プロフィール 手塚治虫の人生

1928年11月3日大阪府豊中市出身。兵庫県宝塚市で育つ。

幼少時代:結構裕福な家庭だったようだ。お父さんがとても新し物好きで当時はめったになかったカメラと映写機があり治(本名)少年が庭のブランコに乗って遊んでいる姿などが納められている。
そして当時は珍しい漫画が父の本棚にあった。この父なくして手塚治虫は生まれなかっただろう。
もちろんお母さんも優しい理解のある人。寝つきの悪い時などは本を読んであげたりパラパラ漫画を本の端に自分で描いたりしたそうだ。

学生時代:背も小さくて運動オンチしかも天然パーマだったため「ガチャボイ」とあだ名をつけられイジメられた。でも現代のような陰湿なイジメではなくからかわれる様なキャラクターだったのだろう。物凄く(天才的に)絵もうまいし誰からも好かれる性格だったのは言うまでもない。
また漫画や絵を描くことの他に夢中になった事に「昆虫採集」が挙げられる。その入れ混み様は半端ではなく、いわゆるオタクというレベル。10数歳の頃に自分で昆虫図鑑を作っているのだが、その情報量の多さも去る事ながら挿し絵の凄さといったら、、、。写真と見間違うほど。しかも実物大で描いている。その時の有名なエピソードに「いい赤がなかなか無いので自分の指から血を出して絵の具代わりにした」ここまで出来ないよ普通。
学業の成績も優秀で大学は大阪大学の医学部。この時すでに漫画家としても活躍している。2足のわらじを履きつつしっかり大学も卒業。医学博士の免許も持っているのだ。

漫画家新人時代:少し話は前後することになるのだが、大学の時すでにデビュー。そのために1年留年している。漫画家を本気で目指すようになったのは戦争中の軍事専門学校時代。
こっそりと書き溜めた原稿は実に3000枚以上(!)だという。戦争中ということや、漫画自体が全く世間に認められたものではなかったので専門学校を卒業して新聞の4コマ漫画「マアチャンの日記帳」で連載をしつつも大学に通い医者の免許も取得したわけ。
そんな手塚治虫が結局漫画家の道1本にしぼるわけだが、本気で悩んで母親に相談した時に「あなたの本当にやりたい道に進みなさい」の一言でふっきれたらしい。すばらしい親だ。
漫画家として世間に認められるきっかけとなったのは「新宝島」(酒井七馬原作)という長篇漫画。今読んでも全く見劣りのしない大胆な構図は全ての人々にとって衝撃だったという。くだらない例えになってしまうけど、ゲームでいったらファミコンからいきなりバーチャファイターへ進化するぐらいだったのだと思う。
その後俗に言うSF3部作(ロストワールド、メトロポリス、来るべき世界)などを発表。いきなり第一線に踊りでる。

・東京進出、頂点を極め、アニメに没頭:誰もが知っている「ジャングル大帝」で全国区の人気を得る。そして東京に進出。住まいは‘漫画界のバウハウス’と呼ばれた「トキワ荘」へ。たったの4畳半でトイレは共同。しかし手塚治虫に憧れた人々が集い活気に満ちていた。手塚が1番始めの入居者だったが一番盛り上がる時期には後輩の藤子不二雄の2人に部屋を譲っていた(敷金礼金もなにもいわず貸したそうだ)
31歳の時に悦子さんと結婚。新居も構える。そして翌年‘虫プロダクション’を設立。ずっと憧れだったアニメに取り組む。63年に日本で始めての連載アニメ「鉄腕アトム」放映開始。
当時は十数人のスタッフで全てが始めての試みだったため想像以上に大変だっただろう。実際過労で死んでしまったスタッフもいた。
しかし手塚が生み出した数々のアニメ(特に実験映像)はかなりのレベルで今の日本のアニメ(ジャパニメーションだっけ?)の基礎となったと言える。
漫画の方も絶好調で連載も同時に13本(!)もっていた。

・虫プロ倒産。スランプに陥る:虫プロはどんどん拡大。手塚一人で切り盛りできないレベルにまで拡大していた。しかもアニメは今のような生産システムが確立されていなかったのでコストも絶大で次第に赤字がかさんでいく、、、。そして虫プロ倒産(73年)
当時手塚は「僕はアニメをやるため(お金のため)に漫画を描くんだ」と言っていたらしい。
その漫画のほうも時代が変化。世間の漫画は描写はどんどん過激に、スポコンものなどが流行る。
手塚はそういう漫画を描くこともできず、時代が彼を必要としなくなった。「手塚治虫はもう終わった」と世間の人々口にする。しかし手塚は漫画を描き続ける、、、意地を張っているようにしか見えなかった。でもけっして終わってはいない。

・奇跡の返り咲き!歴史に残る名作続々:手塚治虫は他のいわゆる巨匠と呼ばれる漫画家たちとは違い、自分の作風を時代に合わせて変えてしまう。60年代後半から70年代にかけて漫画は劇画といわれる大人を対象にした物が主流に。ずっと子供達に夢を与えていた手塚も可愛い絵柄を捨て劇画調になる。性描写もした。やっぱり作品はどんな形にせよ素晴らしかったが黄金時代のようにはもういかなかった。
しかし少年雑誌のチャンピオンに読みきりで執筆した「ブラックジャック」が話題を呼ぶ。そして連載に切り替わる。ブラックジャックは毎回読みきりの連載で今まで手塚の漫画に登場したスター達が登場。(1話目の読みきりではアトム)どうやら手塚アンソロジーというか引退する意気込みで始めたようだ。まさにその作品で復活した!
ブラックジャックの連載の他にも「三つ目がとおる」「火の鳥(連載再開)」ほか名作を執筆。第2の頂点を迎える。

・見えないところで病気が浸透していた:復活した手塚はその後も「アドルフに告ぐ」「陽だまりの樹」などを描く。しかし病気(胃癌)が浸透していた。
88年に入院。入院中も連載していた作品をベッドの上で描く。しかし何作か連載途中で力尽きた。
89年2月9日東京の半蔵門病院で死去。

単行本として後に出版された未完の「ネオファウスト」では手塚が死の直前まで漫画を描く意欲が全く途切れることが無かったことがわかる。しっかりペン入れしていた原稿がしだいに鉛筆の下書きになり、人物も正中線だけの描写に、そして最後のコマにいたってはフキだしの文字すら読めなくなっている。
手塚治虫が世に残した漫画は手塚治虫全集で約700巻。作品数としては約1000にもなるという。ギネスブックにも載っている。地球があるかぎりこれだけの素晴らしい作品の数々を生み出す人物は絶対に出てこないだろう。

 

モドル
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