チベット歴史地理概説 《キーワード:チベット 国土 領土 歴史 ダライラマ 中国 行政区画》 2008年3月に入り、中国のチベット支配に対するチベット市民の激しい抗議と、中国による過酷な弾圧が報じられています。 日本のマスコミによる報道をみていて、チベットの位置や範囲に関する理解が十分ではないと感じられたので、以下に簡潔に紹介したいと思います。 |
チベットは、歴史的には中国とインドの中間に位置する国で、七世紀半ばの実質的建国以降、チベット高原の住人たちは、独自の仏教文化を核としたチベット人としての意識を保ちつつ、現在に至っています。チベット系の人々が伝統的に居住する地域は、地図に示したごとく、中華人民共和国・インド・パキスタン・ネパール・ブータンの5カ国にまたがっています。チベット系の人々がもつ唯一の国連加盟国がブータンで、のこる4カ国ではチベット系の人々は「少数民族」の位置づけをうけています。 |
現在、この「歴史的チベット」のうち、面積・人口の大部分を支配下に置いているのが中華人民共和国です。中華人民共和国は、この領域の西南部を占める西蔵 をチベット民族の「自治区」としたほか、のこる各地を青海省とその他の各省に分属させています。 チベット亡命政府の元首ダライラマは、「チベット人自身による真の自治」が実現するなら、必ずしも「独立」を求めない、という妥協案(「高度自治」)を中国側に提示し、チベット問題全般については、中華人民共和国に対し民族政策の改善を求め、話し合いによる問題解決を求める立場を取っています。そして「自治区」の範囲としては、西蔵とその他の各地をあわせたチベット全体を単一の行政区とするよう求めています。これに対し、中華人民共和国は「この領域は歴史上統合されたことがない」と主張して「大チベット主義」と呼び、これを拒否する立場をとっています。 |
チベットには長い分裂時代がありますが、しかしチベット史上、チベット内に本拠をおく政権によってチベット高原が統合されたのは2度、最初は吐蕃王朝(とばん, 630頃〜842)、次がグシ=ハン王朝(1642-1723)です。 吐蕃王朝は、チベットの建国、現在まで続くチベット人意識の起源となった王朝であり、グシ=ハン王朝は、宗派と国、民族を超えたチベット仏教界の最高権威としてのダライラマの登場や、「チベット国の主としてのダライラマ」という観念などをもたらした王朝です。 ※吐蕃王朝によるチベットの建国 吐蕃王朝は伝承ではインドの王族にさかのぼる系譜をもち、その第33代ソンツェンガムポ王の時、チベット高原の統合を果たしました。これがチベットの実質的建国となります。中国は現在「チベットは歴史的に中国の不可分の一部分」と主張していますが、この時期のチベットは中国(当時唐王朝)と互角に対抗できる強国で、河西回廊(敦煌などがある)や東トルキスタンなどシルク・ロードの支配権をめぐって中国と戦争を続け、一時的に首都長安を占拠したこともあるほどです。822年、ようやく「講和・国境画定」条約を締結して和平を結びました。この王朝が842年に崩壊して以後、チベットは長い分裂の時期をむかえますが、チベット高原の住人たちはこの時代に確立されたチベット語やチベット語訳仏典などの文化遺産を背景として、チベット人としての意識を保ち続けました。 ※グシ=ハン王朝とダライラマの台頭 チベットでは、吐蕃王朝の時に仏教が国教化されていらい13世紀初頭にいたるまでインドからの仏教導入が行われ、これを消化した独自の仏教文化が形成されました。チベット仏教の諸宗派は、16世紀にはいるとモンゴル人への布教に乗り出し、ギャルワ=カルマパを長とするカルマ派、ダライラマ、パンチェンラマ等を擁するゲルク派、ターラナータ率いるチョナン派などの各派が短期間で急速にモンゴル人の間に受け入れられていきました。17世紀にはチベット人、モンゴル人、満洲人(清朝を樹立した人々)からなるチベット仏教圏が成立します。この時モンゴルは南部が清朝に征服されたほか、北部のハルハ、西部のオイラトなどの勢力に分かれていました。 グシ=ハンはオイラトを構成するホショト部族の指導者で、亡兄の幼い嫡子に代わり部族の指導を担っていました。グシ=ハンは熱心なダライラマの信者で、配下を率いてチベット東北部のアムド地方に移住し、1637-42年にかけてチベットの大部分を平定しました。彼の征服は、チベットの内外にまたがって展開されていた諸宗派間の競合に決着をつけ、「宗派を超えたチベット仏教界の最高権威」としてのダライラマの地位が確立されました。この地位はグシ=ハン王朝の崩壊以後もゆるがず、現在に至っています。 ※チベット亡命政府主張の領土の範囲 結果的にではありますが、吐蕃王朝の末裔たちが暮らす地域のうち、現在中華人民共和国の統治下にあるのは、グシ=ハン王朝によって征服された範囲とほぼ一致します。ダライラマを元首とするチベット亡命政府がチベット国家の領土として主張する範囲もこの領域であり、国連加盟国のブータンや旧シッキム・ラダック・ムスタン等の各地は含まれていません。 |
中国共産党は、1921年の発足当初、清朝(-1911)や中華民国(1912-1949)の支配下にあった諸民族に対して民族自決権を承認し、自由に自身の「民主自治邦」を樹立して、中国から独立したり「中華連邦」に加入する権利を認めていました。しかしその後、民族自決権に対する中国共産党の主張は時期ごとに激変、現在は「チベットは歴史上中国の不可分の一部分であった」と主張し、チベットの独立を認めない立場をとっています。 中華人民共和国の「少数民族」政策は「民族区域自治」とよばれ、特定民族が集中して居住する地域にその民族の「自治」行政体が設置されます。規模により、省級の自治区、「地区」級の自治州、自治県、自治郷などがあります。 チベットには、二つの省級の行政体を設置しているほか、その他の領域を、隣接する四川省、甘粛省、雲南省などに分属させる行政区画を行っています。その内訳は以下のとおり。 凡 例 ・行政体名(カナ表記) ※省級の行政体 チベット名:bod rang skyong ljongs(プー・ランキョンジョン)
チベット名:mtsho sngon zhing chen(ツォゴン・シンチェン)
※地区級・県級の自治体 ※中華人民共和国における現行の「州」は、「少数民族」の自治が行われる「民族自治行政体」に対してのみ用いられる「地区」級の行政単位の一つ。数県を管轄下に置く。 ○アムド地方の東南部およびカム地方の東半部は四川省の管轄下におかれ、同省の西半部を占める。以下の2州が設置されている。 チベット名:rnga ba bod rigs cha'ng rigs
rangs skyong khul(ガパ・プーリー・チャンリー・ランキョンクル
)
チベット名:kar mdzas bod rigs rang skyong
khul(カンゼ・プーリー・ランキョンクル)
○アムド地方の東部が甘粛省の管轄下におかれ、同省の西南部を占める。以下の1州と1自治県等が設置されている。 チベット名:kan lho bod rigs rang skyong
khul(ケンロ・プーリー・ランキョンクル)
チベット名:dpa' ris bod rigs rangs skyong
rdzong(パーリ・プーリー・ランキョンクル)
○カム地方の南部が雲南省の管轄下におかれ、同省の西北部を占める。以下の1州と1県が設置されている。 チベット名:bde chen bod rigs rang skyong
khul(デチェン・プーリー・ランキョンクル) 「迪慶」はチベット名「デチェン」の音写。 チベット名:mu li bod rigs rang skyong
rdzong(ムリ・プーリー・ランキョンゾン) 涼山イ族自治州所属。「木里」はチベット名「ムリ」の音写。 |
以下の項目で、「中華人民共和国による現行の行政区画が成立するまでの過程」についてよりくわしい解説を準備中です。 【モンゴル帝国とチベットの関係】(準備中) |
中華人民共和国では、チベットのモンゴル帝国への服属をもって「チベットが中国の不可分の一分となった」としています。本節では、モンゴル帝国とチベットの関係について概説する予定。 中国の正史の一つ『元史』では、チベット全体が「吐蕃」(とばん)と総称されています。 モンゴル帝国時代、チベット仏教サキャ派の管長が『天下の仏教の僧侶と信徒および「吐蕃」の事』を職掌とする「宣政院」の長官に任命され、大ハーンとともに大都(現北京)〜上都を季節移動していました。ゆえに前節では、サキャパ政権を「チベット内に本拠をおいてチベット高原を統合した政権」には含めていません。 |
本節では、明朝とチベットの関係について概説する予定。 これも中国の正史の一つ『明史』でも、チベット全体が「吐蕃」(とばん)と総称されています。 1350年、サキャパ政権にかわりパクモドゥパ勢力が台頭し、16世紀末まで中央チベットの覇権を握りました。 |
※【グシ=ハン王朝によるチベットの再編】(準備中) |
※【ダライラマの権威と権限】(準備中) |
※【オイラト・ジュンガル部のチベット侵攻と清朝・康煕帝の対応】(準備中) |
唐代から清朝の康煕期まで中国でチベットの総称として使用されてきた「吐蕃」、中国で「雍正のチベット分割」以降、中央チベット・ガリ・カム地方西部の地域名称として使用されだした「西蔵」について紹介する予定。「チベットとはなにか」に関連記事あり。 |
※【清朝 雍正帝によるグシ=ハン一族への攻撃とチベットの分割】 チベットを西蔵、青海と、甘粛・四川・雲南の各省に分割する行政区画は、十八世紀の第一四半期、清朝雍正帝によって行われました。詳しくはこちら。 |
清朝末期の1905年、四川省の総督趙爾豊(ちょう じほう)は四川軍を率いてカム地方に侵攻、カム地方の諸侯を制圧し、さらにガンデンポタン治下の西蔵に侵入、1910年にはラサを制圧します。ガンデンポタンや各地の諸侯を取りつぶし、省・州・県を設置する直接統治を目指したのでした。この時、四川省の西部と西蔵の東部(すなわちもともとのカム地方)を割いて新たに「西康省」を設置することが構想されました。 中華民国の歴代政府は(国共内戦に破れて台湾に移転した後も含め)、清末のこの構想を引きつぎ、チベットに西蔵・青海・西康の三つの省を設置する行政区分の構想をかかげ続けます。 |
※【中華人民共和国において現行の行政区画が成立するまで】(準備中) |
2008.4.05 ver.0.993公開 【清国の旧版図の再編をめぐるチベット・モンゴルと中国の立場】を増補。
2008.3.30 ver.0.992公開
2008.3.25 ver.0.991公開
2008.3.24 ver.0.99公開
2008.3.23 ver.0.98公開