それより一週間ほど後。
建業を発し、長江を遡上する呉の大船団の中ほど、中規模の戦艦の甲板上で、張コウは不機嫌極まりない表情で空を見上げていた。
「嗚呼……美しき者には、それ相応の苦難が付きまとうもの……ですが、これはあまりに……」
ぶつぶつと呟くその声は、いつもよりだいぶ甲高く――そう、まだ声変わり前の少年のように聞こえる。
「ひどい、ひどすぎる……嗚呼、天よ! 私が一体、何をしたと!?」
見上げる空に輝く太陽が、いつもに比べてだいぶ遠く感じる。それだけではない。戦艦に掲げられた魏軍の軍旗が、青い色で縁取りをした白い布に黒い文字で「張」と染め抜かれた張コウの軍旗が、いつもよりも高く、そして巨大に感じられる。
「………恐ろしい呪いね………」
隣を行く船から遠めに見つめていた卑弥呼が、誰にともなく呟く。
呪い――そうとしか表現できない現象が、今の張コウには、起こっていた。
卑弥呼が初めて張コウに会ったときは、まさに見上げんばかりの長身の美男子であった。身長は百九十センチを超えるというから、卑弥呼とは実に四十センチ近い差があったことになる。
ところが……その翌朝、張コウに会った時には、その身長差が半分よりもさらに少なくなっていた。もちろん、卑弥呼の身長が一晩にして伸びたのではない。張コウの身体が、縮んでいたのだ。加えて、元々細身に見えた身体が、さらにほっそりとした身体になっていた。一切の無駄なく鍛えられていた筋肉が明らかに減っている。そして何より、精悍さと洗練された美しさを兼ね備えていた容貌が、まだあどけなさの残る、純朴そうな少年の容貌へと変化していた――要は、十歳……いや、ことによると十五歳近く、張コウが若返ってしまっていたのだ。
「嗚呼、これは一体……なんとしたことでしょう!?」
ヒステリックに喚き散らした張コウの声の甲高さに、卑弥呼は思わず吹き出してしまった。そしてそれ以来――張コウの機嫌が、きわめて悪い。
一体、彼に何が起きたのか。
拗ねる張コウをなだめながら聞いた話によれば、次のようになる――
あの日――つまり、張コウが建業に到着した日の夜のこと。
部屋で休んでいた張コウの元に、陸遜から二つの箱が届けられた。
添えられていた手紙には、一つは、張コウにあてたもので、もう一つは、魏帝・曹丕にあてたもので、共に、今回の出兵に対する礼物として、呉軍都督陸遜の名義で贈る、といったようなことが書いてあった。
また、こういうことも書いてあった。
曰く、
「これは荊州を占領した折、蜀丞相諸葛亮がひそかに荊州にて開発し、蓄えていた数々の秘宝のうちの一つで、「長命の宝珠」と名がつけられておりました。ついては、此度の援軍のお礼として、魏帝陛下と貴国張儁乂将軍に贈ります……」
要は、昼間見た卑弥呼と難升米がつけていた首飾り同様、諸葛亮が開発した道具であるらしい。「長命の宝珠」という名前がいささか気になる点ではあったが――、
「……おお、これは美しい……」
恐る恐る箱を開けてみると、中には緑色の宝石をあしらった、金細工の指輪が入っていた。陸遜の書状から判断するに、曹丕にあてた箱の中にも、同じものが入っているらしい。
「……しかし、美しいものには必ずトゲがあるもの……。殿が身につける前に、まずはこの私が、この身を持って安全であるか確かめてみましょう!」
何のことはない、単に自分が真っ先に試してみたいだけなのだが――ともかく、張コウは嬉々として指輪を取り出し、自分の指にはめてみる。
大きすぎも小さすぎもせず、張コウの指にすっぽりと収まった金細工の指輪は、部屋の明かりに反射して、キラキラとまばゆい光を放つ。
「……嗚呼、何と美しい……」
気を良くした張コウは明かりを消すと窓を開け、月明かりに照らしてみる。
折しも、満月の夜であった。煌々と輝く月の光があたりを銀色に染め、部屋の床に、張コウの影が長く伸びる。
と――。
しばらく月明かりに手をかざしているうちに、指輪にあしらわれた宝石が、輝きを増したように思えた。
「………?」
怪訝そうな面持ちで、張コウは宝石を覗き込む。
その瞬間であった。
「…………うっ、こ、これは………!?」
グラリ、と視界がかしいだかと思うと、ぐるぐると世界が回転を始める。
「め…が……まわ……」
激しい眩暈に、足元から身体の力が抜け、張コウは目頭を抑えたまま、その場にうずくまる。
「う……これ……は…………?」
ぐるぐると回る視界の中で、指輪についている宝石が、ぼんやりと光を放っている。
これはいけない。
急いで外そうと指輪に手をかけたところで――張コウは、意識を失った。
翌朝。
窓から差し込んでくる日の光で、張コウは目を覚ました。
「う……昨日は、一体……?」
ゆっくりと起き上がって、張コウは軽く頭を振る。
床の上で寝ていたからか、身体中に痛みが走る。
大きく伸びをしてから、張コウは立ち上がり、窓の外を見やる。
「今日も良い天気ですねぇ…………?」
と、日差しに手をかざしたところで、張コウは思わず、喉に手を当てた。
「あー、あー……」
声が、いつも以上に甲高く感じる。
「おかしいですね……あー、あー……」
喉に手をあてながら、何度か声を出してみるが、一向に元に戻る気配がない。
首をかしげながらベッドに戻ろうとして、張コウは、ふと、あることに気付いた。
ベッド、テーブル、椅子……それ自体は、別に怪しいところもない、普通の家具である。
だが。
違和感を感じるのだ――こんなに、丈の高い家具ばかり置いてあっただろうか?
「………?」
ふと上を見上げると、部屋の天井が、やけに高く見える。
次いで、鏡を見て――張コウは、悲鳴をあげた。
「嗚呼……なんということでしょう!!?」
自分の身体が、縮んでいる――いや、身体そのものが、幼くなっていると言おうか。
密かに自慢していた長身が二十センチ近くも縮んでいるのみならず、日々の鍛錬で鍛え上げた無駄のない筋肉が削げ落ち、自他共に認める美貌(?)も、年端の行かない少年のものになってしまっている。
そこへ。
「張コウ殿、如何なさいまし……た………?」
引きつる声。
見ると、部屋の入り口のところで、卑弥呼が呆然とした表情でこちらを見つめている。
どうやら、隣の部屋をあてられていた彼女が、張コウの悲鳴に何事かとやってきたのらしい。
変わり果てた張コウをまじまじと見つめ、次いで、パチパチと目をしばたたかせる。
「エ、エエト……張コウ殿……です……よね………?」
尋ねる卑弥呼に、張コウが力なく頷く。
「…………」
昨日会った張コウは、見上げんばかりの長身の美丈夫ではなかったか?
それなのに、今、目の間にいる張コウは明らかに背が縮み(とはいえ、それでも卑弥呼との間には二十センチほどの差があったが)、それだけでなく、全体的に幼く見える――それも、十五歳ばかりも。
「あの……一体、何が………」
「………きッ、聞かないでくださいッ!」
ヒステリックに叫ぶと、張コウは指につけていた指輪を外そうとする。
が。
「……は、外れない………」
緑色の宝石をあしらった、金細工の指輪。
ちょっと力を入れればすぐにも外れそうなのに、まるで張コウの指の一部にでもなったかのように吸い付いて、びくともしない。
「嗚呼、これは一体……なんとしたことでしょう!?」
「卑弥呼様、如何なさいました?」
甲板でぼうっとしていた卑弥呼に、難升米が心配そうな表情で声をかける。
「いえ……」
「それにしても、大きい船ですなぁ。我が国では、このような船を作ることなど、到底できませぬ。いずれ、このような大きな船を作れるような国にしたいですなぁ……」
あたりをしきりに見回しながら、難升米は感心したように呟く。
「……卑弥呼様?」
「……え? ええ、そうね。このような船を作れるような、そんな国にしなくてはね……」
応えるものの、卑弥呼は心ここにあらず、といったふうに空を見上げる。
(大丈夫かしら?)
雲ひとつない大空を見つめながら、卑弥呼は自分自身に問い掛ける。呉の宮廷で大見得を切ってみたものの、卑弥呼にとっては、これが、生涯初めての戦いである。
(それにしても――)
大陸の戦の、何と規模の大きいことか。
舳先から周りを見渡せば、自分たちが海を越えてくる時に乗っていたものより何倍も大きい船が水面を埋め尽くし、それぞれの船に今まで見たこともないような数の兵士が乗船している。これほどの数の兵士がぶつかり合う戦となると、一体どのような戦となるのか――もはや、彼女の想像の域を遥かに越えてしまっていた。
その点、今までに幾度かの戦を経験している難升米の反応は、卑弥呼とはまた違ったものになっている。
もちろん、戦に参加する兵士の数に驚いたことは驚いたものの――、
「このような戦、国では二度と経験できぬでありましょうなぁ」
と、こちらは卑弥呼と違い、ある種の期待にも似た感情を抱いている。このあたりが、女王と武人の違いというところであろうか。
不安と、期待。
相反する二つの感情を乗せたまま、呉軍の軍船は雲ひとつない青空の下を、一路、蜀領内に向けて遡っていくのであった。
一方、蜀軍である。
呉・魏連合軍、大軍を以って長江を遡上中――白帝城にあってその報に接した蜀軍の面々に、一様に緊張が走る。
呉皇帝・孫権自ら率いる呉軍は、陸遜を軍師とし、周瑜、呂蒙、甘寧、黄蓋、凌統、孫尚香といった、そうそうたる顔ぶれがならぶ。これに加え、張コウ率いる魏軍と、異民族の将が率いる呉の一軍がある。都・建業にはわずかに太史慈率いる一軍しか置いてこなかったあたりに、この戦における孫権の意気込みが見て取れる。
対する蜀軍も、陣容としては呉軍に劣らぬ顔ぶれをそろえている。
実に二十年ぶりに蜀に帰参したホウ統を軍師として、張飛、趙雲、馬超、黄忠、魏延、関平、星彩といった面々。
「蜀・呉の興廃存亡、この一戦に在り、か……」
眼下に長江を臨む白帝城のテラスで、趙雲は一人、呟く。
黄巾の乱以来、実に五十年余りの長きに渡って続く戦乱の世に、天下は疲弊しきっている。
「劉備殿の目指した、大徳の世……太平の世を築くためにも、まずはこの一戦に勝ち、呉を打ち破らなくては……」
「……そう、気負うもんじゃないさ、趙雲殿?」
「ほ……ホウ統殿……」
「どうも、あんたは堅苦しくなりがちだねぇ。いつもそんなで、疲れちまわないかい?」
「つ、疲れるなど、そのようなことは……」
ない、と続けようとして、趙雲は口をつぐんだ。
「……二十年」
「……?」
「落鳳坡で劉備殿の下を離れて二十年……あっしは北から南、西から東。いろんなところを見て回ったよ」
夕日色に染まる眼下の景色を眺めながら、ホウ統は続ける。
「魏、呉、蜀……いまでこそ、天下は三つに分かれちゃいるが、下々に暮らす民の生活はほとんど同じさ。黄巾の乱から、ずいぶんと長い時間がたってしまったからねぇ」
「ならばこそ、我らの手で天下を一つに。皆、その思いで戦っております」
「天下を一つに、か……。でもねぇ、趙雲殿。ただ単に、天下を一つにしたいんだったら、一番早い道は魏の下で働くことなんだよ?」
「な……っ」
「蜀と呉とは比べ物にならないくらい魏の領土は広いし、それだけに民の数も多いから、動員できる兵士の数も桁違いさ。人材という面でも馬鹿にならない差を持っているしねぇ。周りから見れば、魏が天下を制すると見るのは、当然のことさ」
「………」
ホウ統の言うことに、間違いはない。魏の領土は天下の半分を占め、その残り半分を蜀と呉とで分け合っている状況だ。動員できる兵士の数も、蜀と呉が動員できる数をあわせても、魏が動員できる兵士の数には及ばない。
周りから見れば――つまり、周囲の異民族から見れば、いずれは魏が乱世の帰趨を制するであろうことは明白に思えた。国力にこれだけの差がある魏に蜀と呉が対抗しえたのは、蜀の諸葛亮と呉の魯粛によって、両国間に同盟が築かれていたことによることが大きい。劉備と孫尚香の結婚などはその最たるもので、これにより、蜀と呉はそれぞれ対魏政策に専念できたし、逆に魏は蜀と呉とに相対する二正面作戦を強いられていたわけだ。
だが、その蜀と呉の同盟も、数年前の五丈原での戦で劉備が戦死したことにより、破棄同然の形となってしまっている。五丈原の戦いの後、呉が合肥に進軍してくれたからこそ蜀は今まで命を永らえることが出来ているが、あの時、呉が合肥ではなく、長江を遡上して蜀領内に侵攻してきていれば、一体どうなっていたことか――五丈原の戦の折は成都にあって留守を守っていた趙雲にとって、五丈原の戦の詳報が届いてから呉が合肥に進軍したという一報を受け取るまでの数日間は、今までに経験したことのない、酷く息苦しい時間だった。
「……確かに、天下統一に一番近いのは魏かもしれない。だが――」
「……だが?」
「――私は、劉備殿の夢見た大徳の世……それを、見てみたい。劉備殿亡き今、それを築くのは果てしなく険しい道かもしれない。でも、それでも、私は――」
「……劉備殿も、ホントに偉大なお人だねぇ」
「…………?」
「死してなお、人の心をつかんで離さない。死してなお、その意思を継いで目指した道を歩んでくれる人間がいる。……とてつもないお人だよ。魏の曹操、呉の孫権。どちらも希代の英雄だ。そしてそれぞれに魅力的だ。……でも、その二人には決して持ち得ない何かが、劉備殿にはあったんだねぇ。だから、今の今までこうして皆がんばってる。………そうだろう、魏延殿?」
「魏延………?」
少し首をかしげて、趙雲はホウ統の振り返った先を見る。
「ホラホラ、そんな所に隠れてないで、出てきなさいな」
「ウゥ……」
促されて、魏延が壁の後ろからすまなさそうに姿を現す。いつからかは分からないが、二人の話を立ち聞きしていたものらしい。
「……我、戦イシカ、知ラヌ……。諸葛亮、我、最期マデ、認メヌ。ダガ……」
まぶしそうに夕日に手をかざし、魏延は続ける。
「……ダガ、劉備、我、認メタ……戦イシカ知ラヌ、我、認メタ。……劉備、死ンダ。デモ、我、戦ウ。劉備ノ想イ、叶エタイ……」
「……魏延……」
「趙雲……劉備ノ夢、叶エル、我モ同ジ。皆モ、同ジ……ダカラ、我、戦ウ。皆モ、戦ウ……」
珍しく饒舌な魏延に、フッ……と、趙雲の表情が緩む。
「だからさ、趙雲殿。これは蜀呉存亡の戦いなんかじゃない。この戦を起点に、蜀が勢いを得る……そんな戦いに、しなくちゃならないよ?」
「………そうだな」
頷いて、趙雲は夕日に染まった空を見上げる。
――決戦の時は、近い。 |