この法典の編纂過程や、十六条法典と草稿との関係については以下のように述べられている。

 …各々の国にそれぞれ一つならざる多くの条文をもつ法規の流儀が何条もあったが、ツァントェ王の御言葉がチベットのウィツァン地方すべてを覆っため、〔ツァンパ王の治下における裁判は〕大宮殿サムドゥプツェの法令にもとづく必要が多いに生じたので、〔編者は〕Khrims yig shel tham chen mo を提出した。その間、gNyer tshang gi bskul brda gnyer gyog lung tshan gyi rgan po btso bo rnams kyi zhal lce'i rnam bzhag phun tshogs dge legs ma という草稿をつくり、仕上がらぬままネゥ・デヤン宮に置いていたが、それが流出して法典の名がついてしまった。前書きに韻文の偈咒が有る一巻本や、序文のかくかくしかじかがシカ・ネゥの法典のように装われたものなどがあり、これらは草稿が書き上がったものではないので、条文は不完全であり、ほとんど理解できない不正確さや不完全さもあって、特に〔中には〕法典の名がついたものもある。そもそも法典というものは、王命による認可を承けて印章の押されたものに対していうものであり、そのような根拠のないものは、捏造、私製というしかない。よって再び未完成の草稿を編纂した。(pp.19-20)

文中で「法典・大水晶印(Khrims yig shel tham chen mo )」という名称で言及されている法典が1631年の法典のことかもしれない。
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