防波堤の傍らに並んで座る。暗くて、でもとても穏やかな海を見つめて、そして少し距離を置いて...。
家を出てから何か会話の材料になりそうなものはないかと辺りを見回していたので、雲一つない空には、今にも降ってきそうなほど星が輝いていることは知っていた。
が、「ほらほのか、見てごらん。星がとってもきれいだよ...。」なんて言葉は、恥ずかしすぎて俺にはとても言えない。
シチュエーションとしては完璧なほど条件は整っていると思うが、今それを求め、促すことは自殺行為であるし、それに今は何故かそんな気分にはならなかった。
さっきまで同じ屋根の下で一晩過ごすのかと思って緊張していたのだが、こうやって極めて閉鎖的だった環境から少しだけ開放されたからだろう。
静寂はさらに続く...。そして、ふと横に座るほのかの顔を見る。
その目線はどこを向いているのかは分からなかったが、一点を見つめたまま何かを考えているようにも見えた。
でも俺が星を見上げると、ほのかもそれに気付いたのか、合わせたように空を見上げ、ふーっとそれを吹き落とすかのように息をゆっくり吐き出す。
そして相変わらず会話のないまま、静かな時がこのまま続くんだろうかと思ったが、再び彼らが戻ってくるまでそう長くはかからなかった。
徐々に重たい雲が星空を覆い始め、冷たい風がほのかの長い髪をなびかせる。
そしてその風に小刻みに身体を動かすほのかに、自分の着ていたコートをその肩にかけて立ち上がり、すっと手を差し出した。
ほのかは何も言わずこくりとうなずき、静かに俺の手を取った...。
もう少しこの雰囲気をと思ったが、彼らの気分の浮き沈みには毎回驚かされる。
暖炉の前で再び冷えた身体を温めるころには、もう時計の音は聞こえなくなっていた。
そして体が温まったせいか、緊張からちょっとだけ開放されたせいか、それとも体が単に素直なだけかは分からないが、時間とともに眠気が襲ってくる。
「それじゃあ、あなたはパパの部屋で寝てね。」と、ほのかに促されるままリビングを後にする。
俺としてはもう少し会話を楽しみたいとも思っていたが、どうやら眠いのは俺だけではなかったようだ。
ほのかはそれを見せないようにしていたが、俺を部屋まで案内して自分の部屋に戻るとき、手を口元に当ててあくびをこらえるような仕草を見せた。
きっと俺以上に緊張してたんだろな...。
初めて入る、ほのかの親父さんの部屋。何となく近くにあったソファーに腰をおろして部屋を見渡す。
といってもここは本当の家ではない。そのためか、家財道具は少なく、そしてここには「生活の匂い」があまりなかった。
でもさっきほのかが言ったとおり、少々タバコの匂いのついたこの部屋。そのせいか、俺はなんとなく親父のことを思い出す。
親父の部屋もちょうど同じようにタバコの匂いがしていた。
叱られるときも、直訴しにいったときも、そして泣きつかれてそのまま眠ってしまったときも、最後は俺を丸ごと包んでくれた。
ほんの少しだけ昔に戻ったような、そんな安心感が俺の心を埋める。
そしてそれに誘われるように、少しずつ、浅い眠りへと堕ちていった...。
最初は風で叩きつけられている戸の音だろうとしか思わなかった。
再び強くなった吹雪は、俺をここに足止めさせた時以上に激しく吹きつけ、うっすらとしかない意識でもそれを再認識させられる。
そして不規則に壁に打ちつけられる雨戸の音に混じって、なんとなく弱々しく、規則的に刻まれる音が耳に届く。
それがほのかがドアをノックする音であることを理解するまでそんなに時間はかからなかった。
というよりはほのかに起こされたと言うべきか...。
「...ねえ、まだ起きてる?ちょっといいかな?」
「あっ、う、うん。ドア開いてるから入っていいよ。」
と返すが、なかなかドアは開かない。
「ここはほのかの家なんだからそんなに気をつかわなくてもいいよ。」と言うが、ドアは一向に開く気配がない。
ああ見えても意外とシャイなんだなあ、と思いつつドアを開けた。
ドアの前に立っていたほのかは、両手に枕をしっかりと抱いて、それに顔を押しつけて下を向いたまま何も言わず、じっと立ちすくんでいた。
そしてその姿は、再び俺の理性をぶち壊すかのような、とてもかわいいパジャマ姿。
今日何度目か分からない、再び速くなる胸の鼓動を抑えつつほのかに問いかける。
「ど、どうしたの?何かあったの?」
「う、うん...。ちょっと眠れなくて、ね。」
「そうなんだ。実は俺も眠れなくてね。」と俺が言うと、ほのかは俺の目をじっと見てこう言う。
「うそ。」
「えっ、なんで?」
「だって目が赤いよ。」
「そうかな?別に俺泣いてないけど。」
「...。もう、いじわるなんだから。そんなに寒い思いをしたいの?」
「ごめんごめん、冗談。実はちょっとうとうとしてたとこなんだ。」
「起こしちゃってごめんね。」
「ううん、いいんだよ。ほら、そこは寒いから早く中に入んなよ。」
「うん、ありがとう。」
眠れないからと部屋に入ってきたほのかだったが、別に何をするわけでもなく、ただソファーに座って部屋の中を見ていただけだった。
俺はさっきの昔話の続きでもと思っていたのだが、ほのかが目線も合わせず、口も開こうとしないということは、本来の目的はそれではないんだろうと思った。
そして何となくではあるが、その目線はさっき見たのと同じような気がした。
きっと俺に何か言いたいんだろう。でも、その決心がなかなかつかない、といったところだろうか...。
「ほのかも俺と同じなのかな?」
と突然口を開いた俺に驚いたのか、はっとした表情で俺の顔を見る。この状況ではいろんな意味に取れるこの言葉に、自分の考えを見抜かれた、と勘違いしたのだろうか。
「えっ...、な、何が?」
「この部屋だよ。」
「この部屋、ってパパの部屋?」
「そう。」
「同じって、どういう意味なの?」
「いや、ほのかにはまだ話してないけど、俺の親父もヘビースモーカーだったんだ。いっつも部屋の中はこんなふうにタバコの匂いがしてた。」
「ふーん、そうなんだ。」
「それで昔を思い出した、って訳じゃないんだけど、この部屋にいるとなんだか落ち着くんだ。親父が戻ってきたみたいで...。」
「ふうん。でも、戻ってきた、ってどういうこと?単身赴任で外国にでも住んでるの?」
「ん...、まあ、そんなとこかな。」
「そうなんだ。早くもどってくるといいね。」
「うん、そうだね...。」
「それで、ほのかはどうなの?」
「うーん...、私もそうかな。タバコの匂いってあんまり好きじゃないけど、パパの部屋だけは特別かな。」
「やっぱり俺と同じような気分になるのかな?」
「そうね。理由は分からないけど、確かに落ちつくね。」
「ふうん。で、どうして落ち着かないの?」
俺がそう聞くとほのかの口は再び閉じたまま動かなくなった。別に俺は、その思いのたけを聞いたわけではなかったのだが、ほのかにしてみればそう聞かれた、と取れたのだろう。
そこで俺は言葉を変えて聞いてみた。
「いや、こんなこと聞くの変かもしれないけど、ほのかはどうして眠れないの?」
ところが、そう聞きなおしても相変わらずほのかの口は開かなかった。が、安堵の表情を浮かべると同時に、徐々にその頬が赤くなっていくのが分かった。
「...笑わないでよ。」
「何を笑うのさ。眠れない理由がそんなに面白いの?」
「だって、私北海道の人間だし、きっと言ったら笑うもん。」
「笑わないよ、約束する。」
「ホントに?約束だからね。あのね...。」
「何?」
「あのね...。吹雪の音が怖くて眠れないの...。」
「なあんだ、そんなことだったの。俺だって気になってなかなか寝つけなかったんだから。」
「そう...なの?」
「うん。それにほら、ほのかも言ってたじゃない。札幌とは比べものにならない、って。」
そう言って俺は笑った。ほのかもようやくいいたいことが言えたからか、俺につられるようにクスクスと笑う。
そしてひとしきり笑ったところで、俺は大あくび。
「じゃ、そろそろ寝よっか?」とほのかに再び促される。
「えっ、ここで?」
「うん。だから、怖くて一人じゃ寝れないんだって...。」
「でも...。だって俺男だよ。絶対に何もしない、って言い切るほどの自信ないし。」
「うん...。分かってる。でも私、あなたのことを信じてるから。」
「....分かった。じゃ、ほのかがベットに寝なよ。」
「ううん、私が押しかけてきたんだもん。私がソファーに寝るから、あなたはベットを使って。風邪引くと困るから。」
「それはほのかも同じでしょ?それにこの部屋暖かいから大丈夫だし、大事な一人娘をこんなところに寝かしちゃ、親父さんに怒られるよ。」
「でも...。」
「いいからいいから。ほらっ。」
「うん...。ごめんね。ありがとう。」
「そう。素直でよろしい。」
俺がそう言うとほのかはプクっと頬を膨らませて怒ったような表情を見せて、大事そうに抱え込んでいた枕を俺の顔めがけて投げてきた。
至近距離からの攻撃をかわせなかった俺の顔に命中。そしてそれを受け止めて、顔からずらしたときにはほのかはすでに布団の中にもぐり込んでいた。
そしてもぐり込んだままこう言う。
「おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ...。」
それからどれぐらい時間が経ったんだろうか...。
あまりにもイレギュラーなこの状況に、さっきまでの眠気がどこかに消え失せてしまった俺は、ほのかに気付かれないように狸寝入りでごまかしていた。
そしてほのかはぐっすりと眠っているのか、静かに寝息をたてている...。
あれほど神経をとがらせて、なかなか心を許してくれなかったほのかが、俺という一人の男の前でこうやって無防備な姿をさらしている。
ほのかが「男」という生き物に対して距離を置いて接する、その理由は俺には分からないし、その生き物である我々には到底理解のできないことなんだろう。
ただ、その原因が俺にあるとしたら、俺はとんでもない罪作りな男なのかもしれない。
いままでほのかを、一人の女の子をずっと苦しめてきたかもしれないと思うと、無性に胸がせつない気持ちで埋めつくされていった。
その後も眠れぬ夜は続く。ソファーに座ったまま、静かに眠るほのかをじっと見つめて...。
「今日は眠れそうにないからこのまま朝まで...」と思ったその時だった。
窓の方(俺とは反対の方向)を向いて眠っていたほのかが寝返りを打った。
そして、生まれて初めてこの目でほのかの寝顔を見た。
その表情は、緊張感も、警戒心も、そしてなんの不安もない、本当にやすらかな寝顔だった。
(愛しい...。)
初めて俺はそう思った。前からほのかが好きだったという自分の気持ちには気付いていたし、ほのかもきっとそうなんじゃないかと思ってる。
そしてそれは今、俺の気持ちの大半を占めている。
...理性とかそんなんじゃなかった。心の底から感じる、「抱きしめたい」という気持ちが、自然と俺の身体をほのかに近づける。
そしてあと数歩でほのかに触れる、その距離に達したとき、
「うーん...。」
我に帰った俺は、ようやく今自分の取っている行動に気付き、慌ててソファーまで後退する。そしてすぐさま狸寝入り。
この状況でほのかが目を覚ましたら、もう決して許してもらえない。せっかく信頼を回復したのに...。
ところがほのかは全く起きる気配がない。どうやら寝言だったようだ。安堵のため息がもれる。
「うーん...。ゆき...に...。」
再びほのかの寝言。だが、今度は何か話しているようにも聞こえた。
「ゆき...まつり...に...。」
そして今度ははっきりと聞き取れた。「ゆきまつり。」
雪まつりっていえば、札幌の一大イベントであるが、きっとその夢でも見ているのだろう。
そういえばもうすぐそんな季節だな。
俺をまともに見たことないし、今度はほのかでも誘って一緒に見に行こうかな...。
そして寝言とは妙にかわいらしい、どことなく笑みを浮かべるそんなほのかを見つめながら、徐々に俺も深い眠りへと墜ちていった...。