Graffiti 26 −冬が気持ちを洗うとき−
その手にはさみを持つまで数十分かかった。
当然封を切るためで、普段ははさみなんか使わずビリビリと破るんだが、この手紙にだけはそれができなかった。
そう。上から触れる限り、今まで手にしたほのかからの手紙と比べると(たった2通だが)、異常に厚い。
たぶんほのかの思いが徒然と書かれているに違いない。
そしてそう感じるからか、それが妙に重く感じられる。
だから、封を切れなかったのかもしれない...。
ようやくためらっても仕方ないと、一度深い深呼吸をしてから封筒にはさみを入れる。
中に入っていたものは、一枚の手紙と、もう1つ別の封筒。
恐る恐る手紙を開く。そして中その手紙はさらに俺を困惑させた。
開いた手紙には、何も書かれていなかった...。
これにどういう意図があるのか。何が言いたいんだろうか?
まさか入れ間違えたということはないだろう。そして書き忘れたということもだ。
でもなぜ「真っ白」なのか...。
その答えはもう一つの封筒にあった。いや、答えかどうかは分からないが、たぶんそういうことだろう。
今度はためらうことなく封を切る。
その中に入っていたのは、日付指定の航空券のチケットだった。
そしてその日付は12月24日。
俺は迷うことなく、稚内へ向けて旅立った。
真っ白な銀世界を数年振りに目のあたりにする。
吐く息は外気にふれたとたん凍りつき、周囲の色と同化する。
そして時折吹きつける風は、東京にいるときは感じることができないほど鋭く頬を駆け抜け、着てきたコートすら役に立たないと思うほど体を芯から冷やす。
あまりに寒くて歩くことさえ嫌になりそうな、生きとし生ける者すべてを拒絶するようなこの世界は、まさに今の俺の気持ちそのもののような気がした。
でも時折雲の間から差し込む光に反射して輝くそれは、同時に希望を与えてくれるような、そんな印象さえ与えてくれた。
しかし俺をこの時期に、ここまで来させたほのか。一体俺に何をさせようというのか。
しかも指定された場所はまだ遥か遠い稚内。感覚的に考えて着くのは夕方近くになりそうだが、そんな時間に何をするのか。
そしてそこは日本の最北端、つまり日本の終わり...。
まさかほのかはそこで何かを終わらせようとしているのだろうか。
でも、何を終わらせる?
俺との今までの関係を...?
でもそれならわざわざ稚内まで呼び出す必要はない。手紙に一言そう書けばすむことだし、そんなことにわざわざ金を使う必要はない。稚内までは相当な旅費がかかる。
でも、なんとなくではあるが、何かにケジメをつけようとしているのではないかという気がする。
それが何なのか。そしてなぜ稚内なのか。
そこに向かう、冬の強い風にあおられて多少揺れる飛行機の中でそう考える。
でももしそれが目的でないとしたら一体...?
そう考えるとなんだか妙な胸騒ぎがしてたまらなくなった。
「早くほのかの顔が見たい...。」
札幌より強くて冷たい北風を受けつつ、手紙に書かれている住所を目指す。
幸いふぶいてはおらず、雲の間から時折光が差し込むが、雲行きはなんとなく嫌な感じだ。
流れる雲は低くて重たく感じるのに、その動きは驚くほど早い。
直感的にこれから天気が悪くなるのではないだろうかと感じ、歩く足も一層早くなる。
だが、いくら進んでもそれらしき建物は見当たらない。
途中地元の人に場所を聞き、言われたとおり歩くが、周りの建物は距離に反比例するかのように少なくなっていく。
そして周りに人の気配が無くなって、あきらめて戻ろうとしたその時だった。
地に落ちた雪が風で舞い上がり、視界こそ悪いが、遠くにそれらしき建物が見えた。
「ようやくほのかに会える。」
今まで重かった足がなにかに引かれるように俺の体をそこへと向かわせる。
「沢渡...。」
壁にかかっている表札を見て間違いないことを確認する。その建物はログハウス調の建物、というか別荘という感じだった。
外観からは「避暑地」という感じがする。この季節に本当にここに住むことができるのだろうか...。
半信半疑のまま、とりあえずドアをノックする。
「こんにちはー。誰かいますかー?」
...返事は帰ってこない。
何度かそれを繰り返す、が、全く反応はない。そして悪いとは思ったが、ドアノブに手をかけ、手首をひねる。
...思いがけずドアが開く。そして、中はとても暖かくて気持ちがいい。
さすがに勝手に上がり込むのはマズいと思ったが、冷えた体はその思考を押し切った。足が前に進む。
さらに呼ぶが誰も出てこない。が、よく見ると暖炉の火は赤々と燃えており、そこにくべられている薪はまだ燃えていない部分が多い。
「まさか、外か?」
この寒空にそれはないと思ったが、これだけ呼んでも誰も出てこないということは、それしかないだろう。
再び外へと足を踏み出す。
いままで歩いてきた道では誰とも出会わなかった。つまり、このログハウスよりもまだ先にほのかはいるということになるだろうと、さらに北へと足を運ぶ。
両脇に広がるのは流氷が打ち寄せる波打ち際。そして正面に見えるのは防波堤の終わり...。
...誰かいる。防波堤の根元で海を眺めている...!
「ほのか!」
俺は大声で叫んだ。するとほのかは一瞬こちらを見るような仕草を見せたが、またすぐに海に目を向けた。
さっきより一層海に近づいて...。
「まさか、そんなこと...。」
俺は必死にほのかのもとへ向かって走った...。
「ほのか、どうして...。どうしてこんなところに...。」
切れる息を必死にこらえながら話しかける。が、ほのかは冷たい海を見つめたまま俺の方を見ようとはしなかった。
「ほのか、ごめん。謝るよ。俺が悪かったから。」
「...........。」
「ほのか...。」
「...........。」
「ごめん。ホントに悪かったって思ってる。
あれからずっと考えてたんだ。ほのかの言葉を。そして、ほのかの気持ちを考えないであんな行動をとった俺は本当にバカだった、って...。
今日だってホントに謝ろうと思ってきたんだ。
チケットが送ってきたのには驚いたけど、でもこれって、ほのかも俺に直接何か言いたかったから送ってくれたんじゃないの?」
「...........。」
「俺は今まで、今日までの旅で、自分の過去をいろいろと見つけてきた。見つけてきたっていうより、ほのかに思い出させてもらったんじゃないか、って今ではそう思ってる。
それについ何年か前のとても大事なことを忘れた俺が悪いんだと思うけど、今になってみればそんな思い出なんてどうでもいいんだ。
またほのかにこうして逢えた...。
今はそれだけでも十分価値のあった行動だと自分では思ってる。
けど、ほのかが何も言ってくれないんなら、俺にその続きはないし、続けていく気力もない。
俺一人の力ではこれ以上昔の記憶をたどることはできないと思うから...。」
「...........。」
冷たい風の吹きすさぶ中、その音にかき消されないように大きな声で話し続けた。今にも一歩足を前に踏み出しそうなほのかに...。
そしてそれは絶対聞こえていたはずだった。
でも、それでもほのかは振り向きもせず、そして、その口を一向に開こうとはしなかった。
「分かったよ。それがほのかの答えなんだね...。ホントに今までありがとう。また東京で逢えたらいいね。」
そう言って俺はほのかに背を向けた...。
そして海から吹きつける冷たい風に背中を押されるように歩きだそうとしたその時、ほのかはようやく口を開いた...。
「振り向かないでそのまま聞いて。」
突然、ようやく口を開いたほのかに驚いて一瞬振り向きそうだったが、振り向けなかった。
いや、振り向けなかったというより、たぶん振り向かなかったんだと思う。
もし振り向いてもきっとほのかの顔が見れなかったと思う...。
「私ね、あれからずっと考えてたの。あの日からずっとここで...。
きっとあなたから電話があるだろうと思った。だから私は家にいたかったけど、パパが研究で2ヶ月ここに来ることになってて、どうしても来なきゃいけなかったの。
...。あのときはホントにびっくりした。目を開けたらあなたの顔が目の前にあったんだもん。
それで思わず手が出ちゃったの。」
背中を向けたままの俺にほのかはそう話し始めた。そしてその声はトーンは意外にも柔らかかった。
そしてこう続ける。
「でも勘違いしないで。ホントに怒ってたんだから。ホントにあなただけは信じてたし、まさかあなたがあんなことをするとは思わなかった。
...。それでね、今までここで一人で考えてた。友達にもいろいろ相談してみた。
どうしてあなたがあの時ああいう行動をとったのか。
でも、いろいろ考えたけど、答えは出なかった。
それでね、あなたの気持ちを直接聞いてから答えを出そうと思ったの。
...。ねえ、あなたはどうして...?」
その言葉を聞いた俺は、まだ俺の思い出は完全に閉ざされていないことを確信した。
そして、ようやく振り向くことを許された俺は、ようやくほのかの顔を見ることができた。
...そのほのかの顔には、ただ不安な表情だけがあった...
「どうして?って聞かれても、俺もあの時はとっても緊張してたから、その時の自分の気持ちはよく憶えていない。その場の雰囲気に流された、って言えばそうかもしれないけど、ほのかだから、ほのかだったからそうしたんじゃないかと思う。」
「えっ...私だから?」
「うん。今この場でこういうこと言うのはズルいし、答えになってないと思うけど、俺もここに来てようやく確認できた。
今まで思い出してきた昔の記憶は、俺にとってとっても大事なものだし、まだどこかにある残された思い出も、これからの俺にとってきっと大切なものだと思う。
そして、それを取り戻すのはほのかの協力は絶対必要だから...。」
「ホントに...ホントにそう思ってくれてるの?」
「うん。これからも手伝ってほしい。俺の記憶を探すのを。」
「...。うん。分かった。」
そして、そう言ったほのかの顔にようやく笑みが戻った。
「ホント?じゃあ、許してくれるの?」
「けど今度あんなことしたら絶対許さないからね。」
「分かってるよ。約束する。」
「ホントにぃ?怪しいなあ。」
「ホントだって。もし今度あんなことしたら、東京タワーのてっぺんまで登るよ。」
「そこまでしなくていいけど、でも、あなたのこと信じることができたもん。」
「ありがとう。」
「でも、私以外の人にもそんなことしてるんじゃないでしょうね?」
「まさか、俺はほのか一筋だよ。」
「ちょっと寒くなっちゃった。じゃ、家に戻ろうか。」
いつものようにあっさりと俺の言葉をかわしたほのかは、俺を残して家の中へと入っていった。
俺は決して優しくない、その冷たく吹きつける風に何となく気持ちが洗われていくような気がして、しばらくそこにいたいと思った...。
そしてこう思う。
「きっとほのかも同じだったんだろう」と...。
戻る/次へ