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【清朝 雍正帝によるグシ=ハン一族への攻撃とチベットの分割】

チベットを、西蔵と、青海・四川・甘粛・雲南等に分割する中華人民共和国の地方区分の起源は、直接には清朝・雍正帝の時代に遡ります。

前節で、チベット史上、チベットに本拠をおいてチベットを統合した政権の一つとしてグシ=ハン王朝を紹介しましたが、清朝・雍正帝は外敵の侵入や内紛による混乱に乗じ、グシ=ハン一族を攻撃(1723-24)、グシハン一族がチベットの各地に保有していた直轄領や諸侯に対する支配権をすべて奪い取り、西蔵と、青海・四川・甘粛・雲南とに分割した(1725-30)のです。

この「雍正のチベット分割」により、チベットはつぎのように分断されることになりました。

ガンデンポタン領

ガンデンポタンは、グシ=ハンによるチベット征服を契機として、ダライラマを長として発足した行政機関。この時点では、ガンデンポタンの管轄する範囲が「西蔵」です。

ホショト族とその南方に居住する遊牧民たち

かれらが遊牧する草原地帯に設置されたのが青海地方です。ホショト族はグシ=ハンのチベット平定に従軍したグシ=ハン一族の直属集団です。グシ=ハン一族はかつての直轄領や諸侯に対する支配権をすべて剥奪され、二十九家にわかれ、少数のホショト族牧民とわずかな牧地のみを領有する小領主として、「理藩院」という機関を通じて清朝皇帝に服属しました。

青海草原を除くアムド地方のその他の各地とカム地方東部の諸侯たち

この地の諸侯たちは、隣接する四川・甘粛・雲南の三つの省に分属し、各省の長官である総督(そうとく)や巡撫(じゅんぶ)から「兵部」を通じて清朝皇帝に服属し、勢力規模の大小に応じた中国の武官の称号を授かりました。

理藩院は清朝独特の機関で、モンゴル、チベット(のちに東トルキスタン)など中国に属さない各地を管轄する機関です。「兵部」は中国伝統の中央政府機関の一つで、武官の人事を職掌とします。これらのチベット人諸侯のように、名目上中国の武官職を授かった諸侯たちを、中国側では「土司」(どし)と総称しました。

雍正のチベット分割は、チベットからみると、ガンデンポタンの管轄下にある地域とその他の各地の諸侯領への分断、清朝からみると、「藩部」所属の西蔵・青海と、中国の「内地」の各省に組み込んだ地域とへの分断という結果が生じたことになります。


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08.3.30公開/08.4.3修正