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12.水波一郎師の場合は? (2013.02.13)


 水波師は普通の人ができないような荒行や、難行、苦行をされて、高貴な存在に認められるようになったのでしょうか?

 そうではないようです。

努力や苦悩を超える、という面では、普通の人と比べられるものではありません。

ですが、その努力の内容は、真冬に冷たい滝に一晩中浸かっているとか、山にこもって木の実を食べて何年も下りて来ない、というような種類のものではありません。修行自体は誰にでもできるようなトレーニングのようです。

努力すべきはそうした荒行をすることではなく、むしろ自分自身との戦いにあるようです。たとえば、「イエス・キリストは人類の罪を背負い、はりつけにされた」とキリスト教徒は言っています。

まだ正しい霊的知識を持っていない頃の、一修行者としての水波師はそうした主張を知って、もしも自分がイエスの立場であったとしたら人類のためにそこまで自分を犠牲にすることなどできるであろうか、できないとしたら、将来修行が進んでも神や人類のために何か役に立つことはあるのだろうか、といった自問自答をされたようです。

そうした過程で自分自身の人間としての弱さや未熟さ、そうしたものを発見したり、それを乗り越えようと努力したり、乗り越えられなくて苦悩したりということのようです。

つまり、普通の人のように自分はオリンピックに出たいから努力するとか、弁護士になりたいから勉強するとか、そういった自分自身の欲望や夢を達成するために努力し、苦悩に打ち勝った、というタイプではないようです。そうではなく、意識の奥にある宗教的な情熱、それは神霊のお役に立ちたい、という事のようで、そのためにどうすべきか、何をすべきか、というような事のようでした。

ですから、たとえばマラソンで歯を食いしばって最後まで走るのは大変感動的で立派です。ですが、水波師の場合は、それが神霊のお役に立つことであれば必死に走りますが、そうでなければ無理をしない、というような考え方で修行なさったように思われます。

水波師は霊的な自分にとって一番大切な事は何なのか、何が正しい道なのか、そうした事を探求しながら、霊的な修行を重ねられたようです。

いずれにしましても、世間一般の霊能力者や宗教家とは「異質」の存在です。


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