Prologue −今の自分を作るモノ−
飛行機のタラップを降りると、俺を迎えてくれたのは晴れ渡った青い空と、少し冷たくて、爽やかな春風だった。
俺が北海道を訪れるのは、これが2度目である。
うん...。2度目というのは正しくないかもしれない。あえて言うなら、「久しぶり」か...。
「久しぶり」というのも、実は7年前、札幌に住んでいたことがあった。さすがに土地勘はなくなっていたが、乏しい知識とうっすらとした記憶をもとに、辺りをぶらついてみた。
今でこそはっきり憶えていないが、冬はとても寒かった、と思う。でもその寒さは北海道の魅力(?)でもあり、特に大通り公園の雪まつりは誰もが知っていると思う。
えっ?...どうしてウインタースポーツじゃないのかって?それは、俺が得意じゃないからだ。
それに、夏は夏で梅雨がないから爽やかで気持ちいいし、泳げないほど気温が低いわけでもない。
なんでもできるそんな面白い土地だと、俺は認識していたし、今でもそれは変わらないと思う。
でも、俺が住んでいたときの冬は、そんなに寒くなかったような記憶がある。たまたま暖冬だったのかなあ、とも思うが...。
残念なことに、こんな面白い土地に住んでいたのはわずが10ヵ月という短い間だった。引っ越す間際に(当時の)友達に「雪解けから春までの季節が一番いい」と聞いたことだがあったが、北海道の四季を満喫することができないままこの土地を後にしたことは今でも非常に心残りである。
その頃=中学生までは、日本全国のいろんな土地で暮らした。それぞれの土地に、いろいろな思い出がある。結局、今住んでいる東京に落ちつくまで、北は北海道から南は長崎と、なんと全国12ヵ所も引っ越しを繰り返した。
わずか15年の人生で、である。
その中には、「どうしても引っ越しをしたくない」と、親に泣きついたこともあった。俺は、「どうして」という強い疑問を子どもながらにぶつけたこともあったが、父はその問に答えることはなかった。
当時の父がどういう職業に就いていたかは憶えていない(その当時もよく分からなかった。)が、「会社でも偉いほうなので、全国の支社を回らなければならないので仕方のないこと」とよく母に聞かされたことを今でも憶えている。
その問に答えたのは母だった。高松から引っ越す時のことだったと思うが、母は俺にこう言った。
「息子は自分の側においておきたいのだ」と。
お手本のような答えだとは子どもながらに感じた。後で聞いたことだが、母もそれで俺が納得するとは思わなかったという。
そう、納得したのではなく、そうだと自分で認識しないと、割り切れなかったのだ。
結局、父の本当の気持ちは判らなかった。支社を回るのなら自分1人でいけばいいのに、と引っ越す毎に思ったが、母いわく「様々な世界があることを知ってほしかったのではないか」という。
何故父の真意を確認することができなかったかというと、東京に引っ越してきて半年後、父は他界した。
そのことを聞いたのは、父の通夜の時だった。
数多い引っ越しの経験は、俺に意外なものを残してくれた。妙な「行動力」である。父のスパルタ(?)教育のおかげか、今回の北海道に限らず、一人旅はしょっちゅうである。
いままでの経験からか、「○○に行ってくる」と母にはひとこと言うだけで、一度も反対、若しくは止められたことはない。
母も「仕方のないこと」と思っているようだ。
すばらしい父親だとは思ったことはなかったが、唯一俺に残してくれたものかも知れない、と少しだけ感謝する。
それ以外にも父は多少の財産も残していったが、一人旅の費用はすべて自前である。親からの援助は今まで一度も受けたことはないし、母もその気はないらしい。もちろん、俺もその気はない。
すべて連日のバイトによる賜物である。おかげで、学校では帰宅部、夜と土日はバイトという、旅をするため(と、卒業するため)の生活を送っている。
他に趣味も取り柄もない、寂しい高校生活2年間だった、と傍からはそう見えたろうし、実際そうだった。
何故そんなにしてまで、と思う人もいるかもしれないが、すべては良くも悪くも旅行のおかげである。
(正確にいえば旅行という言い方は相応しくないかもしれないが。)
「卒業してからでもいいじゃないか」と友人に言われたことがあったが、サラリーマン(になるつもりはないが、)に限らず、手に職を持つと自由に行動できなくなる、というのが俺の論拠。
ならば今のうち、ということだ。
父の血を継いだか、いろんな世界を見てみたいと思う俺がなぜ2度目の北海道なのか、と思うだろうが、この行動を起こすこととなったきっかけは、春休みを1週間前に控えた日のことだった。そのことが、あの温かい冬を思い出させることになるとは思ってもいなかったが...。
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