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カンカル家文書中に見られる裁判文書について

 

20141213()

龍谷大学博士後期課程 黒田有誌

 

はじめに

 

 1637年に始まったオイラト族のグシハン一党によるチベット征服は、1642年に一旦完了した。そして、チベット仏教ゲルク派のダライラマの信者であったグシハンは、チベットの中でも最も肥沃なヤルツァンポ河流域をダライラマに寄進し、この土地の統治機関としてダライラマを長とするガンデンポタン(dga’ ldan pho brang)政権が発足した。ガンデンポタン政権は、その後1959年まで、ラサを本拠地にチベットの中枢を統治したと言われている(手塚利彰2003,p.85)。

ガンデンポタン政権のチベット統治中には、清朝がチベットに対して「13条章程[1]」「19条章程[2]」「29条章程[3]」を制定して、チベット政治へ干渉した(張羽新2004,pp.4853)。しかし、清朝が章程によってチベット政治に介入する一方で、ガンデンポタン政権にはチベット独自の法典が存在していた。以下、チベット法典に関する先行研究の言及である。山口瑞鳳1987は、ガンデンポタン政権の法律として、「12条法典」「13条法典」「16条法典」を挙げ、その記述から当時の刑罰について言及している。French,Rebecca R1995は、ダライラマ統治下のチベットに於ける法律について、その構成や運用、役人の役割、法典の概説を行う。また、手塚利彰2003は、「zhal lce法典[4]やその他法令を含む一群を「法典・法令集」とし、各種写本の比較を通じて、「法典・法令集」が法令や法典を集めた資料集ではなく、現行法の集成として編纂された可能性が高いと指摘している。

これらチベットの法典に関する研究で問題となるのが法典の運用実態であろう。従来の研究では、法典の解説や書誌学的な検討はされているものの、実際の運用状況は殆ど検討されていない。法典の運用を知るためには、チベット語文書、中でもチベットで発行された公文書を利用する必要がある。

 現状利用可能なチベット語文書としては、ボン大学が公開するチベット語文書があるが、それに加え、本稿で紹介するカンカル家文書が存在する。カンカル家文書は、18世紀から20世紀初頭にかけての西チベット・ポロン地方のゾン(県に相当)の役所とラサの中央政府との間でやり取りされたチベット語文書で、大谷大学名誉教授ツルティム=ケサン=カンカル氏が所蔵している。カンカル家文書は、ポロン地方で発行された命令文書・寺院財産目録・裁判文書など多様なチベット文書を収録しており、一地方に限ったこととは言え文書が発行された当時のチベット地方政治の様子を窺うことができる。本稿では、チベットの法律とも関係する裁判文書を取り扱う。カンカル家文書には3点の裁判文書が収録されている。それぞれ整理番号を採ってNo.1文書・No.12文書・No.B1文書とする

裁判文書に関して、Schuh.D1983は、チベット語公文書の発行プロセスについて言及している。その中でシュウ氏が収集した裁判文書を基に、裁判文書に見られるチベットの裁判の範疇や関係した官庁に関して指摘している。Schneider,H2002は、ボン大学が公開する整理番号or6737の裁判文書の構造が、Schuh.D1983の述べる裁判文書の構造に合致するとしている。また、Schuh.D1981Schneider,H2012は、様々な種類のチベット語文書を紹介する中で、裁判文書についてもローマ字転写や内容の解説を行っている。

従来、裁判文書は、数あるチベット語文書の1つとして紹介されて来た。そのため、裁判文書に関する研究は、概説等が主流であり、文書の特徴や構成要素について言及されている。ただし、カンカル家文書の裁判文書も先行研究が指摘する特徴に合致するか否かは定かではない。

そこで、本稿では、カンカル家文書中の裁判文書を利用するための基礎作業として、先行研究を基に裁判文書の特徴をまとめ、例としてNo.1文書がその特徴を備えているか否か検討する。

 

1、裁判文書の特徴

 

チベットの裁判文書が発見された例は、カンカル家文書が初めてではなく、これまでにもドイツの研究者によって何件か発見されている。現在、これらの文書は、書籍やウェブ上に原典写真が公開されている。Schuh.D 1983は、1978年にカトマンズやムンゴットで寺院の文書保管庫にあった文書を調査した際に、チベットの裁判文書[5]を発見している。ボン大学が運営するDigitized Tibetan Archives Material Bonn University[6]では、1000点を超えるチベット語文書を公開している。その中には、Schneider,H2012が紹介した4点の裁判文書の原典写真とウチェン(楷書)化したテキストも含まれている。ただし、ウチェン化テキストとSchneider,H2012のローマ字転写には一致しない点がある。

 現在公開されている裁判文書を基にして先行研究では裁判文書の特徴について言及している。Schuh.D 1983によると、裁判文書には以下のような特徴がある。

 

 ・裁判文書は、dpyad mtshamdpyad khradpyad mchams khra makhra maと呼ばれる。

 ・訴訟は、耕作地と牧地の所有権と利用権、互いに主張する税と奉仕義務など

 ・前面の調停文には、行政区長官の印が押される。裏面には関係者の印が押され、前面に記された調停文に対する関係者の同意が記される。

 ・裁判文書はテキスト量が多く、他の文書に比べて巨大化する。

 

また、Schuh.D1981,p.234によれば、裁判文書は以下の構成要素を含んでいる。

 

1.関係者に関する言及

2.チベットの法の概要

3.係争に関する概要

4.これまでの訴訟の方法から今回の訴訟の方法の詳細

5.裁判費用

6.問題の解決方法として調停を選択した理由

7.関係者の報告調書

8.文書や契約書等、立証手段の引用

9.今後、起こりえる交渉の結論

10.法的根拠の詳細を含む判決

11.関係者の先の行動の刑法上の観点

12.罰金や謝金、決定の不履行に対する罰金の執行期日

13.書類の最終記録

 

ただし、この構成要素は1件の裁判文書に見られるもので他の裁判文書にも当てはまるかは定かではない。次にSchneider,H2002は、or.6737裁判文書[7]の冒頭部分が下記の文言で始まると指摘している。

 

gnyis la dpyad mtshams shog lhe ’dra gnyis su spel don

2人に判決書の2通の紙片を発行すること

 

 or.6737を見れば、文書冒頭部分は、人名が記された後にこの文言を記している。他の例として、Schneider,H2012が概説を行っているor.677868066814を見ると、or.6814の冒頭部分には、これと同様の文言が含まれている。一方or.6778の冒頭は、関係者の名前が列挙された後に「判決書を合わせて送ること(dpyad shog chig ’thus btang don)」、or.6806は、「判決書を別々に送ること(dpyad mtshams zur du btang don)」となっており、裁判文書の冒頭は、シュナイダー氏の指摘するように「判決書を発行する」という言葉で始まるが、その形式は各文書間で異なっている。

以上が先行研究で指摘されている裁判文書の特徴である。カンカル家文書中の裁判文書は、カンカル家文書の目録の内容から裁判文書と判断しているが、これらが先行研究の述べる裁判文書の特徴とも合致するかは判然としない。そこで、3点ある裁判文書の内、例としてNo.1文書を用いて、そこに裁判文書の特徴が見いだせるか否か検討したい。

 

2、No.1文書に見られる裁判文書の特徴

 

No.1文書は、カンカル家文書の目録に「ポロンとガムリン寺の土地の所有権の訴訟。ポロンの敗訴」とある。このことから、筆者は当該文書が裁判文書であると判断している。ただし、この文書が実際にシュウ氏やシュナイダー氏が述べる裁判文書の特徴に当てはまるか否かは明らかではない。そこで、先述の裁判文書の特徴にNo.1文書が合致するか検討する。

まず、No.1文書に関する基本的な情報を記しておく。文書のサイズは、739cm・横80cmであり、行数は、表151行・裏9行である。現状では成立年代は不明である。

文書の発行年代に関しては151行目に「shing spreとあるが、このままでは意味が通らないので、筆者は、これを木申の年を表す「shing sprelと解釈する。木申の年は182418841944年等、複数の候補があるが、47行目にチベットの農務局であるソナムレークン(bso nam las khungs)の記載が見られることから、ソナムレークン発足後の1944127に発行された文書であることが分かる。では、以下にNo.1文書が先述の裁判文書の特徴に当てはまるか否かを検討する。

No.1文書はどのような裁判に関する文書であろうか、裁判文書に記される訴訟は、土地争いや税に関するものであると指摘されている。No.1文書は、目録からも分かる通り土地争いに関する訴訟である。

No.1文書は、739×80cm表裏両面に文章があり、それぞれ表は草書体の1つであるドゥツァ体で151行、裏は草書体の1つであるキュクイク体で9行の文章が記されている。これは、裁判文書の特徴の一つである膨大なテキスト量や裏表両面の記載に一致する。

 

図1:No.1文書全体図

 

また、Schneider,H2002では、裁判文書の冒頭部分に「判決書を発行する」という文言が含まれるとしている。No.1文書の2行目を見ると、関係者の名前の列挙の後に「判決書を双方に送ること(dpyad mtshams khra ma ’dra gnyis su btang don)」とある。

2No.1文書2行目

 

Schneider,H2002は、or6737裁判文書が「2人に判決書の2通の紙片を発行することgnyis la dpyad mtshams shog lhe ’dra gnyis su spel don」の一文から始まると述べている。No.1書では文言は異なるが、先述の通り裁判文書冒頭の文言は、文書間で相違があるため、この一文は、Schneider,H2002の指摘する冒頭の文言に相当する部分と推測される。また、このNo.1文書と同様の言い回しは、カンカル家文書中の裁判文書であるB1No.12文書にも見られる。

次に裏面に見られる裁判関係者の捺印について、Schuh.D 1983によると、裁判文書の裏面には関係者の捺印と双方の同意に関する事柄が記されていると言う。No.1文書の裏面を見れば、8行目と9行目に捺印された個所が見られる。

3No.1文書裏面

 

では、この捺印された個所の人物は何者か、Schuh.D1981,p.234の述べる裁判文書の構成要素によれば、はじめに裁判の関係者に関する言及が始まるとのことである。そこで、No.1文書の表面1行目を見ると、裁判の関係者であるガムリン寺とポロン、双方の人名が記されている。両者の人名を列挙すると以下の通りである。

4:ポロン地方の位置。丸く囲った地域がポロン地域である。

 

 ガムリン寺からは、下記の2名が関係者として名を連ねている。

 

ロサンドゥンドゥプ(blo bzang don grub

5

 

ユルギェル(gyul rgyal

6

 

 ガムリン寺からは、ロサンドゥンドゥプとユルギェルの2名が代表として派遣されている事が分かる。一方、ガムリン寺と同様にポロンからも2名がポロンジェウォン領の代表として派遣されている。

 

ラワドゥンドゥプ(zla ba don ’brub

7

 

 

 

 

ロサンチューペルblo bzang chos ’phel

8

 

以上のことから、ガムリン寺側の関係者は、ロサンドゥンドゥプとユルギェルの2名、ポロン側の関係者は、ラワドゥンドゥプとロサンチューペルの2名であることが分かる。これらのことを踏まえて、裏面の捺印個所に記された人名を見ると、

 

98行目

 

 8行目の捺印個所には、「ガムリン寺の代表、ロサンドゥンドゥプとゲロンのユルギェルの2名より献じられた印」とある。

 

1089行目

 

 89行目には、「ポロンジェウォン領の代表、管理人ラワドゥンドゥプとロサンチューペルの2名より献じられた印」とある。裏面の捺印個所は、双方の代表が判決への先行研究で指摘されている関係者の捺印に該当するものである。これらのことから、No.1文書は、先行研究が指摘している裁判文書の特徴を備えていると言えよう。

 

おわりに

 

 以上、本発表では裁判文書の特徴をまとめ、それがNo.1文書に合致するか否か検討した。目録から分かるようにNo.1文書は、ポロンとガムリン寺の土地争いであり、シュウ氏が裁判文書の訴訟理由として挙げる土地争いに当てはまる。No.1文書の冒頭部分は、Schneider,H2002の指摘する冒頭の文言とは異なるが、その内容から見てシュナイダー氏の指摘に相当するものと思われる。また、裏面の捺印個所についても、裁判の関係者であるガムリン寺とポロン双方の印が押されており、こちらも裁判文書の特徴に合致する。これらのことから、No.1文書は、先行研究で指摘されている裁判文書の特徴に一致していると言える。また、同様にNo.12B1文書も冒頭の文言や両面に記述がある等、裁判文書の特徴を見出すことができる。そのため、当時、チベットでは裁判文書のフォーマットが存在し、それに倣って文書が作成されていたのではないかと考えられる。

 最後になるが、本発表では裁判文書の特徴がNo.1文書に当てはまるか否か検討し、No.1文書が裁判文書の特徴に合致すると結論付けた。ただし、No.1文書に合致した裁判文書の特徴は、外見的な特徴であって、先行研究が指摘する裁判文書の構成要素、即ちNo.1文書の内容については検討が及ばなかった。カンカル家文書中の裁判文書の内容に関しては、今後、先行研究が指摘する裁判文書の構成要素との比較を通して明らかにし、その上で当時の裁判の様子や関係部署、チベットの法律等、チベットの地方政治の一端を解明したい。

 

【略号】

BKDBod kyi snga rabs khrims srol yig cha bdams bsgrigs.Bod ljongs mi dmangs dpe skrun khang,1989

 

【参考史料】

乾隆『欽定大清会典』(景印文淵閣四庫全書台湾商務印書館19831986所収

13条章程」元以来西蔵地方与中央政府関系案史料匯編』中国蔵学出版社、1994

              BKD:116

19条章程」方略館〔纂〕『欽定巴勒布紀略』全国図書館文献縮微複製中心、1992

29条章程」:廖祖桂・李永昌・李鵬年『《欽定蔵内善後章程二十九条》版本考略』中国蔵学出版社、2006

No.1No.12B1文書→カンカル家文書

 

【参考文献】

山口瑞鳳『チベット 上下』東京大学出版会、1987

張 羽新 『清代治蔵要論』中国蔵学出版社、2004

手塚利彰「ガンデンポタン期(16421959)成立のチベット法典・法令集のzhal lce法典」を収録する諸写本を中心として」『日本西蔵学会々報』、492003

French.Rebecca.R,“The cosmology of law in buddhist tibet”Journal of the internatinal association of buddhist studies,Volume18,Number1,Summer,1995

Schneider.H,“Tibetan legal documents of south western Tibet:Structure and style”.In Tibet, past and present,ed.Henk Blezer.Brill,2002

Schuh.D,Grundlagen tibetischer Siegelkunde:eine Untersuchung über tibetische Siegelaufschriften in ʾPhags-pa-Schrift. Sankt Augustin : VGH Wissenschaftsverlag,1981

Schuh.D,“Zum Emtstehungsprozess von Urkunden in den tibetichen Herscherkanzleien”.Contributions on tibetan language, history and culture:Proceedings of the Csoma de Körös Symposium heid at Velm-Vienna,13-19 Sept.Wien,1983



[1]乾隆16年(1751年)に制定される。13条章程」はチベット語版の漢訳が『元以来西蔵地方与中央政府関系案史料匯編』(以下、『元以来』)に掲載されており、『高宗純皇帝実録』に内容が若干異なる漢文版が収録されている。またBKDにも「13条章程」のウチェン体(楷書)テキストが収録されている。

[2]乾隆55年(1790年)に制定される。漢文版が『欽定巴勒布紀略』巻22に収録されている。満洲語・チベット語版の現存状況は不明である。

[3]乾隆58年(1793年)制定される。チベット暦水牛年(乾隆58年)の文書をまとめたチベット語の「水牛年文書」(チベット自治区案館所蔵)に収録されている。「29条章程」の簡略版(チベット自治区檔案館所蔵)が存在する。29条章程」は、廖祖桂・李永昌・李鵬年2006に双方のウチェン体テキストが収録されており、本稿では「水牛年文書」のテキストを使用した。

[4]手塚利彰氏は、チベットの法典について1216条で構成された「zhal lce」という章立てで区分され、民事刑事関係を主とする条文からなる法典を「zhal lce法典」と称している。

 

[5]Schuh.D 1983によれば、カトマンズからはキーロンのタシーサムテンリン寺の農民とネーヌプ村の農民の間で起きた裁判に関する文書が発見され、ムンゴットからはグゲのトリン寺から政府(bka’ shag)の印が押された裁判文書が発見された。

[6]www.dtab.uni-bonn.det/tibdoc/index1.htm2014128日訪問

[7]or.6737Schneider,H2012の整理番号による。その原典は、Digitized Tibetan Archives Material Bonn Universityにて公開されている。


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