Graffiti 30 −白い交換日記−


 自分の着ていたコートを下に敷き、ほのかをかまくらの中によりかからせてそこを出る。
それはちょっと缶コーヒーでも買いに行こうと思っただけで、別に理性がどうのこうのとか、目を覚ましたときに気まずいと思ったからではない。
歩き続けて、降り続く雪の中で、立ったまま話して冷えた体を温めるため...。
ほのかにその理由を問い詰めたことは間違っていなかったと思う。傍からみ見れば単なる恋人の口ゲンカにしか見えなかったと思うが、きっとこれはほのかにとって大事なことなんだと、どこか割り切れない自分の気持ちを納得させる。
さすがにあの涙と、この状況は俺の気持ちにも重く堪えた...。
 両手で握れないほどの熱い缶を両脇に抱えて走ってきたが、幸いにもほのかはまだ目を覚ましていなかった。
「まさかこのまま...、」と変なことも考えたが、すっかり泣き止んで、静かに寝息を立てているところをみるとそれはなさそうだ。
理由は分からないが、よほど疲れていたのだろう...。
そしてこのまま寝かしておけば本当に風邪をひくと思い、静かに肩をゆすってほのかを起こす。
「うっ...うーん...。」
「ほのか。大丈夫?」
「...うん。ごめんね。」
「そう、良かった。でもごめんね。少し言い過ぎたよ。」
「ううん、あなたの言うことは間違ってないから...。」
そう言ってほのかは静かに立ち上がり、下に敷いていた俺のコートの雪を払い、俺に渡そうとした。
「いや、いいよ。寒いからほのかが着てな。風邪引くと困るから...。」
そう言って俺は渡そうとしたコートをほのかの肩にかける。そして、脇に抱えていた熱い缶コーヒーもいっしょに。
「ありがとう。」
そうつぶやいたほのかは、「その代わり」と言って、自分のしていたマフラーをそっと俺の首に巻き、持っていたバックの中から一つの白い包装紙に包まれたものを取り出した。
そしてその包装を静かに外していく...。
「こっ...、これは?!」
「そう。これよ。私の胸のつかえだった、私の大切な思い出。そして私がどうしてもあの日あなたに渡したかったもの...。」
「交換、日記...。」
「うん、そう...。ねえ、ちょっと歩かない?」
そう言って交換日記を俺に渡したほのかは、俺の同意を求めることなくかまくらの外に出て、再び雪像の並ぶ通りに沿って歩き始めた。

 ようやく手にした日記。懐かしい思い出の、俺の大切な記憶の詰まった日記。そしてほのかの思いも...。
そう思うと、この小さな古ぼけた日記がやけに重く感じられた。
そして、少しだけ開くのをためらう。
これを開けば、今までの胸のつかえが取れる。開きさえすれば、ほのかが今まで俺に伝えようとしていたことが分かる。
昔の記憶を、真実を求め続けてきた俺にとっては、これを開きさえすればすべて解決する。開きさえすれば、きっとこの先俺が歩むべき道が分かる...。
そう思ったから、開けなかったのかもしれない...。
そしてかまくらから出てすぐ足を止めた俺を静かに、そしてとても心配そうに、少し離れたベンチに座って見つめるほのかの目線を感じる。
俺は何をやってるんだ!。ほのかもこうやって俺に結論を示してくれた。
それをいつまでも開かなければ、いくら考えていても何も変わらないし、何も始まらない。
でも、何かが終わるかもしれない...。
そんな複雑な気持ちを抑えつつ、ようやく重たい表紙を開いた...。

 ページをめくるたびに色あせていた昔の思い出が次々によみがえってくると同時に、ものすごく恥ずかしくなった。
書かれていたその内容に、でもあったが、もっとも恥ずかしかったのは他でもない。自分の書いた字のあまりの汚さに、だ。
続けて書かれているほのかの字に比べると、あまりにも見るに耐えない、そして極端な表現。
そして自分で再確認する。
「色あせてなんかいない。俺の記憶も、この気持ちも...。」
ところが、ある程度読んだところで現れたのは、何も書かれていない真っ白なページだった。
めくってもめくっても、何も書かれてはいなかった。
「これはどういうことなんだ?ほのかはこれを俺に読ませたかっただけか?」
そう思ってほのかの方に目線を移したその瞬間だった。
日記の最後の方に、隠すように挟まれたラベンダーの花で作られたしおりが視界の端に写った。
「もしかして、ここか...?」
そしてしおりの挟んであったページに指を入れて、パッ、とページをめくった。

そこに書かれていたのは、あの頃の、小さかった頃の、短い言葉で懸命につづられた、ほのかの精一杯の気持ちだった...。

「まさか...。そんな...。」
俺は今初めて、あの時自分の取った行動を心から後悔した。
それは小さかった俺には逆らうことのできなかった、逃げることのできない現実だったのだが、これを知った今そんなことはもはや言い訳にはならなかった。
自分を納得させるだけの理由にはならなかった...。
「どうして、どうしてもっと早く気付いてやれなかったんだ...。」
やり場のない気持ちが、悔しさが、後悔が俺の胸を締めつける。
そして親父が死んだときでも流さなかった涙が、数年ぶりにこの眼から流れ落ちた。
俺は、熱くなった顔を冷まそうと、そしてそれをほのかに見られまいと空を見上げ、静かに降り注ぐ雪をしばらくその顔に感じていた...。

 ようやく顔の火照りも、涙も止まったところで、これ以上ほのかを待たせてはいけないと、静かにベンチに座ったままじっと俺を待っているほのかのもとへと向かった。
しかし俺の行動を一部始終見ていたほのかは、俺が日記を読み終えて再び自分の方に向かって歩きだしたことに、ピクリと体を動かす。
おそらくではあるが、ほのかはきっと恥ずかしかったのだろう。だから、またいつものように俺から逃げようと思ったのだろう。
でも、ほのかはそれから全く動かなかった。
たぶん覚悟を決めたのだろう。
そう。ほのかも今日きっと昔の思い出に、その辛く悲しい記憶に別れを告げようとしているんだろう...。
俺も迷わずほのかのもとへと向かって歩きだした。
 ほのかの座っている横に座る、日記はほのかと俺の間に置いて。
「ごめん、ほのか。待たせたね。」
「ううん、いいの...。それで、読んでくれた?」
「うん。とっても懐かしかった。そして...。」
続けて俺が「ほのかの気持ちも分かった」と言おうとしていた言葉をかき消すようにほのかは口を開いた。
「お願い!何も言わないで...。」
「えっ...?」
「お願いだから...、何も言わないで...。」
そう言ったほのかはしばらく口を開こうとはしなかった。
そして相変わらず降り続ける雪は、お互いの気持ちを隠すかのように、ほのかの肩に、俺の肩に。
そして、二人の間に置かれた日記の上にゆっくりと積もっていった...。

 しばらくそのまま二人とも動かなかった。というよりは動けなかったと言った方がいい。
俺はほのかの次の言葉を待ち続けた。普通なら寒くてとてもじっとしていられないはずのこの俺が。
「一体何を言いたいのか?それとももう何も言わないのか...。」
さっきよりひとしきり強く降り積もる雪が、ホントにすべてのものを覆い隠そうとしている。
辺りの木々を、綺麗に作られた雪像を。そしてお互いの胸の内を、伝えたくて言葉にしたくて仕方がない、お互いの想いまでも...。
そしてほのかの肩に積もった雪を手で払いのけようとしたその時だった。
ほのかがすっ、と立ち上がる。そして、俺に手を差し伸べて、
「今日はこのまま幸せな気分でいさせて...。」と。
「うん...。ようやく同じ気持ちになれたね...。」
俺はそう言って、すっかり冷たくなったほのかの手をしっかりと握りしめた。
そしてすっかり人気のなくなった通りを、初めて二人手をつないだまま歩いた...。
相変わらず言葉もないままに。
でも、お互いの気持ちをこうやって分かり合えた今、会話というコミュニケーションはもう必要ない。
そしてほのかも俺も、ベンチに残してきたあの大切な日記を取りに行こうとは一言も言わなかった。
昔の辛くて苦い、淡い思い出を。

ベンチに置き忘れた日記は、いつしか白い雪に埋もれ、きっと遠い過去へと戻っていくんだろう...。

 翌日俺は東京に戻った。
オヤジとのバイトの契約はまだあと3日程残っていたが、何となくそんな気になれなかった。
俺には東京に戻ってやるべきことがあるような、そんな気がしていた。
けど、「それが何かは俺自身にも分からない」とオヤジに言うと、多少困ったような表情を見せたが、
「お前には随分世話になったし、忙しいときに無理言って来てもらったから仕方ないな。」と言ってくれた。
 ほのかとはあの後しばらく歩いてから別れた。
「別れ際に何か一言」と思ったが、言葉を出そうと開いた俺の口に人指し指を当ててそれを止め、にこっと笑ってそのまま振り向き、本当に幸せそうに帰っていった。
ほのかが密かに、その小さな胸に、ずっとしまい込んでいた想い。
俺はそれを今こうして受け取った。そう...、ほのかはそのすべてを俺に託した。
あとは俺がそれにきちんと決着をつけてあげなければいけないんだ。そうしなければ...。
そうしなければ、俺のこの旅は終わらないし、それ以上に、ほのかはこれからもきっと変わることはできない。
その重大な結論を出すために、もう少しゆっくり考えたかったのかもしれない...。
もちろん、東京に戻ってからもバイトはしなかった。
オヤジのおかげでずいぶん金に余裕があったということもあるが、何をするべきなのかいまだ分からず、何かをするためのその何かを探していた。
こういうとあまりにもいい加減に聞こえるかもしれないが、実のところ俺も少々イライラしていた。
なんかこう、何となく頭では分かっているような、それでもきちんと「コレだ」という答えじゃない。
そしてその答えが何であるか見つけることができないまま、巣立ちの時を迎えることになった...。

 長いようで短い高校生活だった。
おそらくこれから先は二度と通ることのないだろう校門の前でそう思う。
一人校門の前に立ってじっと学校を見上げる。
この狭い敷地に建てられた、これから母校と呼ぶべきこの学校はその狭い足元ゆえ、上に伸びるしかなかった。
だからどうだというわけではないが、ただ俺が見上げた理由。それだけだ。
だがこの校舎を、学年を増す毎に上に登っていった俺達は、ついに今日屋上から押し出されるようにしてまた新たな世界へと歩きだしていく。
先の見えない、足元もおぼつかない不安な世界へ歩いていくんだと、後から来た美術部の彼が、詩人のようだと照れくさそうに言った。
が、あながちそれもおかしくはないな、と俺は笑いながら同意した。
そう。飛び出した次の世界に何があるのかは誰にも分からない。
「今までそんな経験を数多くこなしてきたお前はちっとも怖くないだろうな。いや、かえって楽しみじゃないのか?」
と訪ねられたが、それは違う。
確かに俺は今まで他の人とは比べものにならないくらいいろんな世界を体験してきた。
だが...、だがそこは1つとして同じ世界はなかった。
だからそんな経験はこれっぽちも役に立たない。
要は「その世界に自分がどう順応できるかだよ。」と彼に言うと、彼は、それが他人にはないお前だけの経験と知識なんだとうらやましそうに言った。
 話は変わるが、俺はその数ヶ月前、自分の進むべき道を決めた。
当然その道は彼と同じ道ではない。残念ながら社会は俺がその道を歩くことを認めてはくれなかった。
そして歩くべき道が決まったといっても、それはまだこの延長線上でしかない。本当に俺が一人で歩きだすまでにはあと4年ほどの歳月を必要とするからだ。

いや...。その答えを探すためにはそれくらい必要なのかもしれない...。
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