脚本家 古谷壮志の
「わーるど・いず・のっといなふ」
「燐多について…」その1

劇団クルクルかんらん車、第三回公演「リンダ十番勝負」をご覧になってない方には大変申し訳ないのだが、次回公演で脚本を担当する私としてはここで「燐多」についてどうしても言っておきたい事があるので、何回かに分けてホームページ上で取り上げたいと思う。

まず言いたいのは役者達への感謝である。実は「燐多」に登場するキャラクターはそれ程個性的ではない。確かに経歴やら立場はそれぞれ違うし明確に色分けされてる様に見えるが、実はそうではない。

簡単に言うと一辺倒でいて尚かつイヤな奴等なのだ。他人の揚げ足を取ってばかりだし自分の言いたいことしか言わない。ストーリー的にもかなり問題があったので(これは後に触れるが)同じ脚本家の上田君に指摘され、実は完成までに三回の書き直しを行っている。又、私が演劇の脚本をあまり書いたことが無い上に研究もしていなかったもんだから演劇的に無理のある部分もかなりあり、回りの人間を困らせた。

にもかかわらず、クルかんの役者陣はそれぞれのキャラクターを実に個性的に演じてくれたし、演劇的に無理のある部分を解消してくれていたと思う。(これは脚本家としての意見)

役者陣の中には、「ここに音楽が有ればもっと良かったのに…」とか言う人もいたけれど、音楽の力を借りなければ(けして音響を軽んじているわけではない)シーンを盛り上げることが出来ないというのも少し悲しかった。これは次回に課題として残っている問題である。

「桜の頃」は全編かなりの量の音楽が使われていたが出来ればそれよりは役者陣の迫力だけで魅せることもして欲しいと思っていた。役者陣には感謝もしたが同時に問題点もかなり目に付いたので、次回公演ではその問題の解消を心がけたいと思う。

先にも述べたストーリーについてだが、これもかなり問題が有ったと自分では思っている。上田君に指摘されたのは主に物語の構成やキャラ構成についてだが、もっと根本的な問題が有ると自分では思っている。それはキャラクターの心理がかなり複雑であるにも関わらずストーリーが単純すぎたと言う点である。

それが良かったと言う声もあったが。物語を単純にし過ぎたが故に本来描きたかった物が本当に観客の皆さんに伝わったのだろうか?という疑問がどうしても湧いてくるのだ。これは表現者にとって永遠に付いて回るジレンマで有るとは思うが、発信者と受信者のギャップを埋める努力をしなくなったら表現者としては終わりだと思うので、出来るだけ足掻きたい。

ご覧になった方は分かると思うが、「燐多」は某国によって日本が再占領されるという危機が主人公の燐多の活躍によって回避されるという単純明快な勧善懲悪の物語である。しかし実際に登場したキャラクターはそれ程単純ではない。

主人公の燐多が一番ややこしくて元スパイにして元警官、そんでもって現在は探偵をやっているという何だかよく解らない経歴をもっており。その上警官を辞めた理由が恋人が死んだからというこれ又よく解らない設定なのである。

しかし物語上ではそれらの設定の経緯を明確に説明する台詞は余り出てこないし、ストーリーにもそれ程関係が有るわけではない。ただ主人公である燐多が余りにもスーパーマンのようなヒロイックなキャラクターであるのは作者としてはどうしても許すことが出来なかったのだ。(結果的にはそうなっているが)

だから余計に歯がゆい。物語の背景である日本人が缶コーヒーで洗脳されているだとかみのもんたがどうだとか自衛隊のF16だとかに重点を置きすぎるあまりに心理描写が殆どされていないのである。次回はそのことを分析していきたいと思う。
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