Graffiti 22 −溺れるものは...?−


 てっきり駅にでも向かうのかと思っていた俺は、ほのかが何処に向かっているのかまるっきり見当がつかなかった。
まあ、それは毎回同じことなのだが、今日のほのかは大学の外に出ようとしない。
大学も夏休みに入ってるせいか、辺りに人影はほとんどなかったが、大きな荷物を抱える女の子と、それについて歩く視点の定まらない男は、傍から見れば非常に奇妙な光景だったろうと思う。
そして、強い日差しに照らされて、俺の体からは昨日のアルコールと大量の汗がふき出てくる。
寝不足も重なり、多少バテた、とそう感じた時だった。
ほのかはある建物の前でその足を止めた。
中に何があるのか外見からは分からなかったが、何となく涼しげな雰囲気が伝わってくることだけは感じ取れた。
「着いたよ。」
「ここ?」
「うん。」
「でもここって、大学の何かの施設だよね。」
「そうだけど。それがどうかしたの?」
「いや、ほら。部外者の俺が勝手に入っていいのかな、って思って。」
「何だ。そんなこと気にしてたの?大丈夫だよ。今夏休みで誰も使ってないし、それにちゃんとパパに頼んで許可ももらってるし。」
「それを聞いてちょっと安心。でも中には何があるの?」
「それは入ってからのお楽しみ。」
そう言ってほのかは初めてあの謎の荷物の中から、一つの袋を取り出して俺に渡した。
「これ、何?」
「いいの。中に入ったら必ず必要になるから。」
と強引に俺を納得させ、俺の手を引いて建物の中へと入っていった。

中に入った俺は思わず尻込みする。
そこは大学の水泳部が使う屋内プール。
大量の水に冷やされた辺りの空気はひんやりと涼しかったが、俺の体から再び得体の知れない汗が吹き出てくる。
そしてほのかに渡された袋の中身は、水着...。
ほのかは「じゃ、先に着替えて待ってて」と更衣室に消えていったが、その時の俺の表情はおそらく見ていなかったのだろう。
その訳を正直に言おう。俺は「カナヅチ」だ。
水を見ただけで気絶してしまうほどひどくはないが、25m泳ぐのが精一杯なのだ。
...。確かに今日も暑い。
そして例年にない暑さ。ここに住む人にとってみれば泳ぎでもしないと暑くてやってられないと思う気持ちは分かるが、でも、ちょっとツラい。
と、そんなことはどうでもいい。泳げないことも正直に言った。
それ以上に、俺の体からでる汗の意味。
そう。俺以外には誰もいない、つまりはほのかと二人っきり...。

さて、水が先か、ほのかが先か。俺が溺れるのは...?

 ほのかがその気(泳ぐつもり)で来ているのに俺だけプールサイドで観察、という訳にもいかず、とりあえず先に着替えて溺れないように準備運動をする。
水に入ることを断ろうかとも考えたが、わざわざ水着まで用意していてくれたほのかのことを考えるとそういう訳にもいかない。
しかしまあ、よく男物の水着をほのかが買ったものだ。あの男嫌い(?)のほのかが、だ...。
それにもまして男(俺=いくら命の恩人とはいえ)の前で水着姿とは想像もしていなかった。
そしてどういう訳かそのサイズはピッタリ俺の体に合っている。
どうやって調べたのか多少疑問に思ったが、それ以上に俺の気持ちを支配していたのは、2つの溺れる危険からどうやって逃れようかという考えだけだった。
 ビビッていてもしょうがない、と片方の危険から逃れるため、体を慣らすべく水の中に入る。
最初はやや恐怖感があったが、さっき太陽に照らされ、たっぷりと汗をかいたせいか、触れる水が非常に冷たくて気持ちがいい。
「泳げなくてもそう感じるんだな」と思いつつ、近くにあったビートバンに頭と足を乗せて、しばらく小刻みに波立つその水に体を任せた。

そのまま5分程水の上を漂っただろうか。あまりの気持ち良さと睡眠不足からか、半分眠りかけていた俺は急に波立った水面に驚いて我に返った。
それに揺らされる体を安定させるべくあわてて足をついて辺りを見回すが、見えるのは波立った水面と強い日差しの差し込む、誰もいないプールサイドだけだった。
寝ぼけていたせいで何が起きたのか良く把握できなかった俺は、とりあえず水から上がろうと、足を動かしたその瞬間だった。
目に写る全ての風景が残像を残して縦に流れ、目の前が揺れる。
...!何が起きたのか全く分からない。自分がいまどういう状態なのか分からない!!
しばらくしてようやく水の中だとういうことだけは把握できたが、確認しようとしても怖くて目が開かない。
「このまま溺れて死んでしまうのか?」と思った次の瞬間、俺の足首を握る誰かの手の感触があることに気付いた。
そしてそれが何かを確認するべく生まれて初めて水の中で目を開ける。

...。目の前にあったのは、水中で揺らぐ、悪戯に微笑むほのかの顔だった。
そしてほのかは俺の足から手を離し、すっ、と水面へ向かって上がっていった。
俺もその後を追う。というより慌てて水面にもがき上がったというべきか。
とても苦しかったが、ちょっと嬉しかった...。

ようやく空気のあるその場所に顔を出した俺を待っていたのは、水に半分隠れた、「ごめん」と微笑むほのかの顔だった。
「ごめん、びっくりした?」
「そ、そりゃまあ...。」
「だって一人だけ気持ち良さそうだったから、ちょっと悔しくなっちゃって。」
「そう?」
「うん。とっても気持ち良さそうだったよ。あっ、ひょっとして疲れてるんじゃないの?」
「いや、そんなことはないと思うけど。でもホントに死ぬかと思ったよ。」
と俺が言うと、ほのかは笑ってこう言った。
「まさか。泳げない訳じゃないでしょ?」
(...そのとおり。泳げないんだよ...。)
「ま、まあね。」と俺があいづちを打つとほのかは、「やっぱり疲れてるんだよ。」と俺の手を引いてプールから上がろう、と誘う。
そしてほのかがプールから上がった瞬間、俺は再び溺れそうになる。
ほのかのその姿に...。
俺より一足先に水から離れたほのかを、いわば下から眺める恰好になった。
ほのかの言葉を借りればそれは「変なコト」にほかならない。 しかしそれはあくまでも不可抗力であり、俺がそうしようとした訳ではない。
などと、ほのかに問い詰められたときの言い訳を考えていた俺は、そのシチュエーションに自分の顔が赤くなるのを感じ、傾きかけた理性と顔色を立て直すため、少々怖いが再び水の中に頭を沈める。
そして数秒後(俺にしてみれば長い方)その顔を上げたが、無惨にもカウンターパンチを喰らう。
俺を待っていたのは、濡れた髪が悩ましげに流れる、にこっと微笑み、座って俺に手を差し伸べるほのかだった...。
「ほらっ、早く上がって。もう、子どもみたいなんだから。」

俺は再び崩れようとする理性を必死に保ちながら、その手に身を委ねた...。

「うーん、やっぱり気持ちいいね。」
夏らしい太陽が差し込むプールサイドに二人並んで座る。当然、少し距離を置いて、だ。
だが、普段服を着ているほのかからは想像できないほどスタイルのいい体型と、かわいいピンクの水着のほのかは、その光以上に俺の目を眩ませる。
断っておくが、「変な意味で」じゃないぞ。
そう。こう、何というか、胸を締めつけられるというか何というか...。
何とも説明しがたいのだが、まあ、同じ男なら理解してくれ。
「うん、そうだね。」
俺は必死に自分の気持ちを隠しつつそう答える。そしてこう続ける。
「でもまさか北海道に来て泳ぐなんて考えてなかったよ。」
「えっ、そう?」
「うん。」
「でもそれもきっとあなたの偏見だよ。」
「うん。そうだとは思うけど、まさかね...。」
「ん?まさか、って何?」 そう言ってほのかは下から覗き込むように俺の顔を見る。
「いや...。やっぱ怒るから言わない。」
「あっ、いやだ。エッチ!」
そう言って顔を赤らめるほのか。
「いや、まさかこんなに可愛いほのかの水着姿が見れるなんて思ってもみなかったから。あ、いや、でもホントに変な意味じゃないよ。」
「えっ...。ホントにそう思ってくれてるの?」
と、以外にも嬉しそうな表情を見せた。
「うん。良く似合ってると思うけど、いけなかったかな?」
「う、ううん、そんなことないよ。」
そう言ってほのかは顔を赤らめ、それを隠すようにプールへと飛び込んだ。そして、
「ねえ。あなたも早くおいでよ!冷たくて気持ちいいから!」
と再び俺を水の中へと誘う。
が、さっき溺れかけた俺は、可愛いほのかがいるにもかかわらず、そこへ足を踏み入れる勇気がない。
中に入ったら必ず溺れる。だが、「どっちに?」などとくだらないことは聞かないでほしい。
だから、せっかく誘ってくれたほのかには申し訳ないが、正直に話す。
「ごめん、ほのか。俺、実はあんまり泳げなくて...。」
「えっ?」
「いや、だから泳げないんだって。」
「冗談でしょ?」
「残念ながらホント。」
「じゃあ、さっきはホントに...?」
「恥ずかしながら。」
「ごめんなさい。私、てっきりふざけてると思ってたの。」
「いや、いいんだよ。泳げないくせにのんびり浮かんでた俺も悪いし。」
「ホントにごめんね。」
「いいんだって。あんまり気にしないで。ねっ?」
「うん...。わかった。」
「そう、それでいいの。」
俺がそういうと、ちょっと俯いて少し泣きそうな顔をみせていたほのかは、
「それじゃあさ、私が教えてあげる。だから...。」
と言って、俺を水の中へと誘おうとする。
そのほのかの表情にたまらず俺は、「怖い」と心の大半を支配する気持ちを押し殺し、水の中へと足を入れる。
するとほのかは「私が手を持っててあげるから」と、俺の手を握り、後ろへと歩き出す。

そして俺はこの体のすべてを再びほのかの両手に託した。
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