モンゴル映画「ツォクト=タイジ」観賞記 2002.12.8公開/2002.12.9修正
手 塚 利 彰
ツォクト・タイジ
制作:1945年/モンゴル人民共和国
監督:Y・タリチ/M・ボルド
色彩:白黒
時間:155分
鑑賞日時:2002年12月7日
会場:滋賀県甲賀軍水口町立碧水ホール
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・なんじゃ〜これは!
・ものがたりのあらまし
・ツッコミどころ満載の設定
・「第三十三皇女ドルマー」が発するメッセージ
なんじゃ〜これは!
この映画の主人公、チョクトゥ=ホンタイジは、チベット史上では悪役として知られている人物であるが、そんな彼を、モンゴル民族の救国の英雄として描いているという、この映画を観賞する機会がついに訪れ、興味津々とスクリーンに見入った。
物語が進展し、グシハン、ゲルク派、摂政ソナムラプテン等などチベットとゆかりのある人物や集団が次々と登場しはじめたとき発したわが心の叫びは「なんじゃ〜これは!あんまりだ・・・」というものであった。
しかしこの映画は歴史ドキュメンタリーではなく、文学作品なのであるから、作者の意図を描ききることが重要なんであり、史実は単なる素材材料の一つ、改変も創作も何でもあり、「仮想戦記」モノとして楽しもう、と精神を切り替え、エンターテイメントの一つとして大いに楽しむことにしたのである。
制作年は1945年とのことであるが、画像の美しさ、衣裳の凝り具合、大草原を行軍する騎馬武者たちの勇壮さなど、同じ時期の黒沢映画などと比較しても決して引けを取らぬ高水準にあると思われた。
以下は、本作品のストーリーを、史実によって歪曲することなく、制作者達の意図にそって、忠実に要約したものである。
ものがたりのあらまし
1620年代、モンゴル帝国は、東方に勃興した新興の満洲国に圧迫され、危機に瀕していた。チベット仏教の黄帽派は、「マンジュ」という発音の一致を利用して、満洲国のアンバガイ=ハーンを文殊(マンジュシリー)の化身として神格化するイデオロギーで、まだ自立を保っていた諸侯にも次第に浸透し、モンゴル人の自主・独立の気概を損ないつつあった。
モンゴル帝国最後の大ハーン、リグデンは、満洲国に決戦を挑むが敗北する。モンゴル人諸侯は次第に切り崩され、満洲国に征服されていった。黄帽派も、グシハンを筆頭とするモンゴル人諸侯の支援をうけ、モンゴルの奥深くにまで弘法活動を広げていった。ツォクト=タイジは、入信のすすめを断固としてはねつける。
ツォクトに侮辱されたと感じたグシハンは復讐を決意、黄帽派勢力をそそのかし、ツォクトが巻狩りで所領を離れたすきにツォクトの宮殿を襲撃させ、残っていた一族郎党を皆殺しにする。
グシハンの娘ホランは、ツォクトの息子アルスラーンと相思相愛で、父の企みを知ってツォクトに急を告げるが、ツォクトが駆け付戻った時には、ツォクトの宮殿は灰燼に帰していた後であった。激昂して復讐を叫ぶツォクトの配下たち。ホランも「人の道を踏み外したモンゴルの裏切り者」となった父グシハンとの絶縁と、復讐への参加を宣言する。そのとき、リンダン=ハーンより、チベット遠征への参加を要請する書簡が届く。
ツォクトは、グシハンに復讐戦を挑みモンゴル人同士で内戦することよりも、モンゴル人の自立の精神を蝕む諸悪の根元である黄帽派を滅亡させることの方が、モンゴルにとって有益だと判断、配下の軍勢や全領民を率い、リグデンの元へと馳せ参じるべく、南下を開始する。(以上、前編)
ツォクト一行が、チベット東北部辺境のリグデンの陣営にたどり着くと、リグデン軍は天然痘によって壊滅していた。ツォクトはいまわの際のリグデンから、モンゴルの未来を託される。
今、チベットの同盟者の満洲国は明との戦いに謀殺され、黄帽派信者のグシハンはいまだ遠くモンゴルにある。いまこそ、黄帽派を絶滅する好機である!
ツォクト軍は破竹の勢いでチベットを席巻してゆき、ラサの街は逃げ出そうとする金持ち、貴族でごったがえした。
ツォクトは息子アルスラーンに最精鋭部隊をつけてラサ攻略に赴かせる。ツォクトは黄帽派の滅亡を念押ししていたが、チベット政府の和議の使者が手みやげとして献上した「第三十三皇女」ドルマーの色香に迷い、あろうことか、黄帽派の最高権威である少年ダライラマに叩頭礼をとり、黄帽派に入信してしまう。
ツォクトは配下にアルスラーンの処刑を委ねるとともに、自らラサ制圧へと乗り出し、時を同じくして黄帽派救援のためラサにかけつけたグシハン軍と最後の決戦に臨む。
激戦の中、ホランは倒れた旗手から「ソヨンボ」の軍旗を引き継ぐが、そのため格好の標的となり、彼女もまた敵の矢に射抜かれて死ぬ。
戦局が次第に悪化するなか、ついにツォクトも敵の矢に倒れる。
ツォクトはいまわの際、配下の将軍たちに「ソヨンボ」の軍旗をモンゴル独立の象徴として掲げ続けるよう遺言して死ぬ。
そしてソヨンボ・マークは輝かしい人民革命の旗印となり、独立モンゴルの国旗としていまも燦然と翻っているのである。(以上、後編)
ツッコミどころ満載の設定
この映画の最大のツッコミどころは、ダライラマを擁する神権体制のチベット政府が、ツォクトにとって、モンゴルの自主独立の精神を破壊する悪のイデオロギーの発信源、打倒すべき主要敵として登場していることである。
史実のダライラマ政権は、この映画の主人公チョクトを初めとして、チベット各地に盤踞していた反ゲルク派(黄帽派)勢力をグシハンがひとつづつ打倒していった結果として、チョクトの死後5年を経た1642年にようやく発足したにすぎない。チョクトが打倒された結果としてようやく発足できた政体が、この映画ではチョクトの生涯の敵として登場しているわけで、本映画のなかでも最も脱力感を覚える設定である。
その他、映画の設定と史実とで、原因と結果が逆転している例としては、モンゴルとゲルク派(黄帽派)の結びつきが1578年のアルタン=ハーンの入信以来のものであるのに対し、清朝(満洲国)がゲルク派(黄帽派)と本格的な接触を持つようになるのは、ホンタイジ(アンバガイ=ハーン)がリグデンの遺児エジェイを降服させた後(1634)、モンゴル諸侯からの積極的なすすめによるものであったことなどがある。
会場では、この映画を鑑賞に来られたダヤンハーン様ご一行に遭遇した。以下はハーン様と語り交わした、ツッコミの例である。
- 「黄帽派」やグシハンの位置づけが、あまりといえばあまりにトホホな位置づけだっっっっっ!!!! ハ・手
- 1620年代〜1637年当時のモンゴル兵はもうとっくに鉄砲を使っていたはず ハ→手
- ホントのリグダンハーンは坊さんでもあり、頭はツルツルのはず(映画ではフサフサ) ハ→手
- ダライラマ五世は当時数えで二十歳ちかく(映画では10才くらいの少年) ハ→手
- 「チベットの第33皇女」ってなんじゃ?(史実には該当者なし) 手→ハ
- 映画にでてきたような「チベット政府」は、グシハンが、チョクトを初めとするチベット各地の反ゲルク派を打倒して廻った (1637-42) 結果として、漸く成立する。 手→ハ
- 画面でラサのマルポリの丘の上に偉容を誇っていたポタラ宮殿は、グシハンが1642年にチベットを平定してからさらに七年後にようやく竣工する (チョクトの敗死は1637年) 。 ハ→手
チベット学の専門家であらせられるハーン様との間では、常識すぎて話題にすらならなかったのだが、その他にも、
- 当時のチベットにおいては西部中央チベットのツァンパ政権とか、カム地方のペリ王、ジャン王など、チョクト=ホンタイジの友好勢力の方がゲルク派 (黄帽派) 支持勢力よりも優勢であったこと、
- チョクトが中央チベットに送り込んだ遠征軍はアルスラーンの死により瓦解し、グシハンとチョクトの決戦は青海湖方面で行われたこと
- 1641年にグシハンが中央チベットの攻略にとりかかるまで、ラサはずっとツァンパ政権というチョクトの友好勢力の宗主権下にあったこと
なども、重要なツッコミのポイントである。
「第三十三皇女ドルマー」が発するメッセージ
ゲルク派(黄帽派)は出家者を最高権威として擁する集団であり、この点は1642年以降に政権を獲得して以降も変わらない。この教団、もしくは後のゲルク派政権には、33番目どころか、そもそも「皇女」なる立場の存在する余地がない。
では、あからさまに架空の存在である「第三十三皇女ドルマー」とは、いったい何を意味するのか。
まず、「三十三」という数字で想起されるのが、古代のチベット王ソンツェンガンポである。史実では7世紀前半に在位したチベットの実質的建国者であるが、伝承では、吐蕃王朝の第三十三代にあたり、観音菩薩の化身とされている。この王の二人の妃はいずれも観音の慈悲の涙から生じたターラ菩薩の化身とされているが、ターラのチベット名がまさしく「ドルマー 」である。観音は、阿弥陀仏に対し、「北方」の 未開野蛮のいきものたちを救う誓願を立てたことから、チベット仏教圏では非常に熱心に信仰されている仏である。ダライラマもまた観音の化身とされており、すなわち観音菩薩は、ソンツェンガンポやダライラマという姿をとってこの世にあらわれ、生き物たちを見守っている、という形で信仰されている。
つまり、「第三十三皇女ドルマー」は、観音やダライラマを意味する暗喩なのである。
チョクトの最後の戦いが行われた1637年には、既に青年であったダライラマ五世(1617-1683)を、ことさら10才ほどの少年として描写していたのも、この映画が製作された1945年当時のダライラマ十四世(1935- )の実年齢に合わせたものとして理解できる。
これらは、モンゴル人の伝統的な仏教信仰が、モンゴル人の独立にとって危険なものである、という当時の社会主義政権の姿勢を非常に強く反映した暗喩だといえる。