霊 的 進 歩

4.想念 (監修者の言葉をそのまま記載しています)



 人の思いは想念として外部に出る。これは、超能力を認める人なら信じ得ることであろう。

 実際、念力やテレパシーと呼ばれるものを、自分で実験してみた人もいらっしゃることと思う。明らかに実証された、とまでは行かなくても、偶然よりは高い確率で実験が終わったという人も多いに違いない。

 霊魂学の立場からいうと、人の思いは他の人の元へ飛んで行く。これを否定する場合は、宗教における祈りを全て否定しなければならない。神や仏に祈るという行為は、人の思いが自分から外部へ伝わることを前提にしなければ成り立たない行為なのである。

 霊魂学ではこの想念を重視する。そして、念の力の強弱も大切であるが、同時に、念には霊的な質の高低があると主張するのである。
 つまり、高級な質を持つ念は高級な霊魂に届き得ると言う。そうなると、高級な質を持っていなければ、その祈りは神や仏はおろか、高級な霊魂にすら届かないということになる。これが、霊魂からの通信によれば、真実なのである。

 そうなると、人はどうすれば高級な念を発し得るのかを知らねばならない。笑いとか怒りとかいった、単なる感情の表現が霊的な質の高低とは無関係であることは言うまでもない。もっと、根本的な質の違いがあるのである。それは、あたかも、テレビやラジオのチャンネルのようなものである。たとえ、どんな性質の放送をしていようと、国営放送は国営放送の周波数でしか見られない。

 つまり、怒っていようと笑っていようと、問題はその念が出てくる元の質なのである。
 つまり、一般人が愛を心に抱いていても、だからといって、黙っていて何の感情も発っしておられないお釈迦様よりも、念の質が高いなどということはないのである。

 では、質の高い念とは何か。それが問題なのである。

 質の高い念、それは、人間的な感情や心理の状態によるのではなく、霊的な身体の質にふさわしい念の質なのである。人の脳がいくら愛を考えてみても、それは肉の防御本能や自己保存、母性本能などに根差しており、神的な愛には根差してはいない。それが、肉を持つということなのである。

 一方、肉を捨て、食事に縛られなくなった自由な魂達は、愛も憎悪も肉体に縛られることがない、そのために、地上にいた頃よりも遥かに強大な愛や憎悪を持っている。よって、地上の人間がどんなに愛情豊かといっても、高級霊魂のそれよりも格段劣るのであるし、また、どんなに邪悪な人間といっても、邪霊に比べれば赤ん坊同然なのである。
 そのため、地上のどんな立派な人間であっても、実はなかなか高級霊魂に思いが届くことはなく、どんなに悪い人間であっても、邪霊に思いが届くなどということはないのである。

 霊的な真実は奥が深く、かつ神秘的である。しょせん、これまでの宗教や神秘学が主張してきたことは、幼児に対するおとぎ話であり、真実そのものからは遠いのである。

 真の高級霊魂は今、初めて真実を出そうとしている。ただし、それは、霊的身体を成長させなければ、教わることができない。準備ができない者に真実が示されることはない。それが、霊的世界のルールなのである。


 『求めよ、さらば与えられん。』


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