中央チベット歴代政権の法典について   1999.10.04修正


デシー=ツァンパ政権とダライラマ政権の法典の系統関係


  ツァンパ政権(1565-1642)    ダライラマ政権(1642-1959- )
法典系統図

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 東洋文庫および東京大学文学部には、十七世紀中央チベット歴代政権の法典の写本があわせて計三点所蔵されている。

※東洋文庫所蔵 
 〔1〕khrims yig zhal lce bcu gsum  (443−2780)
 〔2〕mchod yon nyi zla zung gi khrims yig  (444−2781)
※東京大学文学部蔵(印度哲学研究室管理)
 〔3〕bod gzhung dga' ldan pho brang pa chen mo'i khrims yig  (蔵外文献 No.408)
( )内の数字は各所蔵機関の管理番号(請求記号)

〔1〕にはツァンパ政権の1631年の法典(1)と、同政権の十六条法典(3)の草稿のひとつ(「十三条法典」2)が収録されている。
 ただし2の冒頭に付された水羊年(1643)五月上旬の「布告」や、ダライラマ政権の法令の前文(同一の文面が45にある) などから、この法典集がダライラマ政権の成立以後に編集されたもので、これに収録された各法典が、ダライラマ政権のもとで引き続き効力を有していたことがわかる。

〔2〕もダライラマ政権の成立以後に編集された法典集(またはその写し)で、1653−58年に成立したダライラマ政権の十二条法典(4)と、ツァンパ政権の1631年の法典(1)が収録されている。
 4の序文には、ツァンパ政権の法典の条文に若干の校訂を加えただけでほぼそのまま採用したこと、底本としては、十六条法典ではなく、その草稿を利用したことなどが述べられている
 また、序文には、ツァンパ政権の法典の十六条のうち、ダライラマ政権の法典の条文として採用されなかった条文の名称としては3条分だけが挙げられいる。中国で出版された資料集には、序文は全くの同一文面で、条文数は十三であるものが収録されているので(5)、ダライラマ政権が編纂した法典には、十三条からなるものもあったと推測される。
 25は序文が異なるだけで、収録されている条文と、各条文の文面はほとんど同一である。

〔3〕は「大いなるチベット政庁ガンデンポタンの法典」の名称で登録されているが、全編がツァンパ政権の十六条法典(3)である。序文にはこの法典が編纂・公布されるに先立ち、編纂途上で放置されていた草稿が流出し、同政権の法典として流布してしまったと述べられている

 ダライラマ政庁(=政庁ガンデンポタン)の各級役人の職掌を定めた二十一条法典(6)は、ツァンパ政権とは全く関係なく、ダライラマ政権において独自に制定されたものである。

 以上を概観すると、ツァンパ政権の法典は、ダライラマ政権のもとでも、若干の条文の削除と校訂を加えられただけで、丸ごとそのまま継承されたといえよう。
 十八世紀以降、清王朝の強い影響力が中央チベットにも及ぶようになるが、モンゴルにおいて固有法典が廃止され、代わって清王朝が制定した法典が施行されたのとは対照的に、上記のチベット固有の法典は引き続きその効力を保ち続けた。これらの法典は、1959年に中国政府によって政庁ガンデンポタンがチベットを逐われるまで、現行法として利用され続ける。


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