「西藏和平解放」に関する史料3種
2009.01.16版
「西藏和平解放」とは
「西藏和平解放」とは、「十七箇条協定」の規定によれば、「西藏および西藏人民」を「国民党反動政府および帝国主義侵略勢力」から「平和的」に「解放」することをいう。

西藏
1724-30におこなわれた「雍正のチベット分割」以降、チベットのうち、ダライラマを長にいただくガンデンポタンの統治下にあったヤルンツァンポ河流域を中心とする領域を単位とした地域的枠組みにたいする中国語の呼称。それ以前は、元代・明代より清代の康熙年間にいたるまで、チベットの全域が「吐蕃」その他の呼称で一括されていた。「西藏」にあたる範囲は、チベット人自身による地方区分でいうと、ガリ地方、ウー地方、ツァン地方およびカム地方の西半などから成る。中国共産党は、国共内戦の過程で、1949年10月1日の人民共和国建国宣言までに、西藏を除くチベットの大部分を支配下に置いていた。

解放
「解放」とは、中国共産党(そして中国人民政府)による用語のひとつで、いっぱんに、中国共産党が国民党政権の支配を排してその統治を確立してゆくことを指すが、ガンデンポタンの統治下にあったチベットの「西藏」部分についても、「国民党反動政府」や「帝国主義侵略勢力」に支配された「中国の一部分」として、「解放」の対象とされた。

和平
「和平(日本語:平和的な~」とは、チベットの「西藏」部分を実効支配し、「中国とは別個の国家」であることを目指したガンデンポタンに対し、武力でこれを転覆して「西藏」をそのまま中国に併合するのではなく、協議と同意の獲得という手順をとることを指す。

中華民国の歴代政権が「中国領土の一部」と主張しながら実効支配を確立できず、「中国とは別個の国家」たることを主張する民族政権の統治下にあった地域としてモンゴルの北部(ボグド=ハーン政権→人民革命党政権)とチベットの西南部(ガンデンポタン)がある。中国共産党は、この両地域と台湾を除く部分を掌握した段階で中華人民共和国の成立を宣言(1949.10.1)、ソ連の支援を受け中国に先んじて社会主義政権を樹立していたモンゴル北部については「解放」の対象から除外してその独立を承認する一方、「西藏」については、「中華人民共和国の領土と主権の統一を完成」させるためのターゲットとなった。
 「西藏和平解放」のあゆみ
1949年
中国人民解放軍、チベットのうち、中国国民政府の統治下にあった各地(アムド地方全域(青海、甘粛省西南部、四川省西北部)、カム地方東部(四川省西部、雲南省西北部)を制圧。
1949.10.01
中華人民共和国建国宣言。
1950.1.18
中国共産党「西藏工作委員会」成立(西南局管轄)。
1950.10.06
人民解放軍十八軍、一斉にディチュ河(金沙江)を西に渡河、「西藏」に侵入開始。「西藏和平解放」のはじまり。
1950.10.22
人民解放軍によりチャムド(昌都)陥落。
1950.11.14
摂政タクタ・リンポチェ辞任、ダライラマ十四世の親政開始。
1951.01.11
チベット政府、人民解放軍の「西藏」からの撤退を協議させるためガプー=ガワンジグメらの使節団を北京に派遣(4/27着)。
1951.05.23
チベット使節団、「十七箇条協定」に調印。第十七条によれば、調印後直ちに発効と規定。
1951.07.25
人民解放軍第十八軍、西進を再開。
1951.08.01
西北局管轄下の人民解放軍部隊、新疆よりガリ地方に侵入開始。
1951.09.09
人民解放軍第十八軍、ラサを制圧。
1951.10.24
ダライラマ十四世名義・毛沢東宛の電報にて、「今年、西藏地方政府が特派した全権代表のカロン・ガプーら五人が、……すでに5月23日に「西藏を和平解放する方法についての協議」に調印したことを、西藏地方政府および「チベット族」僧俗人民が一致して擁護し、あわせて毛主席および中央人民政府の指導下、人民解放軍の進藏部隊を積極的に支援し、国防を強化し、帝国主義勢力を西藏から追い払い、祖国の領土主権の統一を守る旨、謹んで奏聞する」旨を打電。


重要史料へ// 目次へ
西藏自治区档案館が編纂した資料集『西藏歴史档案薈粹』には、十七箇条協定締結にかかわる、ガンデンポタン側が関与した史料として、
  1. ダライラマ十四世による中国むけ特使の任命書
  2. 十七箇条協定の原本(チベット語本・中国語本)
  3. 上記特使による「十七箇条協定」の締結、調印を、「西藏政府及藏族僧俗人民」が「一致して擁護」するという内容の、ダライラマ名義の毛沢東あて電報
の3種が収録されている。

  1. は2名の特使に与えられた任命書の写しで、原本は草書体で書かれたチベット語の文面で、『西藏歴史档案薈粹』収録に際して中国語と英語の訳文が附されている。
  2. は上記使節団と中国側全権が署名捺印したチベット語本および中国語本の2種の原本の全ページの写真に、英語の訳文が附されている。
  3. は、中国側で受領した中国語電文の写真と、この電文の原文なのか、電文からの再訳なのか不明な、草書体で書かれたチベット語文件のセット
この協定の有効性について考察するにあたっては、 などの問題を検討する必要がある。上記の3史料は、この検討に対し、きわめて有益な情報を提供するであろう。

そこで手始めに、十七箇条協定の中国語本・チベット語本のテキストをUPした。残る各資料のテキスト・和訳も順次掲載していく予定である。

編者:西藏自治区档案館
書名:西藏歴史档案薈粹
出版:文物出版社(1995)
  1. 「達頼喇嘛爲和談事給代理摂政的令稿」, 文件番号97
  2. 「krung dbyang mi dmangs srid gzhung dang bod kyi sa gnas srid gzhung gnyis bod zhi bas bcings 'grol 'byung thabs gyi gros mthun/ 」「中央人民政府和西蔵地方政府関於和平解放西蔵辨法的協議」, 文件番号100
  3. 「第十四世達頼喇嘛爲擁護協議事毛沢東主席電」, 文件番号101

重要史料へ// 目次へ
本文では用いなかったが、日本において「西藏和平解放」にして用いられがちなその他の表現を以下に列挙する。
キーワード:西蔵和平解放、中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する協約、十七か条協定、チベット、中国、十七箇条協定、チベット平和解放