夜、想う




氷室浩介は闇の中へ浮かび上がったガラスに己の全身を映しながら、眼下の夜景を見遣った。都会の夜は瞬く光の数を増やし、きらびやかな姿を今更のように見せつけている。照明を絞った部屋から望むその眺めは、アメリカ西海岸のおおらかさを微かに滲ませながら、暗い色を背にしてますます華やぎを増してゆく最中だった。
時刻は午後9時を回った。ロスアンゼルス市に到着してから、丁度一日半が過ぎた計算になる。空港に着いたその足でユニバーサル・インシュアランス本社へ出向き、明朝より取り組むことになる仕事の手筈を整えた。既に送り込んである自分の息がかかった多くのスタッフは巧妙に準備を進めていて、あとは氷室からのゴーサインを待つだけとなっていた。
数年がかりで構想を練っていた本社乗っ取りは用意周到なシナリオをなぞり、後は実際に敵地へ乗り込むところまで漕ぎ付けていた。先月、会長が倒れたのは予想外の出来事だったものの、そのお陰でアメリカ本社への異動がスムースに取り計らわれ、計画の実行を早めることとなったのだ。
またとないチャンスが訪れていた。天が氷室に味方したといっても良かった。そして今、自分が掌中に収めている玉の価値を思うと、己のツキがいつまで続くかという不安もきれいに拭われそうな気がしていた。
だが、油断は禁物である。今は戦闘前の小休止に過ぎないのだということも判っている。勝負を賭ける一瞬に備えて、常に注意力を高め、其処から意識を逸らさないようにしなければならなかった。
闘う時間は、短いに越したことはない―――氷室の持論だった。長期戦になればなるほど集中力が落ち、ミスを犯す可能性が高くなる。些細な失敗が取り返しのつかない痛手に繋がるのはよくあることだ。長い準備期間を経て用意してきたこの計画は必ず成功させなければならなかった。一にも二にも慎重な行動を心がけ、その時がきたら素早く勝負に出て、相手が事態を把握しきれないうちに決着をつける―――これが理想的なパターンだった。
「・・・ん・・・ゆ、うすけ・・・」
奥で、小さな声がした。
「萩原? 起きたのか・・・?」
顔だけを捩ってそっと呼びかけてみるが、返事はない。普通に歩いても足音を吸い取ってしまう毛足の長い絨毯の上を氷室は静かに移動した。
部屋の奥にはキングサイズのダブルベッドがある。そのど真ん中でブランケットに包まり、軽い寝息を立てているのは、自分が日本から連れてきた腹心の部下、萩原健太郎だった。
「なんだ、寝言か・・・」
氷室はそのまま窓際へ戻ろうとしたが、ふと引き寄せられるように枕元へ腰掛けた。
このベッドは、殊の外スプリングがしっかりしていて、大人が一人際に腰掛けたくらいではその表面を沈み込ませたりしない。眠る男の意識は、微睡みの谷間奥深くへ囚われてでもいるのだろう。氷室がかけた体重による振動はまるきり伝わらなかったようで、相変わらず寝入ったままである。
二人が今いる部屋は、ロサンゼルス市のやや北に位置するホテル・ウィルシャープラザの最上階に設えられているスィートルームの一つであった。映画の都ハリウッドへ隣接する高級住宅街ビバリーヒルズの一角に聳え立つこのホテルは、多くの著名人や外国の賓客が利用することでもよく知られていて、ハイグレードな社交場としての役割も果たしていた。そして、アメリカ国内大手保険会社に分類されるユニバーサル・インシュアランス日本支社長の宿泊予約が入ると、ごく稀に先約で埋まってしまった場合を除いては、必ずスィートを用意してくれるのだった。
ただし、それは氷室支社長に限ったことである。萩原にはもう少し下の階の一室が手配されていた。では、なぜ彼がここにいるのかというと―――夕食後に、自分の部屋で軽く飲まないかと氷室が誘ったからだった。今後、社内でどう動くべきかという心得を言い含めておきたかったゆえホテル内のバーでなく自室を選択したのだが、それが萩原の緊張を解いたようで、さほど飲んでいないにも拘わらず眠気を催したらしかった。
海外旅行はおろか飛行機に乗るのも初めてだったのだから、この一日半は萩原にとって何もかもが新体験の連続となったに違いない。それでも昼間はピンと張った糸が緩む暇もないくらいに、次から次へと初めての出来事が押し寄せ、疲れよりも好奇心の方が勝っていた。だが夜になり、上司とはいえ、この異国でたった一人の知り合いである氷室と二人、他人の目の無い部屋で杯を傾けていれば、言わずもがなである。まだ体内に残っている筈の時差ボケも、ここへきて加勢したのだろう。
両の眼がとろんとしてきたのを目の当たりにした氷室が「もう、眠くなったか?」と聞いた。萩原はこっくりと頷いた後、「申し訳ありません、部屋へ戻ります」とか何とか、もごもご口の中で呟いていたが、立ち上がった際、僅かながらフラついたその足取りの怪しさを氷室の鋭い目は見逃さなかった。
いいから奥で少し寝ろ、とジャケットを取り上げ、ネクタイを外させた。先に立って歩くと、自分の後を黙ってついてくる。大きな子供のようなその姿が、なんだか可笑しかった。枕元へゆき、ベッドカバーごとブランケットを捲ってやった。半ば睡魔に支配された状態の萩原は、それでも一礼するように首を振り、その中へもそもそと潜り込んだのである。
ズボンを履いたままだったが、目が覚めて自分の部屋へ帰る時にでもプレスサービスの頼み方を教えてやればいいだろう、と考えて何も言わなかった。Yシャツは確か替えを持っていた筈である。氷室は大して量も無かった萩原の乏しい荷物を思い浮かべていた。自分が彼と同じ年の頃も、全財産はあんなものだったことを重ね合わせて、懐かしくなった。
(まずは、服を仕立てさせないとな・・・)
今度の週末には、二人とも会社の用意した家―――大方、コンドミニアムだろう―――へそれぞれ移ることになる。だが、その後暫くは、週末毎にロスでの過ごし方や街の歩き方などを萩原に教えてやらなければならない。仮に経験から学習する能力が高かったとしても、その経験が皆無では話にならない。海外駐在生活の術として頭に入れておくべき最低限の知恵をつけておいてやる必要があった。
日本から異郷の地へやって来たばかりの今、萩原があてに出来るのは氷室一人である。同時に現在氷室が手足のように使えるのも萩原だけには違いなく、暫くは公私共に二人一緒での行動を取ることが多くなりそうだった。尤も氷室の方は、最初から自分の右腕とするつもりで萩原を連れて来たのだから、それもまた然りなのだが。
とはいえ、萩原の高い順応性や人懐っこさは、じきにこの地でも多くの友人知人を当人にもたらすだろう。日本では、入社の経緯や運の強さだけが一人歩きしてしまい彼を嫌う者も多かったようだが、移民だらけのこの国でなら、萩原のようなバイタリティー溢れる人間は容易く受け入れられるに違いなかった。
氷室の身体に僅かな揺れが伝わってきた。萩原が寝返りを打ったのだ。
先程までやや壁側へ向けられていた顔が、今の所作で手前へ倒れこんできた。氷室は黙ってその姿を眺めた。
カーテンを引いていない窓から入り込む夜の外光が、萩原の上に幾種類かの濃淡を創り出していた。長い睫は頬へ影を落とし、白っぽい光を湛えた唇が寝息を漏らす度、あたりの空気は小さく震える。
氷室は余計な音を立てないよう気をつけながら萩原の上に屈み込み、しげしげと見つめた。無防備な寝顔だった。
この数ヶ月で、氷室が尤も必要とする社員に育った萩原健太郎は、類稀なる強運の持ち主だった。
当時、自分の恋人だった柏木麗子の神経を過去に例を見ないほど逆撫でし、出入り禁止に近い処遇を受けたにも拘わらず、望みの薄かった佐々木建設の契約奪回を成功させたのが彼である。麗子を見返したいばかりに彼女の部下だった大沢一郎をそそのかし協力させてのことだったらしいが、何にせよ、失われるところだった契約は無事更新された。
その実績を評価して、氷室は萩原を強引に入社させた。麗子は憤慨したが、後には彼の能力を認めたようである。天宝堂デパートの女帝と仇名される煩型の竹中社長にも可愛がられるようになり、キャッスルコンツェルンの城之内会長まで、味方につけた。契約こそ叶わなかったが、岩崎産業の岩崎社長も、萩原個人のことは気に入っているらしい。
持って生まれた愛想や強運に助けられながら、この男は『一所懸命』と『頑張り』だけでは渡っていけないビジネスの世界を自身の努力と研鑚によってのし上がってきた。氷室は昔の自分をそこに見、己と彼とを重ね合わせていた。
初めてその顔を見た時、氷室は萩原の瞳が放つ強い光に魅せられた。尤も、当人に言わせると、仕事は無いわ(少し前にビルサービスを馘にさせられていたのだ)、借金を返すアテは無いわ、当座の生活費も無いわで切羽詰まっていたらしい。しかしそんな状態で、あの不敵な表情をしてみせたとは大したものである。
どこまでも前向きな性格と真剣な眼差しと―――いつも、彼の中にパワーを見てきた。仕事をバリバリこなし、その正当な報酬として金を得ることに、萩原の姿が馴染んでいった。
だが、こんなに無垢な表情で眠ることは、知らなかった―――
氷室は、そっと溜息をついた。
萩原が両親を亡くし、細々と借金返済しながら、幼い弟達と苦しい生活を続けてきたのは知っていた。自分がその借金を肩代わりし、二人の弟の養育費も手配してやっと、この部下は日本を後にできたのである。
用立てた金は半端な額ではなかった。借金返済その他諸経費で一千万、弟達の養育費で五百万。しめて一千五百万である。それでも、こいつを自分の直属として使いたかったのだから、仕方がない。
―――萩原が手柄を立てたこと、そんなに嬉しい?
ふいに麗子の声が耳元へ甦ってきた。
あの時、自分は何と答えたのだったか。
言っただろう。黒でも白でもネズミを採るのが良い猫だって、な―――
そう、最初はそうだった。萩原という筋の良い猫が我が社に迷い込んできた―――ただそれだけのことだった。適性もあったのだろうが、彼は凄まじいスピードでこの業界のノウハウを吸収していった。麗子に初めて出会った時にも感じた手応えを確かに感じたのは、萩原で二度目だった。こいつはモノになる。このカンが狂うことは滅多に無い。
「・・・ひ・・ろし、も―――」
萩原の口からまた寝言が洩れた。狭い長屋で煎餅布団へ横になっていた日々から、今まで使ったこともないベッドで眠る生活へと変化して、心身共、戸惑っているに違いない。そして多くの場合、身体の方がいち早く環境に慣れる。心はなかなか現状に追いついてゆかないのが、世の常だ。
異国での長期生活に於いて単身者へ一番こたえるのは、残してきた家族への郷愁がピークに達した時だ。特に萩原の場合、両親亡き後、肩を寄せ合うようにして生きてきた幼い弟達と離れ離れになっての生活は今回が初めてである。昼間は新しい仕事に慣れることで精一杯だろうが、一日も終わる夜ともなれば、淋しさや恋しさがこみ上げてくるだろう。こいつは、それとどう向き合っていくのだろうか。
氷室は、萩原の寝顔を今一度見つめた。被さった睫が揺れたように見えた。
「あ・・・れ―――しゃちょう・・・?」
一、二度、軽く表情を顰めると、眠っていた男は重い瞼を押し上げた。瞳に氷室の姿を映したようである。
「目が覚めたか」
「あの、どうして・・・僕、が、ここに―――」
眠りに落ちる前のことは、すっかり頭の中から消えているのだろうか。
「なんだ、覚えてないのか?」
氷室は咽喉の奥だけで笑いを殺した。
上体を起こした萩原は軽く目を擦ると、両手で頬を押さえるようにして難しい顔をしていたが、
「あ、あ・・・」
と呻いて、氷室の顔を見返した。
「その・・・も、申し訳ありません・・・」
どうやら、全ての記憶が甦ってきたようである。恐縮して小さくなっている部下をそのままにして、氷室は部屋の中央へとって返した。ミネラルウォーターをグラスに注いで、再びベッドの傍らへ足を運ぶ。
「いや、気にするな」
まだ目をパチパチと瞬かせている萩原の顔の前に水を差し出した。
「昨晩は、あまり眠れなかったみたいだな。こういうホテルの枕はフカフカしているから、頭に合わなかったんじゃないのか?」
手にしたグラスを一気に呷って漸く、萩原も落ち着きを取り戻したようだった。
「当たりです。しかも部屋が広いじゃないですか、なんか、落ち着かなくて―――」
「まあ、そんなことだろうと思っていたが・・・下の部屋でも広さは、お前の住んでた家の軽く四倍はあるだろう」
面目無さそうにしていた顔が少し緩んだ。まだホームシックには早いが、狭いながらも楽しい我が家を思い出してか、萩原の表情に明るさが戻っている。
「・・・はい。今まで寝たことのないような広い部屋に自分一人っていうのが、まだピンと来ないです」
その言葉を聞いて、氷室は小さく笑った。無理もない。兄弟三人が四畳半に寝ていた生活から、だだっ広い部屋で一人暮す日々へと一変したのだ。常に誰かの気配を感じる室内しか知らなかった身には新鮮かもしれないが、正反対のそれへ慣れるまで今暫くかかるだろう。自覚は無くても、萩原の身体がそう言っているのは間違いなかった。
自分も昔、そうだった。狭い部屋で家族全員が寝起きしていた生活から、ある程度の広さがある部屋を借りられる身分になった直後は、なんだか心もとなくて、そわそわしたものだった。己の立てる物音以外は聞こえてこない空間というものを許容するまでに、随分長い時間がかかった。
氷室は、まだベッドの中から動いていない萩原を見て、
「萩原。なんだったら、このままこの部屋で寝るか?」
と言った。
「・・・へ・・・?」
言われた本人は目を丸くして固まってしまった。氷室はくすくすと笑い出しそうになる自分を抑えて、言葉を紡いだ。
「今までずっと、弟さん達と一緒に寝てたんだ――― 一人っきりで、落ち着かないんじゃないのか?」
「あ・・・確かに、そうかもしれません。自分以外誰もいない部屋って、初めてで・・・」
いつもいつも、萩原の傍には祐介と浩の体温があった。寝相が良くない弟達は、時々互いの手足を布団以外のものの上に投げ出したが、その二人の立てる騒音や気配は、途切れることのない温もりとして彼の心と身体に染み付いていた。
「だったら、ここで寝ていけ。部屋を狭くするのは出来ないが、人が一人、同じ部屋にいると大分違うだろう」
「え・・・いいんですか?」
「ああ、構わん」
萩原は氷室の気持ちが嬉しかった。今や外資系保険会社の日本支社長にまで昇りつめた男は、その昔、焦げた飯を食べクーラーも無い部屋で生活していた。自分と同じ経験をしているからこその心遣いだと思った。
「・・・それじゃ、お言葉に甘えまして」
氷室は無言で頷くと、バスルームへ姿を消した。ごそごそ何かを捜していたようだったが、戻ってきた時には片手に大きな荷物を抱えていた。
「これに着替えて―――先に、シャワーを浴びてこい。スーツは上下ともプレスサービスに出してしまうが、いいな」
「あ、はい・・・」
やっと這い出してきた萩原は、洗面所でバスローブに着替えると、畳んだ衣類を手にして出てきた。
「後で、頼み方を教えてやるが―――今日は俺がやっておくから、お前はシャワーをさっさと使え」
やや背を丸めるようにしながら、その場で立ち淀んでいる萩原を「風呂を使っている最中に眠くなっても知らんぞ」と追い立てた。シャワー室から聞こえてきた水音にあわせて、クリーニングサービスの直通番号をコールする。ものの数分と経たないうちに現れたホテルのメイドへ萩原の衣類を引き渡すと、氷室はサイドテーブルに整然と並べられているニューズペーパー各紙を取り上げ、順にチェックし始めた。

「お先に使わせていただきました」
バスルームから出てきた萩原の声が、ソファで新聞を読んでいた氷室の目を上げさせた。完全に閉められていないドアの向こうから、溢れた湯気が室内へ流れ込んでいる。腰を上げた氷室はネクタイを弛めながら、萩原に向かって
「今度は俺が洗面所を使うが、待ってることはない―――眠くなったら、寝ていいぞ」
と言った。
「あ、それじゃ・・・僕はこっちのソファで眠ります」
まだ火照りが治まっていない長身を包んだバスローブの白さが、浅黒い肌に映えて眩しい。氷室は思わず目を眇めた。
「何、言ってるんだ。あのベッドを使えばいいだろう」
「でも―――それじゃ、社長の寝るところが無くなります・・・」
おずおずと、答えが返ってくる。ここで気を遣う萩原の心情も判らないではなかったが、氷室はそんな部下に歯痒さを感じていた。だが、それを微塵も悟らせないよう、努めてさり気ない口調でこう言った。
「お前はバカか・・・あれだけ広いベッドだぞ。大人が三人は横になれる。それとも、萩原―――お前、そんなに寝相、悪いのか?」
「あ、いえ、そんなことありませんっ」
慌てた萩原が、その場でしゃちほこばった。その姿に苦笑しつつ、氷室は更に言葉を重ねた。
「俺と一緒だと緊張するか? そんなデリケートな神経が備わるような育ちじゃないと思ってたぞ」
「し、社長、その言い方はないですよ〜」
萩原が情けない声を出した。
クローゼットの中にしまってあった替えの下着を取り出すと、氷室はそのまま浴室へ向かおうとしたが、まだ突っ立っている萩原の前でいったん立ち止まり、その顔を覗きこんだ。
「安心しろ。寝込みを襲ったりは、しない」
悪戯っぽく囁かれて漸く、己の殊勝な気配りを納めるつもりになったのだろう。萩原の顔にやっといつもの笑みが戻ってきた。
「ハイ―――では、そうさせていただきます」
後方で頭を下げた姿へ向かい、手で追い払うような仕草をしてみせてから、氷室はバスルームのドアを後ろ手に閉めた。

まだ湯気の充満している室内で、氷室が真っ先にしたのはバスタブへお湯を張ることだった。やや熱めの湯が溜まるように水温を調整し、コックを全開になるまで捻った。力強い水量が蛇口から落下している間に、脱いだものを次々と備え付けの棚へ積み上てゆく。
曇り止めが施されている洗面台のガラスに顔を映しながら、髭を剃った。終わってから軽く洗顔し、続けて歯を磨いていると、バスタブの湯がいっぱいになった。
熱い湯へゆっくと浸かり、全身を伸ばした。靴の中で窮屈そうに縮こまっていた足の指を一本一本確かめる如く、動かしてみる。今日一日の疲れが毛穴から流れ出ていくようで、心地よい。
だが、なぜか爽快という気分には程遠かった。その原因もまた、はっきりしていて―――つい今しがた、萩原が自分に気を遣ったからだった。
確かに氷室と萩原の関係は上司と部下―――それも、社長と一般社員という、普通に考えても天と地ほどの距離がある間柄だ。ソファで寝ると言い出した萩原からすれば、当然の申し出ということになる。
しかし氷室は、萩原の口からその一言を聞いた途端、不愉快になった自分に気がついていた。
何なのだ、この感情は―――
自分があの部下を引き立てた理由は、単に仕事が出来るからということだけではないようである。氷室は薄々、それに気がついていた。
彼の境遇は自分が若い時に置かれていたそれとよく似ていた。狭い部屋での寝起きも、金が無くて困ったことも、全て氷室が歩いたことのある人生の一部と同じだった。
尤も、自分が昔、萩原と同じような日々を送っていた事実を知る人間は現在周囲に殆どいない。とりたてて隠しはしないが、わざわざ宣伝する類のものでもないからだ。だから、社長に赤貧を洗うような生活をしていた過去があることを知っているのは、萩原一人といっても良かった。大体、氷室自身、己の口からそういう話をしたのは、萩原へが初めてだ。
そんなことも手伝って、あの青年に特別な親近感が湧いた、ということは確かにある。だから、人生やビジネスに於ける先輩として、萩原が自分を慕ってくれているのは非常に嬉しかった。
だが―――
(本当に、それだけか・・・?)
氷室は、コソリとも音のしない空間でじっと湯に浸かったまま、自問していた。
部下の能力を最大限に引き出す一番良い方法は、その『情』を利用することだ。多かれ少なかれ人という生き物が持ちうる義理人情を上手くつつき、仕事への意欲を増し与えることが可能となるのは、自明の理である。それを応用すると、上司に対し憧れや恋心を抱かせられれば、部下がより一層の努力を重ね、自身の業績を上げることで己を認めてもらおうとする―――ということにもなるのだ。
仕向けたつもりがなくとも、麗子の場合はそうなった。
後に自分達が恋人関係へと移行したのは、もちろん彼女に女性としての充分な魅力があってのことである。しかしその一方で、仕事へ取組む段になると男顔負けの辣腕を揮う姿が、氷室へ殊更に強い印象を与えたのだ。
もしも麗子が仕事の出来ない、ただの綺麗な女でしかなかったら、自分は見向きもしなかっただろうと思う。厳しいビジネスの世界を渡り歩いてゆくのに耐えうる幾つかの素質を麗子の中に見たからこそ、彼女に惹かれた。
恋や愛といった世迷い事は所詮永く続く種類のものではない。時間が経てば、ただの執着に成り下がる感情に振り回されるのは御免だった。だから、公私共にパートナーとしてやっていけそうだということで、彼女を選んだのだ。
しかし男女の間は、思ったようにいかぬのが常である。スタート時は仕事上での関わりしか持っていなかったとしても、私情を交えた関係になった途端、それは諸刃の剣として常に背筋を脅かす。二人の間が上手くいっている時はいい。だが、いったん拗れたら、私事を切り離して公的な関係だけに立ち戻るのは不可能となる。
そして結局―――麗子は、自分から離れていった。
では、萩原とは? 同性の彼相手なら、そんなことは起こり得ないのだろうか。
深い溜息が、氷室の口から洩れる。
(何を考えてるんだ、俺は・・・)
萩原が自分へ恩義を感じ、懐いてくれているのはよく判っている。「一所懸命、頑張ります!!」という言葉に嘘はなく、そうして多くの契約を勝ち取り業績アップへ貢献してくれた。
わき目もふらずに働いて、売上成績をどんどん伸ばした可愛い部下を想い、氷室は小さく頭を振った。
己の謀略を成功させる為の持ち駒として、自分は萩原を日本から連れてきた筈だった。指し手は駒の能力を見極め、要所要所でどう使うかということだけに心を砕いていればいいのである。駒そのものの事情や気持ちの如何は言うに及ばず、自身が駒に執着するなどもってのほかだった。
氷室が今後注意を払わなければならないのは、自分が指揮を執るプロジェクトの進捗状況のみだ。アメリカ本社から見れば謀反となるこの計画を水面下で進めてゆくにあたり、萩原の能力を使えそうなところがあれば、惜しみなく使うつもりでいる。時と場合によっては、部下の一人や二人、切り捨てることもあるだろう―――そして、その中に萩原が入らないという保証は、無いのだ。
理屈では嫌というほど判っていることだが、氷室の感情はそれに反発し、ざわざわとした胸騒ぎを覚えさせた。
一体、どうしたっていうんだ・・・代わりになる部下はいくらだっているじゃないか―――
全くもって、人の心とは厄介な代物である。
のぼせる一歩寸前のところで、氷室はやっとバスタブから身体を引き上げた。肌触りの良い海綿タオルで身体からしたたる水滴を乱暴に拭い、ランニングと短パンを身につけると、殊更に緩慢な動作でバスルームを後にした。

広い室内を突っ切って、奥のベッドルームへ足を踏み入れた氷室の目に映ったのは、すやすやと寝入っている平和そうな萩原の寝顔だった。だがその長身は、ベッドの広さに不釣合いなほど端の方へ寄っている。結局、後から横になる上司へ気を遣ってのことだろう。
自分もベッドに上がった氷室は、無心に眠る姿へ視線を這わせた。起きているときは、くるくるとよく変わる表情が、凍りついたように綺麗だ。ガラス越しに映る光は青白く煌いて、萩原の肌上を滑ってゆく。
正々堂々とこの部屋で眠る許可を貰ったからか、先程のやや浅い眠りとは違ってノンレム睡眠状態であるらしい萩原は微動だにしない。鼾の一つや二つ、覚悟していたのだが、意外なことに静かな寝息が規則正しく吐かれるだけである。
氷室の表情が思わず緩んだ。
まずは、この距離をなんとかすることが先決か―――
小学生くらいの子供なら二人は横になれそうなスペースが、今現在、己の横たわっている位置と萩原との間に空いている。
会社や外での距離感は、自分達の役職が上下に離れている以上、仕方のないことである。だが、二人だけでいる時は、そうかしこまられてもいい気はしない。寧ろ、へんに気を遣われるのは真っ平だった。かといって、あまり馴れ馴れしくされるのも、困るのだが。
親子ほどの年齢差はないが、兄弟というのも無理がある。こじつけたところで、歳の離れた親友と表現するのがいいところだろうか。公私の隔てなく、全てに於いて信頼のできるパートナーとして、萩原が自分を求めてくれるといい、と思う。尤も、それは随分と恰好をつけた言い方で、つまり、ストレートに甘えてもらいたいということなのだ。
日本でそうだったように、ただ上司と部下としての生活を送るのではなく、もう少し別の種類の親しさをこの若い部下との間に築きたいと思う心理が、一体何処からくるものなのかは判らない。だが、そういう気持ちがある以上、それを無理に押さえつけて後々爆発せるよりは、適当に発散させていった方が結果的に少ない被害で済むということを氷室は経験から知っていた。
好き嫌いに根ざす感情は、誤魔化したところで何の解決ももたらさない。だが、この手の心情をどれくらい持ち続けることになるかは、神のみぞ知るだ。案外、忙しさに紛れてあっという間に萎えるやもしれぬのだから。
それでも、自分が萩原に対して、優秀な部下としての働きの他に、もっと別の親愛の情を期待しているという現実が、なんだか奇妙な感触を氷室の中へ残した。それは、彼とより深い繋がりを欲する自身の気持ちへ基づいた真実に他ならない。本能ともいえる想いを否定したところで、近い将来、その感情から目を逸らし続けることが出来なくなるような予感がしはじめていた。
果たして、気持ちの行きつく先には、何が待ち構えているというのだろう。安らかな眠りを貪る萩原の肢体は、悩める氷室の心中をより深い苦悩へ導いていくようでさえあった。それでも、自分の傍らで安心したように眠りこけている萩原の姿そのものが、氷室には嬉しく感じられ、不思議な幸福感をもたらしてくれる。
ロスでの生活は、まだ始まったばかりだ。計画の全てが完遂されるには、どんなに少なく見積もっても一年の歳月が必要だと思われる。その間、自分は、この、心掻き乱す部下と殆どの行動を同じくすることになるだろう。そうしているうちに、いずれ、己の気持ちにも見極めがつくに違いない。
だから、その時がきたら考えることにしよう―――氷室は、そう決めた。
今は、こいつの寝顔を見ているだけで、笑みを洩らしてしまう自分の存在自体が、ひどく莫迦莫迦しくて、照れくさいけれど。
氷室の複雑な心中を覗き見する者は誰もいない。深夜の到来を告げる時計の鐘らしき音が、何処か遠くの闇から響いてきた。

(2000/5/1)


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な、なんなんだ、この話???←オイコラ、自分で書いといて
結構、字数を使っている割には、ただただ眠い健ちゃんと、もやもやした内心を隠す社長という話ですね。ホント、それだけです。すみません、すみません、すみませんっ(平謝り)
それにしても―――健ちゃん、社長の前で寝るとは、なんて無謀…じゃなかった無防備な(爆) 尤もウチの氷室社長、一応ジェントルマン(笑)だったみたいで、とりあえず何事も無く済んだようですが(って、当たり前だろーーー)
しかし、これのどこが『社長×健ちゃん』なんだよ、オイ!というツッコミが聞こえてきそうです。超ドンカンな健ちゃんと、これからどうやってオトそうか悩む氷室社長ということで、許してください。でも、アメリカにいる間中、結局、手が出せなかったんじゃないだろうか、ウチの氷室……
それから、苦情は心してお受けいたしますので、遠慮なくどうぞ(しくしくしくしく)