Graffiti 17 −春風に包まれて−


 札幌に戻った俺は、ほのかに電話する前にさっき譲ってもらったガラス細工を自宅へと送った。
当然、厳重に割れないように、である。
何故持っていかなかったかというと、何かの拍子でほのかに見られてしまう可能性があるかもしれない、と思ったからである。
そうなれば、彼女に成功の報告をするどころか、計画自体が水泡と化すのは必死である。
ほのかに電話したのはそれから1時間後、5時前だった。第一声に、「ごめん」という言葉を入れたが、相変わらず少々ご機嫌ナナメのようだ。
帰ってくる反応、その言葉がやや冷やかだった。俺の良心(?)にズキズキと堪える。
ところが、電話を切る直前のほのかの言葉には驚かされたし、嬉しくもなった。
「じゃ、明日9時に札幌駅の前で。」
ほのかがそういう前に、俺は「明日も大学の厩舎で待ってる」と言うつもりだった。
昨日まではあれだけ「友人に見られること」を避けていたほのか。しかも俺に予定を崩されてなおそのご機嫌は傾いてたはずなのに。
「何がそうさせたか」は分からないし、どうでも良かったが、俺にとっては非常に嬉しい限りだ。
が、その反応に一抹の不安も感じていることも確かだ。

 その日も非常に天気が良かった。連休中3日とも天気が良かったことは嬉しいことだが、何よりも今日雨が降らなかったことは、神様に救われたような気分である。
もし今日雨だったら、ほのかの顔を見ることはできなかったかもしれないし、その穴を埋めるのは容易なことではない。
たとえ一発逆転の可能性を秘めた作戦があっても、である。
少々ドキドキしながら待ち合わせ場所へと向かった。前回同様、それを目の前にしたときの表情と第一声がいまだに決まらない。
それに、待ち合わせ場所が変わったからという訳ではないが、ほのかの変装(?)を、一発で見分けられる自信がない。
(これは半分冗談だが。)
それもあって、待ち合わせ場所の15分前に待ち合わせ場所に着いたが、なんとすでにほのかは待っていた。
そして、さらに驚かされたのはその姿。
てっきり今回も帽子と眼鏡は必須だと思っていたが、帽子も眼鏡もなし。それどころか、すぐにでもナンパされそうな、とても可愛い服装だった。
白いワンピース(だと思うが、俺は服の種類にウトい)に、真っ赤なミニスカート。
確かに今日も夏のように暖かいが、予想をはるかに越える露出度の高い恰好。さらに俺の心の動揺を誘った。
俺はそれを必死に抑えつつ、ほのかのもとへと向かう。
「ご、ごめん。待った?」
「ううん、今来たとこ。あっ、昨日は電話ありがとうね。」
「いや、いいんだよ。それにしても、今日は暖かいね。」
俺はほのかのその恰好を遠回しに示唆した。それに機嫌がいい理由も。
「そうね、じゃ、行こうか!」
ところがほのかはそれには一切触れず(いや、気付かなかったのか)俺の手を引き、電車に乗り込んだ。
当然、向かう先は富良野。
「さて、今日はどんな展開を見せてくれるのか。」
いつもとは違うほのかに、やや期待しながら...。
富良野へ着いたのはおよそその1時間後だった。こちらも変わらず天気がいい。
途中、昨日は何をしていたのかと聞かれたが、当然真実を話すわけにはいかない。かといって、バイトなんていえば、せっかく良くなったほのかのご機嫌を損ねかねない。
俺は「オヤジにいろんな所に連れていってもらった」と、てきとうに頭の中のか細い知識を見繕って答えた。
と、一瞬ほのかの顔が引きつった。が、その表情もすぐに元に戻り、
「あたしに言ってくれればもっといろんな所、案内してあげたのに」
と非常に嬉しいことを言ってくれた。
俺も「今度はほのかに連れていってもらおうかな」とご機嫌を取っておく。
そして、ようやくあの写真の風景が現実のものとなって目の前に現れた。
一面紫。他の色が全くといっていいほど見当たらない。
一番広いはずの空でさえ、その色が反射しているような感じさえした。
ところが良く見ると、一色だけ妙に映えている色があった。
それは赤い色で、やや離れたところで動き回っている。
「ねえ、早くおいでよー!」
相変わらず元気のいいほのか。機嫌がいいというか、はしゃいでるというか。
(...。はしゃいでる!?)
「やっぱりスゴイね。一面の紫、壮大だね。」
「そうでしょ。私もここに来るとようやく春がきたな、って感じるの。」
「同感。それにこんなに壮大なのを見るのは初めてだから。」
「えっ、あなた見たことなかったっけ。」
「ほら、こっちに住んでた頃、この時期は入院してたし、遠足の時はまだ咲き始めだったし。」
「あっ...。そうか、ごめんなさい。」
「どうしてほのかが謝るのさ。」
「だって、私を助けたせいで...。」
「もう謝らなくてもいいよ。昔さんざん謝ってくれたじゃない。それに、それがあったからほのかとこうやって一緒に見れるんだから。嬉しいよ。」
「えっ。う、嬉しい?」
「うん、嬉しい。」
「そう...。よかった、やっぱり貴方を誘って。」
そういってほのかは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、俺が退院したときに見せてくれたその笑顔そのままだった。
背格好こそ昔とは違うが、その変わらない笑顔は、とても懐かしかった。
「ねえ。なんか顔がニヤけてるよ。」
「そ、そうかな...。」
「また何か変なこと考えてるんじゃないの?」
「まさか。ただ純粋に嬉しいだけだよ。」
「ふーん...あやしいなぁ」
「ホントだって。」
「分かったわ、信じてあげる。ねえ、もうちょっとあっちの方に行ってみない?」
ほのかがそう言った、その瞬間だった。
突然、一面の紫が水面のように波立ち、春風が巻き起こる。
それが耳の横を駆け抜けた瞬間...!
「キャッ!!」
...。予想もしなかった出来事だった。まあ、俺にとってみれば嬉しいかぎりだったが。
でも、ほのかに言ったらゼッタイ怒るから言わないけど。
だから目にゴミが入ったフリをする。
「ち、ちょっと。今見たでしょ?」
俺はわざと目を擦りながら答える。(わざとらしい...)
「えっ、な、何を?」
「何を、って...ホントに見てないの?」
「さっきの風で目にゴミが入っちゃって。ハンカチ貸してくんない?」
「ホントに〜?何か怪しいなあ。」
そう言いながらもほのかはハンカチを取り出し、俺に貸してくれた。そして、
「分かったわ...。信じてあげる。」
「あ、ハンカチ今度洗って返すから。」
「うん。いつでもいいよ。」
「ありがとう。」
それからしばらくは、紫の中でゆっくり流れる時間を感じながら、腰掛けてゆるやかに流れる春風に身を任せた。
ほのかは何度か「ホントに見えなかった?」と尋ねてきたが、そんなこと言えるはずもない。嘘をつくのは多少気が引けるが、それ以上に事実は悲惨な結果を生む。
せっかくのこの雰囲気、壊したくない。
そして、願わくばこのままずっと...。

「それじゃ、そろそろ帰るよ。」
札幌駅に戻り、空港に向かうべく切符を買いながらそう言う。個人的には空港まで一緒に行きたかったが、今回は連れていく理由がない。(前回も理由という理由ではなかったが。)
「そう。」
「それじゃ、ちょっと早いけど、もう行くね。」
「あっ、ねえ...。」
「うん、何?」
「あのね...。ううん、やっぱりいい。」
「何?途中でやめるなんてズルイな。」
「ゴメン。ホントになんでもない。」
「どうしても言うのイヤ?」
「う、うん。」
「じゃあ聞かない。」
「えっ!?」
「だって、イヤなんでしょ?」
「うん、ありがとう。でも、どうして?」
「どうして、って、せっかくほのかの機嫌が直ったのに、イヤな気分で別れるの、俺がイヤだから。それに、また来たいし。札幌。」
「あ、ありがとう...。」

ほのかとは駅で別れた。帰り際、ほのかは俺が見えなくなるまで(というより俺が見える限り)手を振っていた。
あれだけ見られることを拒んで、嫌っていたほのかをそうさせたものは、一体何なのだろうか。
それが何なのかは今の俺には知る由も、その手段もないが、ほのかの誕生日に実行する計画がその鍵になることを、今は期待するしかなさそうだ。

そして今日感じた春風が、俺の凍りついた思い出をゆっくり溶かしていくような、そんな気がした。
戻る次へ