目が覚めた。
見慣れぬ天井。いまいち居心地の悪いベッド。そして何より、しっくりと来ない、この部屋の空気。
旅先の、ホテルの一室である。
だるそうに上半身を起こして、真は軽く首を振った。
横目に見やったデジタル時計は、まだ起きるには早い時間を示している。
ほぅ、と、彼は大きくため息をついた。
隣のベッドでは、咲夜が規則正しい寝息を立てている。
氷浦を出てから、5日目の朝。
今朝も、夢を見た。
初めてのことだった――夢を見ることが、こんなに恐いのは。
「あー、かったりぃ。世の中平和なら平和で、結構暇なもんだねぃ」
窓の外は、本格的な梅雨より一足早い、どんよりとした曇り空。
とんでもなく不謹慎な科白を吐いて、JGBA職員・弥侘枝葉司はあくびをしながら、椅子に座ったまま大きく背を伸ばした。
「おいおい、そんな言い草があるかよ」
そんな彼の頭をポン、とたたいて、若い男が分厚い書類を片手に自分の席につく。
「お、河原。お前、いつ氷浦から戻ってきたんだ?」
あくびをした拍子に出た涙をぬぐいながら、弥侘は隣の席に座った男に声をかける。
「今朝の、早い便でな。そのまま家でくたばっちまおうかと思ったんだが、そうも行かないような気がしてな」
「そのままばっくれてりゃよかったものを、お前は真面目な奴だねぃ。……それはそうと、どうだったんだ?」
「どう、って、何が」
「向こうのことに決まってんだろ。結局、どんな具合だったんだ?」
「向こう」と聞いて、河原はわずかばかり顔をしかめる。
「……まぁ、やりがいはあるんじゃねぇか? 思いっきり人手が足りてないみたいだしな」
「だよなぁ。それじゃなきゃぁ、わざわざこんな田舎から人を呼ぶことなんてないだろうぜ」
「ま、働くにはいい環境だよ。バックアップもしっかりしてる」
「じゃぁ、いっそのこと転勤願いでも出してみるか?」
「冗談だろ? 好き好んで魔界に足を踏み入れる趣味は持ってないぜ」
弥侘の言葉に、河原が大真面目な顔で首を振る。
「「魔界」か……」
「ああ、ありゃぁ、魔界だぜ。お前の後輩から回ってきた情報がなけりゃ、ちょっとやばかったかもな」
「まぁ、あいつもそれなりに知識は持ってるからなぁ……」
一瞬遠くを見つめた弥侘の脳裏を、夢人の顔がよぎる。そういえば電話で織姫がどうこうと言ってたが――。
そんな彼に気付くことなく、河原が何かを思い出したように尋ねる。
「それはそうと、お前、織姫真って聞いたことないか?」
「織姫真?」
「ああ。向こうではかなり名の知れた退魔士らしいんだけどな」
「まぁ……知らんこともない。この世界じゃ特Aクラスの有名人だしな」
「そうなのか? まぁ、それはいいとして。その、織姫真な。JGBA氷浦が監視対象に指定したらしい」
一瞬の間。
「……そ、そりゃまた……物騒な、話だな。何かやらかしたのか?」
「監視対象」と聞いて、弥侘が眉間にしわを寄せる。
「まぁ、俺も所詮は部外者だから、詳しいことは知らないが、どうやらあの一件で、とんでもない能力を持ってることが露見したらしいんだ」
「露見したらしい――って、ずいぶん頼りない話じゃないか?」
「まぁ、その場に居合わせた連中の供述から推測しただけだから、はっきりとしたことは言えないらしい。それくらい現場が混乱してた、って事だよな」
「そんなもんかね。……で、何なんだよ、そのとんでもない能力、ってのは?」
「言霊と、魔眼――この2つが同居してるらしい」
「………そいつはまた、とんでもない化け物だな」
「まぁ、俺も氷浦署の特別広域課……だったかな? なんか、そういったところが書いた中間報告のコピーを読んだだけだから、なんともいえないんだがな」
「JGBAの報告書は?」
「まだ調査中とかで、見せてくれなかった。まったく、肝心なところを隠してんだよな、氷浦の連中は」
働くにはいい環境なんだがね、と、河原は肩をすくめる。
と。
「おい、弥侘はいるか?」
と、上司が書類を片手に弥侘の姿を捜している。
「はい、課長。何です?」
「すまんが、今から診野山方面のパトロールに出てくれないか。それと、河原。氷浦から戻ったばかりで疲れているだろうが、一緒に行ってくれ」
「了解」
「……やれやれ、人使いの荒さは何処に行っても変わらないな」
あわただしそうに上司が去ったのを確認して、河原はため息をつきながらぼやく。
「やっぱり、転勤願いでも出すか?」
「……それも、いいかも知れないな」
ニィ、と笑うと、河原は車のキーを取り、ガレージへと向かうのだった。
「そうか……真君が、監視対象に、な」
病室のベッドの上で、葛城は深刻な表情で一人、頷く。
「それで、行方のほうは?」
「駄目ですね、まだつかめていません。家のガレージに車が残っていたところを見ると、どうやら別の車で出たようです」
ゆかりが、大きくため息をつく。先の戦いで傷つき、入院した葛城の見舞いがてらに、JGBAの監査部が出した中間報告書を持ってきたのである。
「それより、体のほうは大丈夫なんですか?」
「まぁ、ね。この分だと、近いうちに退院できそうだ。すまないね。ウチに応援に来てもらっている上に、こうして見舞いにまで来てくれて」
「いえ……。それにしても、真君のことが気になりますね。どうして姿を消したのか……。それほどまでに、真君が危険な存在だというのでしょうか?」
「うむ……確かに、あの能力はかなり危険だな。この報告書に書いてある通り、ほんの一瞬で大多数の人間に重傷を負わせている。ゼロ距離から遠距離まで、あらゆる間合いで有効な攻撃能力――悪用すれば、とんでもないことになる」
「悪用、ですか……」
「ああ。例えばの話だが、真君が相田と同じような存在になった場合、あれは本当に手の付けようがない。実弾兵器で狙撃でもしない限り、止められないだろうね」
「…………」
「それにしても、何処に行ってしまったのか……。気持ちは、分からないでもないんだがな……」
心配そうな表情で、葛城は窓の外に目を向ける。
梅雨が近い空は、どんよりとした雲に覆われていた。 |