石川先生と司馬先生のその後



柳原 紫苑  様



巷で『振り返れば奴がいる』の人気がじわじわとぶり返して来ているらしい。
つい最近『踊る大捜査線』というドラマを大ヒットさせた織田裕二の人気に担われた部分が大きいようだが、六年前の本放送の時から一回も欠かさず見て録画もし、そのビデオがいい加減ノビるところまで繰り返し見つづけ、殆ど全てを暗記してしまった『振り奴』オタクの私としては嬉しい限りである。自慢じゃないが、セリフを言われて「第×話の誰々のセリフ」とイントロクイズ並みに答えられるくらいなのだから―――本当に困ったもんだ・・・
さて、当時この番組を見ていたのには訳がある。それは、私が石黒賢さんの大ファンだということだ。
私は基本的にトレンディドラマの類には興味は無い。元々、漫画少女だったので、高校時代はアニメ・漫画研究部の部室に入り浸っていた人間だ。小さい頃から空想の世界にドップリ浸かっていたせいもあって、現実世界の異性に殆ど興味が湧かず、紙面の上のヒーローに憧れ、恋心を募らせた。
まあ、その影響が強かったからか、実在の俳優達が演じるTVや舞台や映画には今一つのめり込めなかったのである。友人達が「○○(タレントの名前)ってカッコイイー!!」と黄色い声を張り上げていても(そ〜かね〜)と醒めた目でしか見ていなかった。しかし、外見的に好みの男性というのはあるもので、芸能界ではその中の一人が石黒賢さんだったのである。
ところで六年ぶりに発売された『振り奴』ビデオを予約して早速手に入れた私が、パッケージを手にしてつくづく思ったことがある。『振り奴』は織田裕二のドラマだということである。大体、ケース裏の紹介文が『三谷幸喜 連ドラ初脚本の名作、遂にビデオ化! 織田裕二のハードボイルドな魅力がここにある。』なんだから、やっぱりビデオ化は織田人気の賜物である。まあ、織田の演技力は認めてるから、それはいいんだけど。
そして、見れば見るほど、石川先生が不憫でならない。といっても、単に最後に死んでしまうからではなくて、司馬に対する感情を漸く受け入れる気になった途端にあの世へ行かされてしまうからだ。その点では、おそらく先にそれに気づいていた司馬も充分不憫なのだが。
では、最後にお互いが相手に思っていた感情とは何か―――
石川先生ふうに言えば『司馬が気になる』という言葉が一番近いと思う。逆に司馬が気がついていた気持ちは、これも司馬ふうに言えば『石川を嫌いじゃない』という一言になるだろう。そしてこの最大のポイントは、まだお互いに理解はし合えていないというところである。
三ヶ月という短い期間中に繰り返された激しいバトルの末、分かり合えてはいないのに感情だけは歩み寄り始めていたのではないだろうか?というのが、私の『振り奴』論である。では、なぜそのように考えたかというと・・・
6話以降を思い出していただきたい。無能の極み、石川召還の為だけに存在する研修医・峰のおかげで、未経験にもかかわらずラパコレの手術をさせられる羽目になった石川は司馬の指示のもとに手術を成功させた。この時に司馬は石川の優秀さを認識したはずである。また、石川も司馬の指導を受け入れ、術後は素直に礼を言っているのだ(仕事中なんだから、当たり前だが) そして、その直後に石川のレントゲンを見た山村が沢子のところへ相談しに行き、物語は急展開を見せる。
皆が告知に否定的な見解を示す中で、司馬だけが告知すべきだと主張する。石川自身から「君の言うことなら僕は信じる」とまで託されたにもかかわらず告知を逃げる、とことん使えない研修医・峰に対して、「闘う意志のない人間ならともかく、石川はそうじゃない」と司馬は言い切っている―――ここは、注目すべき箇所である。
私は、この時点で既に司馬が石川を失いたくないと思っていたと考えている。どうでもいい相手の胃癌だったら、司馬の性格からして告知するしないの議論そのものにかかわらないだろう。だが、駆け引きも小細工もせず、正面から自分に体当たりしてくる唯一の人間である石川の存在は、司馬にとってかなり大きくなっていたはずである。
司馬を取り巻く人間関係を見てみると、過去を共有している中川や沢子の場合、それぞれの思惑の中で遠慮と気後れとタブーが生じ、「言いたいことは山のようにあるが、言えない」と牽制しあっているような状況だし、また自分を慕ってくれる前野については年下ということもあり、司馬にしてみれば機嫌を取られつつ付き合っているというのが本当のところだと思う。そして他の人間の場合、手術の腕は一流でしかも外科部長の庇護下にある司馬の性格と態度が悪いからと言ってイチイチ意見しようとする者はいないだろうというのは、当然である。
要するに天下無敵だった司馬に、天真楼内での『お約束』を何一つ知らない石川が、一般的な正義感を楯にして絡んだのだ。最終話で沢子が峰に説明している通り、司馬は自分に思いきりぶつかってきた石川の存在を嬉しく思っただろう―――そりゃあ、最初の頃は煩いし、鬱陶しかっただろうが。
連日のように言葉で(手が出たこともあったが)闘っていれば、相手の性格や気質はおのずと知れてくるものである。大体、ここまで揺るぎ無い自信と迫力で相手に向かって「認めない!!」と騒ぎ立てる男が、そう簡単に自分の人生を投げるとは思えない―――皮肉だが、石川への告知についてのカンファレンスに参加したどの医師よりも、司馬が一番石川の性質を理解していたと言える。
だが、それは単に性格を分かっているだけであって、思想や倫理観や医療に対する考え方を理解したのとは訳が違う。そして、司馬の中では石川に自分を理解してもらいたいという気持ちは無いのだが、それでもほんの少しだけ(分かってほしい)という思いがあるのだろうと思う。
だからこそ、私は、「彼には知る権利がある」と司馬が自ら石川に告知したのには、もう一つ別の理由があったのではないかと思っている。憎まれている自分の口から告げることによって、石川に『打倒、司馬』という生き甲斐を与え、少しでも生存確率を上げようとした気がしてならないのだ。
一方石川の方は、自分の本当の病名を知らされる前に天真楼の屋上で司馬に詰め寄っているが、結局満足な答えは得られていない。司馬の腕の凄さは4話で目撃済みで、石川は5話で沢子を呼び出して過去のことを訊ねた時に「僕は彼をかっている」「だからこそ、残念でならない」と口にしている。
要するに石川としては、司馬のやり方、特に目に見える部分(倫理観等については、二人がきちんと意見を闘わせたことはないので)が気に入らないのである。それを何とか変えさせようとしても、司馬の干渉されたがらない性質―――最もこれは中川との関係を隠さなければならないということが影響していて、司馬本人は家族の縁も薄いし、結構淋しがりな部分があるような気もするのだが―――と、石川のあまりに直球で正攻法な意見のしかたがうまく絡まるワケがない。肝心なことは何一つ喋れない司馬と、カンザスから帰ってきたばかりで日本流の『タテマエとホンネ』な言い回しができない石川の溝は深まるだけである。
しかし、いくらドクターとしての腕を認めていても人間的に気にならなければ、石川もああまで司馬に突っかかっていないと思うのだ。まあ、同じ職場の人間だから目障りだろうが、本当に嫌いでなおかつどうでもいい相手なら無視すればいい。
石川は暫くアメリカにいたので、良くも悪くも個人主義な考え方ができると思われる。カンザスのような土地でも大学の研究室ともなれば、ある程度の雑多な人種が揃うはずであり、そこで一々気に食わない奴に関わっていたら、時間がいくらあっても足りないはずである。
まして、日本に戻ってきて、ある意味学生の延長上にある大学の研究員(これも、他の分野ならともかく医学においては相当忙しいのでは)ではなく、患者と向き合う『現場』である病院に勤務しているのである。急患が運び込まれ緊急オペもありえる救急指定病院の外科は多忙なのが当り前であり、どんなに石川が熱血でも気のない相手にそうそう構っていられる時間は無いだろう。
もしも石川側にスキルス、それもボールマンW型アドバンステージという非常事態(?)が発生しなければ、屋上での会話の後、彼は司馬のことをもっと調べ、より深く知ろうと行動を起こしたのではないだろうか。アメリカで、しかも医学を修めたのだから(アメリカの場合、大学入学は簡単だが卒業は難しい。卒業までになんと半数以上が厳しい勉強についていけなくなりドロップアウトするそうだ)頭はいいだろうし、アメリカ的競争社会でのサバイバル精神も培われていると思う。それなら、司馬という人間に興味を持った時点で、相手の事を知りたいと思うのは当然の欲求であり、しかもその答えを当人がくれないのなら自分で調べてみようと思う、ある意味で前向きな発想を伴うのが予想されるのである。
だが突然の病の宣告は、石川の心からあらゆる意味での『余裕』をもぎ取ってしまった。死ぬかもしれない・・・というより確実に死が訪れるという恐怖と、もう自分には時間が無いという焦りとが入り交じった結果、『生きている間に司馬を糾弾し、少なくともこの病院を辞職させる』という明確な目標が出来上がってしまったのである。途中で峰や稲村が「あんな男に構ってる暇、無いって」「もっと大事なことに時間、使いましょうよ!」と何度も説得するが、結局石川は司馬を追い詰めることをやめようとせず、一応の本懐を遂げた後に喀血したのだ。
そして、司馬の執刀を拒む石川を峰(ここでやっと役にたった)がなんとか説得し、オペ前に顔を合わせて初めてお互いの気持ちが向き合っていることに気がついたのである。
そりゃあ、これから成功率の低いオペに挑む執刀医と患者である。手術の成功と生存に向けて気持ちを通わせられなければ、とてもじゃないが助からないだろう。あの場で「僕は死にたくない。死ぬのが恐い」と告白し「君を信じてる―――よろしく頼む」と頭を下げるような自分の発言に対し、司馬が「今の症状じゃ、助かる可能性は、ゼロだ」とはっきり言い切ったことで、石川には司馬に対する信頼が生じたのではないかと思う。
石川自身、医者なのだから下手な気休めは聞きたくなかったに違いない。告知の時といい、手術前の会話といい、司馬は自分に嘘をつかなかったという事実が、石川が司馬を見直すきっかけになったと思う。
出会ってから自分がこんなにも司馬に突っかかってきたのは、単に彼の考え方や生き方が気に食わないからであり、彼が憎い訳ではない。優秀な腕を持ち人望だって得られるはずの男がなぜあんな生き方しかできないのか、それをなんとか矯正できないのか―――と考えること自体が、相手に入れ込んでいるいい証拠である。
さて、ドラマでは手術は成功したものの、石川は肺梗塞で死亡、司馬も平賀に刺されて死んでしまいジ・エンドである。多くの司馬ファンと石川ファン(いるのだろうか)をブラウン管の前で嘆かせたが、その後スペシャルが作られることになって一番嘆いたのは脚本を書いた三谷幸喜だと思う。主人公二人が死んでいるのだから、スペシャルは回想話にするしかなかったという感じがして(やれやれ・・・)と思ったものだ。最も、スペシャルのお陰で、司馬の死亡は決定的なものとなってしまったが・・・
それでは、もしも石川が肺梗塞にならずに生き延びて、司馬が平賀に刺されなかったとしたら(あるいは、刺されても助かったとしたら)あの二人はどうなっていくのだろう―――こう考えた『振り奴』ファンは、私だけではないはずだ。
私は、まず司馬は変わらないと思っている。まあ、天真楼を出ていって他所の病院で働きだしたら、中川というバックがいない以上、あそこまで勝手な振る舞いをすることは許されないだろうが、患者からの礼金や小さなリベートを受け取るくらいは相変らずだろう。
それとは対照的に大きな変化は石川の方に出ると、私は考えている。
先にも書いたが、司馬が(ある意味で)石川の性質を大分前から分かっていたのに比べて、石川が司馬に対する見方を変えたのは手術直前のことである。もっと平たく言ってしまうと、司馬は石川をウルサく思っていただろうが、元々憎む理由はない。寧ろ、嫌われ者の自分に律義に突っかかってくる石川を大した奴だと認めていたフシがあると思う。
それに対して、初対面の時にあんまりな司馬のものの言い方に反発し「認めない」「許せない」という気持ちで突っ走ってきた石川の方は、自分のオペ直前に司馬を信頼した時点でまず大きく気持ちが変化していると思われるのである。
そしてそれは『人間の本質は目に見えるものが全てではない』ということだろう。当時の自分には時間が無かったとはいえ、司馬が自身のことを何一つ語らなかったことに気がつき、石川は驚くのである。まあ、父親がいないとか中川の教え子だったとか、事情を知らない訳ではないのだが、それらはみな又聞きで入ってきた情報なのだ。司馬本人から聞いたことといえば沢子と付き合っていたことくらい(4話)だろう。つまり、あれだけ衝突していたのに、相手の目に見える態度や言動だけで司馬という人間を計っていたことにようやく気づき、愕然とするのではないだろうか。
更に、毎日司馬と顔を突き合わせなくなったことにより、石川の中に一種の淋しさが湧き上がってくるはずである―――これは、断言できる。
よく、嫌いな人間の顔を見ないで済むようになると「ああ、せいせいした」と思うが、元々この二人は個人的な感情(若干は混じっているだろうが)よりも仕事上のことで対立していたのである。『喉元過ぎれば熱さを忘れる』という諺もある通り、しばらくすると過去の愚行も良い思い出になっていたりするものだ。それに司馬のいなくなった天真楼では石川と互角に渡り合う人間もいないだろうし―――ということで、私は、石川が早々に司馬を懐かしむと踏んでいる。
こうなると、石川の性格からして事ある毎に司馬について考え始めるだろう。とはいえ、天真楼では中川と沢子以外に司馬について語れる人間はいないはずである。となると、石川はやはり沢子に情報を求めると思われる。
9話で沢子は、中川と司馬との間にあったかもしれない事実について、石川に語っている。ただの推測だとしても、一旦それを耳にした石川がノコノコと中川に真相を確かめにいくほどお目出度いとは、ちょっと思えない。対する沢子は司馬に未練タラタラなのだが、自分では司馬を救えないし、司馬もそれを望んでいないことに気がついている。だから、石川が司馬について再び沢子に相談を持ちかけた時に、ここぞとばかりに自分の知っている事全てをぶちまけるような気がするのだ。
そして、石川はようやく気がつくのである―――自分と司馬は表面に出ているものが違うだけで、本質的にはそう変わらないことに。
いったんそのことに気づいてしまえば、熟考するより行動に走るのが、熱血といわれる石川のキャラクターだろうと思う。それともう一つは、石川の体が再発の可能性を抱えているということだ。
本当ならもっと司馬について考え、自分の気持ちに整理をつけてから連絡を取るのが筋であるのは、分かっているはずである。だが、石川の場合、胃を全摘したことから考えても、自分がいつまで生きられるか分からない、つまり悩んで足踏みしているよりは当たって砕けろ!という方向にいくと思われるのである。
そして、そうやって再会を果たした時に、二人の思惑はかなりズレているだろう。
何故なら司馬は石川に『生きていてほしい』と望んでいるだけなのに対して、石川は司馬を『理解したい』とか『分かり合いたい、もしくは分かち合いたい』と、人間の感情の面倒くさい部分を共有しようとするだろうからだ―――大体、理解しようと思ってそれが出来れば、人間、苦労はしない。
思うに、石川という人間は、ちっとも善人ではないのである。『振り奴』を通して見るとよく分かるのだが、石川の場合『正義感が強い』のであって、決して『いい人』ではない。どちらかというと、勝手な人間だと私は思っている。ただ、それは普通の人が誰でも心に持っている勝手さであり、それが正義感の強さや理想を追い求める姿勢に付随しているから、熱血漢という誇張した見方に繋がるのだ。
石川の正義感の強さはアメリカ生活で培われたというより、本人の元々の性格だろう。しかしそれは、自己主張を良しとし謙遜を美徳とみなさない欧米気質に揉まれて、より増長したのではないだろうか。石川の言うことは真っ当な正論なのだが、偏狭な感じがするのはそのせいだろうと思われる。
もし、石川の性格を一言で表現せよと言われたら『白黒をはっきりさせないと気が済まない性格』ということになるだろう。そう考えると司馬と相容れないのはもう分かりきっていることで、多くの苦労をし世の中の裏側を見てきた屈折男との闘いは避けて通れない道だったと言える。
おそらく、司馬の方が先に気がついたはずである―――自分の中にある諸々のマイナス部分を抑えて、自分がこう在りたい(もしくはこう在るべき?)という理想に向かって努力し続けている石川の本質が、司馬のそれと殆ど変わらないことに。
だからこそ、司馬は石川が今後無事に生き続けること以外、何も望まないような気がするのだ。石川の性質を一足先に理解した司馬は、石川が生きている限り、理想や正義を追い求めそれに向かって努力を怠らないでいられることを疑わないだろう。そして同じ本質を持つ故に、心の奥底ではストレートに理想や正義と向き合える石川を眩しく思っているに違いない―――目の前に跪いた中川の頼みを受け入れた時に、司馬はそれらを失ったと感じているからだ。
だが、司馬は自分がそう思っていることは石川に知られたくないし、ましてやその部分を石川に理解してもらいたいとはこれっぽっちも思っていないはずである。まあ、それよりも、自分と中川との間にある複雑な感情を石川に理解できる事柄だとは思っていないだろうが。
しかし石川には、過去にしつこく司馬に絡み続けた実績があり、その人畜無害そうな顔とは裏腹に一旦食いついたら離さないという、良く言えば粘り強い、悪く言えば執念深い性格の持ち主である。司馬の表面だけを見て判断してきた自分の評価を詫び、またそれを覆し自分が納得できる材料を得ようとして司馬の内面に踏み込もうとするだろう。だが、司馬は断固として石川を自分の内面―――殊に過去に繋がる部分については、触れさせないはずである。もちろん、過去の話もしないと思うが。
それでも、出会った途端に始まったあの激しい対立を思えば、再会した時の多少の思惑の違いなど大した問題にはならないはずである。互いが相手に求めているものが多少違うことから、細かい諍いは相変わらず尽きないだろうが、命を削り存続を賭けた死闘とも言える過去の凄まじさに比べたら、可愛いものだろう。
自分達が同じ本質を持っているからこそ反発し、また惹かれ合うことに先に気づいた司馬は、手術後一人天真楼に残されて冷静に司馬のことを考えられるようになった石川が自分と同じ考えに追いつき、連絡してくるのをほんの少し期待して待ち続けるに違いない。そして、再会した二人は、天真楼では築けなかった新たな関係をその上に結ぶのである―――しかし、くだらないことでしょっちゅう喧嘩していそうだが・・・石川と司馬の場合。
とりとめもなく、私の中にある考えを書いてみたが、つくづく石川と司馬はいいコンビだなあ・・・と思ってしまう。石川と組ませると司馬が明るくなるような気がするし、司馬と組ませると石川が引き立つのだ。やはり、似合いのカップル(?)だと思う今日この頃である。
そういう訳で、有沙ちゃん―――是非、石川×司馬を書いて欲しい。読みたいよ、お願い!!!




♪ご挨拶♪
この文章に目を留めてくださった皆様、こんにちは。
私は柳原紫苑といいまして、『うさうさ』こと文月有沙さんとは高校以来腐れ縁で繋がっている者です。
当時、『振り返れば奴がいる』を最後まで見続けて三ヶ月、待ち続けた再放送も実現しビデオも発売された今、やっとここまで来たか・・・と感無量なものがありました。
それで、有沙さんが司馬先生絡みの話を書くということになった際に、強烈にプッシュしたのが石川先生とのカップリングです。しかし、彼女からは「う〜ん、どうやったら、石川が司馬とくっつくのよ・・・?」となんとも歯切れの悪い反応しか返ってこない・・・そこで、私は石川先生と司馬に対する個人的な思い入れと洞察(?)を書きなぐったものをメールで送り付けました。ついでに思いついたネタも三つばかり一緒にして。
おかげで、ソッコーで返事を貰いました(彼女としては、ネタを貰えたことの方が嬉しかったらしいですが)
そして、今回、一倉×司馬のカップリングに関するチャットログを提供した折りに、「ねえ、この前貰った『振り奴』分析、載せていいでしょ〜?」とねだられ、今さら隠すものでもないので、了解したという訳です。
あまり文章を書きなれていないので、表現が重複している部分があるかと思いますが、見苦しい箇所はどうかご勘弁ください。





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全文そのまま、載せさせていただきました。
石川を『ただの熱血単純バカ』(←失礼だ)と決めつけていた私に新たな見解を示してくれた記念すべき文章なので、どうしてもいただきたかったんです。紫苑くん、本当にありがとう!!!
この文章を読んで、私の中に石川×司馬という組み合わせがごく自然なかたちで思い浮かびました。それも、くだらないことを大真面目に説教する石川と、それを「ああ、もう、判った…そーゆーコトにしとけ…」とあしらう司馬、という感じの、一歩間違うとバ○ップ○になりかねない二人という構図が(大爆笑)
ネタも貰ったことだし、当分はマイブームになりそうです。石司(笑)