奴といった勢力が度々侵入してくるのは、彼らの支配する地とは陸続きであることが大きい。つまり、移動が容易であるが為に、侵入を繰りかえすわけだ。しかし、今回の場合は――
「難破した船と共に、海岸に打ち上げられていた、と言ったな」
「はっ。漕ぎ手と見られる者も含めて、三十人ばかりが浜に打ち上げられておりましたが、そのうち生きていたのは、今ここにいる二人を含めて、十人ばかりと聞いております」
「ふぅむ………」
改めて発見されたときの報告を聞いて、孫権は首をひねった。
船で海を越えてやってくる異民族もいないわけではないし、異民族が漂着したことも何度かある。だがそれは、都・建業から遥か南の彼方の話のことで、今回のように、異民族の船が長江の河口あたりに流れ着いたという話は、ついぞ聞いたことがない。さらには、話に聞く南方の異民族とはずいぶんいでたちが異なるし、わざわざ南方から呼び寄せた通訳もまったく言葉が通じないときている。
一応、こうして宮廷に呼んではみたものの、どうしていいか分からない――孫権のみならず、居並ぶ文武の官の、正直な見解であった。
そこへ。
何やら難しそうな表情をした陸遜が、一抱えほどある箱と書物を携えて入ってくる。孫権に命じられて、何か手がかりはないかと書庫に調べに行っていたのだ。
「おお、陸遜。何かわかったか?」
「ええ。一応、これではないかという記述は見つかったのですが……」
そういうと、陸遜は持っていた箱を床に置くと、小脇に抱えていた書物を開く。
「『漢書』の地理志に、東の海の彼方から楽浪郡に使いを送っていた国があるとの記述がありました。エエト……『楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う』」
「楽浪郡……確か、幽州からはるか東に行ったところにあるという地名だな。確かに、そのあたりに住んでいる部族が海を渡り、途中で遭難したのであれば、流れ着いた場所も、南から来た通訳をもってしても言葉が通じないのも納得はいくが……」
無精ひげの生えたあごに手をやりながら、呂蒙が異民族の二人を見やる。
二人が着ている衣服はもとより、男が手にしている妙に幅の広い剣も、話に聞く南方の部族が使うものとはだいぶ違うようだ。時折、赤みがかった金色に輝くのを見ると、おそらくは青銅製の剣なのであろう。秦・漢の時代はともかく、今の時代、青銅製の武器はほとんど使われていない。
「ところで、陸遜。先ほど、何やら持ってきていたようだが……何か、あったのか?」
「ええ。実は、荊州を占領した折、蜀軍が兵器を開発していたと思われる施設がありまして、そこから接収してきたものがいろいろと……。それで、その中に使えそうなものがないかと探してきました」
「そんなものがあったのか?」
「む……そういえば、そのような施設があったような。確か……」
周瑜にたずねられて、荊州戦で主帥を勤めた呂蒙が答える。
「確か、(株)荊州製作所と申したはずです。何でも、諸葛亮が実戦に投入する前の兵器をいろいろ試していたとか……」
「諸葛亮だと!?」
呂蒙の口から「諸葛亮」の三文字が出たとたんに、周瑜の顔が青ざめる。
「おのれ……おのれ、諸葛亮……奴の投入する兵器という兵器が奇想天外なものばかりであったが……まさか、そのような施設を作っていたとは!! それで、その施設はどこにある!!?」
「はぁ……そ、それは、陸遜が」
「陸遜! その施設はどこだ!!」
「……焼き払いました」
「何!?」
「焼き払いました……というより、火計の巻き添えで焼けてしまいました」
「なんと…………うッ」
すまなさそうに答える陸遜に、周瑜は顔面蒼白となり、ついで口元を押さえる。
「し……諸葛亮の手の内を垣間見る……絶好の機会であったというのに……ぐはッ」
激しく咳き込む、周瑜。見ると、口を押さえる手から、鮮血が漏れ出ている。
「……周瑜。とりあえず、奥に下がって休むといい」
「殿……そうさせていただきます」
やれやれ、といった表情で、孫権は奥に下がる周瑜を見送る。
諸葛亮が絡むと激昂し、決まって血を吐いてしまう周瑜のこの性格は、もはや「病気」と言ってもいい。赤壁の戦いの後、周瑜が戦場に立てなくなったのはもちろん、この「病気」が原因である。諸葛亮の目論見どおり、まんまと天下三分に持ち込まれたとなっては、周瑜としては面白いはずがない。五丈原で諸葛亮が死亡したとの報を受け、ようやく一線に復帰しようとしたのに、また療養生活に逆戻りとなった、周瑜であった……。
「……それで、陸遜」
気を取り直して、孫権は話を続ける。
「その箱の中に、何か役に立つものが入っている、と?」
「ええ。接収したときの混乱で、いまいち使い道がわからなくなっているものもあるのですが……これは、幸いにも取扱説明書が同梱されていました」
「ほほう。それで?」
「どうやら、異民族との交渉の際に、通訳を介さずに話を進めることができるように、という目的で作られたモノのようです。まだ、試してはいないのですが……」
「うむ……まぁ、試してみればいいだろう」
うなずくと、陸遜は箱を開け、中から首飾りのようなものを取り出す。
親指の先ほどの大きさの青色の宝玉をつけたそれは、首から下げると、ちょっとした装飾品にもなるように作られている。いささか不安そうに首を傾げてから、陸遜はゆっくりと、少女に向かって歩を進める。
「…………!」
一瞬、少女の表情がこわばるのが見えた。その刹那――
「おわっ!?」
シャキン!
少女をかばうようにして、男が剣を構えて陸遜の目の前に立ちふさがる。あわてて飛び退く陸遜に、成り行きを注視していた護衛の兵がいっせいに武器を構える!
「待ってください!」
あわてて、陸遜は護衛兵を制し、彼らに武器を下げるよう、目配せをする。
「……Kayumonisiu」
対する少女のほうも、剣を構える男の肩に手をやり、何がしかの言葉をかける。男はしばらく、陸遜と少女とを見比べていたが――
「……………Wokirumisuchi」
うなずいて、構えていた剣を下げる。陸遜はホッとため息をつくと、護衛兵を下がらせ、改めて、少女の正面に立つ。
「………………」
改めて間近に見ると、結構な美少女である。
美少女、というと大喬・小喬の姉妹が真っ先に思い浮かぶところだが、全身から漂う凛とした雰囲気は、可憐さが先に立つ(ということになっている)大喬・小喬の姉妹よりはむしろ、孫尚香に通じるものがある。
「あー、あー……エエト……私の言葉が、わかりますか?」
つとめてゆっくりと話しかけた陸遜に、こわばっていた少女の顔がパッ、と明るくなる。
「……わかり、ますか?」
たずねる陸遜に、少女は大きくうなずく。
「……よかった。どうやら、大丈夫のようですね」
一人うなずくと、陸遜は続いて話しかける。
「よろしければ、お名前を聞かせてもらえますか?」
「Wochisu ha nimio hi, Himiko chi yaisumisu.(私の名前は、ひみこと申します)」
「卑弥呼殿……ですね?」
うなずく、少女。
「そちらの方は?」
陸遜が、男のほうを見ながらたずねる。
「Nanshoumai na misesumasu. Wochisu ha koriu dose.(なんしょうまいと申します。私の家来です)」
「難升米……殿?」
陸遜が声をかけると、男は深々と頭を下げる。
「Shikumadi hi, haesuwoku irumisuadosuchi.(先ほどは、申し訳ありませんでした)」
「いえ……こちらこそ。突然のことで、驚かせてしまったようですね」
「陸遜、何といっているのだ?」
どうにか話が通じているらしい陸遜に、呂蒙がたずねる。
「エエト……こちらが、卑弥呼殿。そしてこちらが、難升米殿だそうです。……それで、どこからいらしたのですか?」
「Wochisu chitsuhi, fugisu ha imu ha hito nu ire, Yamataisake kiri kumisuchi.(私たちは、東の海の果てにある、やまたい国から来ました)」
「東の海の果て、邪馬台国……。それではやはり、あなた方はその昔、楽浪郡に使いを送ったという倭の国の方なのですね?」
たずねる陸遜に、卑弥呼は少し首をかしげて答える。
「Mekisu ha sanahiwakewokirumisoage, im n saoto, Rakurou na uenasawanu
tekiun kakessana sagi ire saue hinisuhi, kuuchisanagi irumise.(昔のことはよくわかりませんが、海を越えて、楽浪という所に使いを送ったことがあるという話は、聞いたことがあります)」
「なるほど……どうやら、彼女たちが『漢書』地理志にある、倭から来たのは間違いないようですね。東の海の果てからやってきたと言っています」
「そうか……」
うなずく、孫権。
「それで、陸遜。その首飾りには、もう余りはないのか? できれば、この者たちにそれをつけさせたほうが、話もしやすかろう」
「ええ、そうですね。ちょうど、あと2つあることですし」
頷くと、陸遜は箱の中から首飾りを取り出し、卑弥呼と難升米に手渡す。
「これをつけてください。そうすれば、他の人とも言葉が通じるはずです」
「…………」
「大丈夫ですよ。ほら、私がつけているものと、同じものですから」
怪訝な面持ちで首飾りを見つめ、顔を見合わせる二人に、陸遜は自分が首から下げている首飾りをつまんで見せる。
「Diujaega do chaeki?(大丈夫でしょうか?)」
「……Seazumichae. Gamuhatsu, sanabi gi teezuniusananuhi, hinisu nu niriniudochaekiri.(信じましょう。どの道、言葉が通じないことには、話にならないでしょうから)」
頷くと、まず難升米が首飾りをつける。
「……別に、何ともないようです」
難升米の言葉に、ようやく卑弥呼が首飾りをつける。
「……確かに、何ともないけど……」
いささか不安そうな表情で、卑弥呼が周りを見回す。
「ふむ。これは便利なものだな」
二人の様子をうかがっていた呂蒙が、感心したように頷く。陸遜の言うとおり、今の今まで何といっているのか全く見当もつかなかった二人の言葉が、分かるようになっていた。
「お二人とも、こちらの言葉がお分かりになられるか?」
尋ねる呂蒙に、二人は何度も頷く。
「このようなものを作っていたとは……、諸葛亮、やはり侮れぬ男であったということだな」
「ええ……やはり、諸葛亮先生の力は、敵ながら素晴らしいといわざるを得ません……」
「あの……」
首飾りの力に、皆が感心しているところへ、卑弥呼が遠慮がちに声をあげる。
「まずは、助けていただいてありがとうございました」
そういって、深々と頭を下げる二人。
「まぁ、そうかしこまらずともよい。……それで、先ほどの話では、東の海を越えてきたとか?」
尋ねる孫権に、卑弥呼は頷く。
「はい。私たちは邪馬台国という国から船に乗ってやってきました」
「うむ……あの大海を、な」
「……それで、海を越える途中で遭難したのですね?」
間にはいって尋ねる陸遜に、難升米が答える。
「はい。我が国からは、これまでにも幾度か海を越えて人を送ったことがございまする。当然ながら、大変な危険を伴う船旅にございまするが、今まではどうにか目的を果たし終え、無事に国に帰ることができておりました。しかし、今回は、途中で嵐に遭い……」
「我が領内に漂着したのですね」
うなずく、難升米。
「もちろん、長い船旅の中、一度も嵐に会わないということは滅多にございませぬ。しかし、此度の嵐は殊の外すさまじく……波にさらわれて行方知れずになった者もおりまする」
「……災難であったな。聞けば、怪我を負っている者もいるとか。城内に部屋を用意させるから、しばしの間、ここで休息をとるがよかろう」
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げる二人に、孫権は笑いながら答える。
「なぁに、遠慮はいらん。そなたらは我が孫呉の大切な客人だ。ゆっくりと養生して、それから国に戻るがよかろう」
「………孫、呉?」
孫権の言葉に、二人は首をかしげながら顔を見合わせる。
「どうか、なさいましたか?」
「あの……今更ですけど、ここは?」
尋ねた陸遜に、卑弥呼が不安そうな表情で尋ねる。
「ここは、呉の都、建業です。……それが何か?」
「呉の都、建業………ごのみやこ、けんぎょう……」
呆然とした表情で、卑弥呼が呟く。
「……卑弥呼様、お気を確かに」
そこへ。
「申し上げます! 許昌より、張儁乂将軍、到着されました!」
「何……? よし、通せ」
「はっ!」
「張コウにございます。この度は、我が殿・曹子桓の名代として参りました」
「うむ……貴公と合間見えるのは、合肥新城以来か。まずは、合肥新城での戦ぶり、見事であった」
「お褒めに預かり光栄です。……そちらこそ、都督・陸遜殿を始めとする方々の戦いぶり……実に美しかったですよ。嗚呼、美しい陣形には、美しい陣形で臨む。これこそ、戦の美というもの……!」
「う、うむ………」
一人悦に入り、怪しげなオーラを発散する張コウに、孫権は露骨に嫌そうな表情でうなずく。
「それで、此度の来朝は、何故の事で?」
尋ねた呂蒙に、張コウは一通の書面を取り出す。
「……これは?」
「我が殿は、貴国との合肥方面での戦について、和議を結びたいと考えておいでです」
「……なるほど」
うなずく、孫権。
実のところ、いまだ合肥新城にて対陣中の魏軍の存在は、蜀に侵攻するにあたっての大きな悩みの種であった。魏・呉双方とも主力を置いてはいないものの、交戦中であることには間違いない。兵糧や疲労した兵士の入れ替えなど、軍の維持に必要な負担は無視できない。まして、呉軍の主力を率いて蜀へ侵攻しようとしている今、合肥新城への押さえとして派遣している太史慈は、できれば都・建業の留守に回しておきたいところだ。だが、下手に軍を動かせば追撃を受けかねないために、太史慈の軍を動かせない、というのが現状であった。
(さて、どうするか……)
(……殿)
腕組みをして考える孫権に、陸遜がそっと耳打ちをする。
(ここは素直に、和議を結んでおくべきです)
(しかし、このタイミングでの和議の申し出は、きっと何か裏があるに違いあるまい?)
(そこなのですが、実は……)
そういうと、陸遜は蜀領内に派遣しておいた間諜の報告を手短に説明する。
(何、漢中で……?)
(ええ。蜀軍が漢中から洛陽・長安方面に出ようとする動きがあるようです。五丈原の時とほぼ同じ動きですが、今回は司馬懿がいない上、合肥方面に兵力を割いているために、このままだと漢中方面で苦戦する恐れがあります。今回の和議は、おそらくこちらの出兵を感知した上でのことかと)
(なるほど……)
再び腕組みをして、考え込む孫権。その間、張コウは呂蒙らと世間話をしていたのだが、ふと、所在なさそうにたたずんでいる二人の男女――卑弥呼と難升米に気がついた。
「そちらの方は、いったいどちらから参られたのです?」
「ん、おお、そうであった……」
尋ねた張コウに、呂蒙は卑弥呼と難升米を引き合わせる。
「こちらは、卑弥呼殿と難升米殿。なんでも、東の海を越えて参られたとのことだ」
「勇敢ですねぇ。そして、何より、美しい……嗚呼、異民族にも、このように美しい方がいるのですねぇ……」
ひとしきり「美しい」と誉めそやす張コウに、卑弥呼は頬を赤らめる。この男、何かと「美しい」と連呼するために、いまいちその真意が計り知れないところがあるのだが、もちろん、東の海の果てからやってきた卑弥呼には、そのようなことは知る由もない。
「申し送れました。私、魏軍偏将軍・張コウと申します」
「卑弥呼です。倭の邪馬台国から来ました」
「難升米にござる。この度は、卑弥呼様の護衛をおおせつかっておりまする」
「……はて。呂蒙殿?」
挨拶を取り交わしたところで、張コウはふと、首をかしげる。
「如何なされた?」
「東の海を越えてこられた割には、私たちの言葉が通じるのですねぇ?」
「ああ、そのことか。実は……」
張コウに尋ねられて、呂蒙は首飾りについて手短に説明する。
「……なんと! 蜀軍にはそのような技術があったのですねぇ!!」
「うむ。敵とはいえ、惜しい男を亡くしたものだ」
「亡くした……はたして、それはどうでしょうかねぇ……」
「なんと、それでは、諸葛亮は生きていると申されるか?」
「……それは……多くは思い出したくありません……」
急に声のトーンを落として、張コウは額に手を当て、軽く首を振る。
「……失礼つかまつった」
激怒した呂布によって、戦場は阿鼻叫喚の地獄と化した――その場に居合わせた孫尚香の言葉を思い出して、呂蒙は軽く頭を下げる。
「あの……張コウ……将軍?」
「おや……如何なさいました?」
「実は、あなたにお願いがあります」
「お願い……はて、私にできることであればよいのですが」
遠慮がちに声をかけてきた卑弥呼に、張コウは怪訝そうな表情で答える。
「私たちを、魏に連れて行ってくださいませんか」
「魏に……?」
「今回、私たちが海を越えてきたのは、楽浪から魏の都に行くためだったのです。ですが、途中で嵐に遭ってしまって南に流され、こうして呉の方々に助けていただきました。一度は、傷が癒えた後で国へ帰ることも考えましたが……」
「そこへ、私が現れた、ということなのですね?」
「はい。お役目が済んだ後でけっこうです。私たちを、魏に連れて行ってくださいませんか」
「ふむ……」
形のいいあごに手を当てて、張コウは考え込む。
そこへ。
「張コウ」
「はっ」
ようやく、陸遜とのひそひそ話を終えた孫権が、意を決した表情で話し掛ける。
「和議の件、乗らせてもらおう」
「承知いたしました。それでは……」
「うむ。和議に応じる礼として、蜀侵攻に従軍する、とのことであったな。ご苦労だが、よろしく頼むぞ」
「はっ。……それで、実は、この方たちのことなのですが」
卑弥呼と難升米の二人に視線を移しながら、張コウは続ける。
「実は、我が魏に参られたいと」
「何、魏に……?」
「はい。実は、元々は、我が魏に参られるために海を越えられたそうなのですが、途中で嵐に遭い、呉の皆さんに助けられた、と」
「……なるほど、それでは、魏に行きたいというのも、別に変な話ではないな」
「それで、蜀での戦が終わった後、私がお二人を魏にお連れしたいと思うのですが」
「ふむ、それはかまわんが………」
張コウの言葉に、孫権は腕組みをして、何事か考えこむ。
「……そうだな。その二人も、戦に来るがよい」
「…………は?」
間の抜けた声で、難升米が応える。卑弥呼に至っては、口をわずかに開いて、せわしなく目をしばたたかせ、完全に固まってしまっている。
「先ほどの動きを見たところ、相当の武人であるようだ。劉備や諸葛亮を失っているとはいえ、蜀の軍は依然として手ごわい。我が軍の一隊を率いて、戦を手伝ってもらえまいか」
「………わかりました」
「卑弥呼様!?」
しばらくの間考えに沈んで、卑弥呼が意を決したように頷く。
「卑弥呼様、慣れぬ異国の地で戦など……危険でございます」
「危険なのは重々承知の上です。しかし、私たちは一刻も早く魏へ赴き、その上で国に帰らねばなりません。ならば、呉の方々の戦を早くに終わらせるのがいいでしょう」
「早く終わらせる……か。相当の自信があると見えるな?」
孫権の言葉に少しむっとした表情を見せると、卑弥呼はおもむろに持っていた杖を頭上にかかげる。
「……張コウ将軍、それに、呂蒙殿。少し、お下がりください」
卑弥呼のそばから離れながら、難升米が張コウと呂蒙に声をかける。
「………?」
怪訝な表情で皆が見つめる中、卑弥呼が軽く目を閉じ、スゥ、と息を吸い込む。
「……天神地祇! ことわけては、火の大神! その御力、いまひととき我に下したまえ!! 火神招来、八咫火烏(やたのひがらす)!」
静かに、そして力強く、卑弥呼の涼やかな声が響き渡る。
そして。
ゴウ!
という轟音とともに、卑弥呼の頭上に紅蓮の炎が渦を巻く。
「おお!!」
そのまましばらく、炎は卑弥呼の頭上で渦を巻いて燃え盛っていたが、次第に形を整え、出来上がったものは……
「これは……鳳凰か!?」
鳳凰――火の鳥であった。
皆が驚愕の表情で見つめる中、火の鳥は悠然と頭上を一周すると、大きく開け放たれていた窓から外へと飛び出す。そして、しばらくの間空を気持ちよさそうに飛び回ると、やがてはるか上空へと飛び上がり、
ドオォォォォォォン!!
という大音響とともに爆発する。
「なんと……」
一同、唖然とした表情で空を見上げる。
「……如何でしょうか?」
「……確かに、今の術があれば、戦も早く終わるかもしれませんね」
「美しい……! あのような華麗な術を目にしたのは、黄巾の乱以来ですねぇ!」
「うむ……よし、我が軍は三日の後に出立する! それまで、張コウ将軍、ならびに卑弥呼殿、難升米殿は休息を取られるがよい」
「ははッ!!」
一方、その頃、蜀では。
すでに、呉領内に潜ませていた間諜により、呉が遠征軍を起こして蜀に侵攻するという情報をつかんでいた。つかんではいたのだが――。
「……………」
連日催される軍議は、具体的な対策案が出るわけでもなく、日に日に雰囲気が暗く、暗〜くなっていくばかり。五丈原で劉備、関羽、諸葛亮、月英、姜維を失ったダメージは、ただでさえ人材不足気味であった蜀にとっては相当なものであった。武の面ではいまだ張飛をはじめ、趙雲、馬超、黄忠、魏延といった面々が健在であったし、関羽の養子である関平、張飛の娘である星彩といった、次世代の武将がわずかではあるが育ちつつある。だが、その武と両翼を成す知の面で蜀にはこれといった人物がなく、この一点が、五丈原の戦いから五年をかけて陣容を回復しつつあった蜀軍の大きな足枷となっていた。
そして、今回の軍議では……。
「許昌から、張コウが建業に派遣されたそうにございます」
軍議に集まったのは、劉備の跡を継いだ劉禅を前に、張飛、趙雲、馬超、黄忠、魏延といった武将と、馬良、楊儀、費イ、蒋エンといった幕僚の面々。まずは馬良が口火を切って、許昌に潜ませている間諜からの情報を報告する。
「張コウが? まさかとは思うが……」
「そのまさかにございます。魏と呉は我が軍の五丈原の敗戦以来、久しく合肥でにらみ合っておりましたが、此度の張コウの派遣は、その合肥方面での戦における和議を結ぶ目的であるとのことです」
「呉にとっては、渡りに船じゃろう。この和議、まず間違いなく成るとみてよかろう」
黄忠の言葉に、一同、重々しく頷く。
「……となると、魏は後顧の憂いがなくなるということですか。我が軍が漢中から長安方面に進軍するのは、ますます厳しくなりますね」
「ええ。かねてから準備をすすめていただいていた趙雲将軍には申し訳ありませんが、此度の作戦、延期、あるいは中止ということになろうかと思います」
「……いえ。一度軍を動かした後では、取り返しのつかないことになるかもしれません。いずれにせよ、私が動き出す前でよかった。涼州に出てからでは、引き返すのに時間がかかりますから」
ほぅ、と、趙雲はため息をつく。
蜀の領土の大部分を占める四川盆地は、四方を険しい山々に囲まれた、気候も温暖で、生産力豊かな土地に恵まれた地域である。周囲を天然の城壁に囲まれているあるだけに、攻めがたく守りやすい地であったが、これは逆を言うと、四川盆地の中から外へ出るのも難しい、ということになる。
もちろん、蜀から外へ、あるいは外から蜀へと進軍する経路がないわけではなく、常識的な経路としては、二つ存在する。
一つは、今は亡き諸葛亮が北伐にて使用した、漢中から秦嶺山脈を西に大回りをして、街亭・陳倉・天水あたりに出てから長安・洛陽に抜けるルート。もう一つは、長江沿いに荊州に抜けるルートである。
だが、この二つのルートも、「一応、そういうルートがある」というレベルのもので、大軍を動かすには困難を極める。そのため、諸葛亮は迅速に作戦を進めるために、成都から北東に二百キロほど離れた漢中に丞相府を置き、そこを最前線として軍事行動を起こしていた。今回予定されていた魏への進軍も、漢中にて趙雲、馬超が中心となって準備をすすめて先行して進軍し、あとから張飛、黄忠、魏延といった面々が率いる本隊が成都を出発する、という計画であったのだが――。
「呉が侵攻してくるというのであれば、やはり長江沿いに……ちょうど、劉備殿が蜀に入った時と、ほぼ同じ進路で来るじゃろうな」
「ええ。間違いないでしょう。問題は、それをどこで迎え撃つかですが……」
考えに沈む一同。本来ならば、呉軍が四川盆地に入る前に、つまり、こちらから長江沿いに荊州方面に進出して迎え撃たねばならないのだが――十七年前、同じ呉を相手にした夷陵での大敗を頭がよぎるのか、誰もそれを口にしようとしない。
そこへ。
「やれやれ、情けないねぇ。諸葛亮一人いないだけで、こんなになっちまうのかい?」
「………? 誰だ!?」
声がした方をを見ると、暗緑色の頭巾と衣服をつけ、白い布で顔の半分以上を覆った背の低い男が、杖を片手にひょこひょこと入ってくる。
「こ、こら! 勝手に入るんじゃない!」
「まぁまぁ、そう固いこと言いなさんな。……よっ、と」
後を追いかけてきたらしい兵士を軽くあしらって、男は杖を横にして空中に浮かべると、それに飛び乗り、腰掛ける。
「申し訳ありません! この男が、陛下に目通り願いたい、と」
「ほほう、あんたがあの阿斗様だね? 大きくなったねぇ。なるほど、劉備殿によく似ていなさる」
「な……無礼であるぞ!」
まじまじと劉禅を見つめる男。あわてて取り押さえようとした兵士をひょい、とジャンプしてよけると、彼は呆然としている趙雲の前に着地する。
「久しぶりだねぇ、趙雲殿?」
「な……まさか、ホウ統殿!?」
「その、まさかだよ。ホウ士元、今、戻ったよ」
「なんと……失礼じゃがホウ統殿、お主は落鳳坡で張任によって……」
「ああ、あれかい? もちろん、囮さ」
「な………っ」
「おいおい、ホウ統! 生きてたんなら、なんだって今まで顔を出さなかったんだ!? お前がいれば、俺たちはここまで苦労は……」
「うむ。張飛殿のいう通りじゃ。お主がいれば、夷陵での敗戦もあるいは……」
「まぁまぁ、そう熱くなりなさんな。あっしだって、好きで隠れていたわけじゃぁ、ないんだよ?」
ため息をつくと、ホウ統はふと、天井を見上げる。
「……あれは、蜀に入る直前のことだったかねぇ。諸葛亮に頼まれたのさ。蜀侵攻戦のどさくさにまぎれて、戦死したことにしてくれないか、とね」
「…………」
「もちろん、最初は断ったさ。だが、今思ってみれば、諸葛亮は自分が短命で、道半ばにして逝くことをわかっていたのかもしれないねぇ。『私にもしものことがあったときのためです』と言って、頭を下げてきたんだ」
(短命……ソレ、有リ得エン……)
「諸葛亮に頭を下げられちゃぁ、仕方がない。落鳳坡に伏兵があることを知ったあっしは、そこで囮を立てて行方をくらました、ってわけさ。……そして、それから二十年。五丈原で本当に諸葛亮が逝っちまった、ってわけさ」
(アレ……自業自得……病気……違ウ……)
「……おんやぁ、魏延殿、どうかしたかね?」
「……ナンデモ、ナイ」
五丈原での真相を唯一知る魏延だが、ここはあわてて首を振る。
「そうかい? ……それより、呉が攻めてくるんだろう? どうするんだい?」
ホウ統の問いかけに、趙雲達は再び、考えに沈む。
「……やれやれ、しょうがないねぇ」
ため息をつくと、ホウ統は壁にかけてあった蜀周辺の地図の前へと歩いていく。
「……いいかい? 蜀の地は周りを高い山々に囲まれた難攻不落の地だ。だが、その山を越えられたら、後は成都までそれほど高い山はないから、防衛の拠点になるような場所も限られてくる。つまり……あっしらは、敵が四川盆地に入ってくる前に、それを迎え撃たなきゃならない。わかるね?」
頷く、一同。
「となると、こっちから長江を下っていかなきゃならないねぇ。そしてなおかつ、こっちが守りやすい場所に陣取って呉の侵攻を防がなきゃならなくなる。……となれば、ここしかないねぇ」
「白帝城、か……」
ホウ統が杖の先で指し示した場所に、趙雲達は暗〜い雰囲気で応える。白帝城といえば、夷陵での敗戦の折、呉の火計でほとんどの兵を失った劉備が、単騎同然で逃げ込んだ場所である。蜀軍の面々にとって、あまりいい思い出のある場所ではない。
「……まぁ、あんたたちの気持ちも、わからんではないがね。この戦は、絶対に勝たなきゃならないよ。ここで負けちまったら、劉備殿が遺したこの蜀という国が滅んじまう。そうならないためにも、全力で呉に当たるよ」
「……望むところだ」
「劉禅様……?」
「父が託した大徳の世の夢……このようなところで潰えさせるわけにはいかぬ。ホウ統、趙雲、叔父上、黄忠、馬超、魏延……皆、私に力を貸してくれ!」
「おう、まかせとけ!」
「うむ。劉備殿の夢、このようなところで無にするわけにはいかんわい!」
「……それじゃぁ、早速準備にかかるとしようかねぇ。出撃は早いほうがいい。二日後には、成都を出るよ!」
「おう!」
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