和泉 憲昌 の 略歴

 
1974年 愛知県で生まれる。
2500グラムに満たない未熟児でした。粉ミルクを飲んでは吐いていた
ためになかなか体重が増えなかったそうです。
 
1981年 小学校に入学。
1年生から3年間水泳、4年生から3年間そろばん、1年生から6年間ピ
アノを習い、水泳は4種類の泳法ができるようになり、そろばんは2級ま
でとりました。ピアノはあまり上達しませんでしたが、今でもたまには弾
いています。クラブは水泳部でした。
 
1987年 中学校に入学。
学校(というよりも市のほとんどの中学)の男子全員が丸坊主でした。
クラブは軟式テニス部で、3年生の時は副キャプテンでした。市の大会で
1回戦からその年の全国3位のチームと当たり、短い夏が終わりました。
副業として冬には駅伝部に所属し、3年生の時に3000mで市で2位になり、
市民駅伝で区間賞を獲得しました。
 
1990年 高校に入学。
クラブは陸上競技部で、1年生の時は長距離をやっていましたが、2年生
になってから中距離に変えて、3年生の時には800mでインターハイに出場
しました。
 
1993年 防衛大学校(横須賀)に入校。
かなり規則正しい生活を送っていました。1年生の頃は泣きそうでしたが、
4年生になると、快適な生活を送っていたように思います。クラブは
陸上競技部で主将をつとめ,4年生の時に日本学生選手権大会の800mで
優勝しました。
 
1997年 航空自衛隊幹部候補生学校(奈良)に入校。
大学卒業と同時に幹部候補生となりました。暇を見つけてトレーニングし、
職場でコーチを見つけ、いろいろとサポートして頂きました。
 
1998年 自衛隊体育学校(朝霞)に入校。
陸上競技で飯が食べたいという希望が通り、体育学校へ転勤しました。
仕事は国際大会に出場してメインポールに日の丸をあげることという、
非常にわかりやすい仕事内容になり、ただそれだけのためにひたすら
走るという生活を送っていました。
 
2000年 通信制の大学に入学。
高校時代から、人間科学部というものにあこがれていて、人間とはどう
いうものなのか?ということを学びたくて、働きながら学べる通信制の
大学を探していました。そして発見したのが人間総合科学大学。できたて
ホヤホヤの第1期生です。自分の競技にもプラスに結びつけばいいなぁと
思って入学しました。
 
2000年 航空自衛隊入間基地(狭山)へ転勤。
シドニーオリンピックへ出場できなかったことから、転勤の話が始まり、
フルタイムのアスリートはもうできなくなりました。しかし、しぶとく
パートタイムで頑張っていこうと決意しました。仕事をしながら、そして
競技をしながら、大学の単位を取りに行くというのは、難しいことでした。
 
2000年 航空自衛隊第4術科学校(熊谷)に入校。
自衛隊に入って自衛官としては自衛官らしいことを何もやっていないため
自分の職種に関しての知識を習得すべく熊谷基地にある学校に入りました。
ここで競技を続けるのは、さらに困難を極めましたが、なんとかやり通し
ました。
 
2001年 航空自衛隊入間基地へ再び戻る。
約1年で少しは航空自衛隊について知識を習得したところで、今度は、
指揮官として部隊勤務が始まりました。部下もたくさんつき、仕事も
大変になり、大学は休学するしかありませんでした。
 
2002年 自衛隊体育学校(朝霞)に入校。
再び元の職場へ戻ってきました。競技をするのではなく、部隊の体育
指導者を育成する課程に入りました。課程入校中にはスポーツプログラマー
や日本赤十字水上安全法救助員の資格を取得しました。日中練習が
できるわけではないですが、練習環境が目の前にあるのが有り難く
思いました。
 
2003年 自衛隊体育学校(朝霞)へ転勤。
3月に上記の課程を卒業し、入間へ戻ったのですが、入間にいたのは
約3週間。4月からは、自衛隊体育学校の職員として勤務をすることに
なりました。職場は部隊の体育指導者育成の部署で、仕事は体育教官。
ついこの間まで学生だったのに、1ヶ月もたたないうちに逆の立場と
いうのがなんとも言えませんが、運動に関われる仕事なので、張り切って
やりました。2004年4月からは、学校内で異動があり、測定分析の仕事に
なりました。
 
2005年 筑波大学大学院体育研究科入学。
現職のまま、大学院に入学しました。人間総合科学大学は3月で退学しました。
仕事を何とかやりくりし、土日に当直につくなどして代休をため、毎週休暇と
代休を取りながら通学しました。
専攻はスポーツ科学で、専門は陸上競技です。学校で学んだことがそのまま
職場でも役立つということで、自分では一石二鳥ではないか、なんて思い
ましたが、職場の人たちには随分ご迷惑をおかけしました。仕事と勉強を
しながらの競技は今まで以上に大変でしたが、それでもあきらめず、競技も
継続しました。
 
2006年 防衛大学校(横須賀)へ転勤。
母校に戻って、体育の先生となりました。2007年からは、陸上競技部の
監督に就任しました(2022年からは部長に就任しました)。
 
2009年 横須賀に定住を決意
2009年9月をもって航空自衛隊を退官し、10月から、正式に防衛大学校の
教官になりました。