君をわすれない          
            ――記憶の欠片――



夜船  様



ACT.1 

ぴっ――『真下、聞こえるか!』
無機質な音のあとに、聞きなれた声が僅かに焦っているのに気付き、真下正義は肩を少し不安げに揺らす。
『今、被疑者と入れ違いになった。お前のいるフロントへ降りてくところだ』
「せんぱ〜い!何ですかそれ」
洒落たホテルの二階、フロントが見える大きな柱の影で真下が情けない声をだした。同棲していた女性を浮気したと思い込みわき腹を刺して逃亡している男が、このホテルで見かけたとの情報をようやく掴んだ湾岸署の強行犯係は、張り込みの末に逮捕状を裁判所から貰って今ここにいる。
『情けない声出すなよ、課長代理。魚住さんとそっちへ向かうからさ、とにかく逃がさないでね』
「本当にお願いしますからね」
『判ったって。とにかく犯人を捕まえなくても、足止めくらいならお前にも出来るでしょ』
「……頑張ります」
そういって真下はぐるりと辺りを見渡した。一階が喫茶店になっているここは、どこかの雑誌に取り上げられたという事で結構混んでいる。中央に広く取られた二階へ続く階段は一段ごとに絨毯が張られ、白い手すりが女性を映画のヒロインになった気分にさせるらしい――とは、その雑誌にあった紹介文だ。エレベーターではなく階段、というのがミソらしいが、緩くカーブを描いたその手すりを見詰めながら真下は大層な溜息をつく。これが仕事でなければ、楽しい事には違いないのに。
「あ……」
エレベーターの点滅が一階に到着する。
「先輩、早く来て下さいね」
こっそり十字架を握り締めた真下は、自分が警察のいわゆる『キャリア』と呼ばれるエリートなのだと、全く頭によぎりもしなかた。取りあえずは先輩と呼ぶ青島俊作が一刻も早くここに来て、犯人を逮捕して欲しいと願うばかりだ。
「でも、とにかく仕事しよう」
ゆっくり開くエレベータの扉を見詰め、彼はいつでも出れるように身構える。これで犯人を取り逃がしたらのちのち青島に書類の束を渡されるに違いないのだ。
――犯人、取り逃がしちゃったよね、せっかくあそこまで追い詰めたのに。
にっこり笑って。
「来た!」
写真を見て本人なのを確認すると、真下は「済みません――後藤和孝さんですね」と声をかけた。

「真下!」
息を切らして青島と魚住がフロントの正面へと走りこんだ時、ぼろぼろになった真下がそれでも犯人の足を掴んで「せんぱ〜い!遅いです」と半泣きの状態でこちらを見ていた。すぐさま青島が後藤の腕を捻り上げ背中に乗ると魚住が逮捕状を見せて読み上げる。そのまま手錠をかけ、「起きろよ」と立ち上がらせると青島はにっこり笑って真下を見た。
「やるじゃん、真下課長代理」
「早く来て下さいって言ったじゃないですか」
「だから来たでしょ?――あっと、後藤、顔隠すか?」
「るせぇ!なもんいらねえよ!」
いかにもチンピラ風情の男が絨毯に唾を吐く。このホテルを出たら東京を出て暫く行方をくらまそうと思っていた矢先の事だったのだ。
「あいつが悪いんじゃねえか」
「悪くてもね、人を傷付けたら立派な傷害なんだよ?後藤。詳しい事は取調室で聞くからさ、さっさと歩こうよ」
手錠を背広で隠し一階へと続く階段を下りようとした青島の耳に、女性の悲鳴がダイレクトに響きわたる。
見れば一階の喫茶店で若い女性が男に髪を引っ張られ叫び声を上げているところだった。
「真下!こいつを」
青島の目が頬を張られ床に転がる女性を見詰めている。
ほんの僅かな注意が他に反らされたのは、被疑者を確保したという安心感からだったのかも知れない。手錠をかけ後藤自身も観念したかのように大人しくしていたし、毎日のように起きる事件や逮捕で日常化してしまった油断がそうさせたのかも知れない。
だからほんの一瞬、彼が気をそらした瞬間に後藤が全体重をかけ、青島を階段から落とそうなどと誰も考えつかなかったのだ。
「先輩!」
「あお……!」
真下と魚住の悲鳴が彼の浮き上がった体の上を素通りしていく。階段へ落ちるのではなく、足を踏み外した青島が踏ん張るために無意識に寄りかかった手すりは、その衝撃を受けるには彼の背の高さが仇になってしまったらしく、するりと彼の背を後ろへ押し出してしまった。
音の無い浮遊感と次に起きる後頭部と背中への衝撃。
「……てぇ!」
大きくバウンドした青島は、くらくらする頭を持ち上げる事も出来ずぐっと目を閉じる。背中が異様に痛く、打った後頭部は痛みさえ感じない。息も出来ない程の圧迫感に意識が遠くなっていく彼を現実に押し留めたのは、「やめて!」と叫ぶ先程の声だった。丁度階段の後ろへ飛ばされた彼に、一階の騒ぎで誰も気付かなかったらしい。
「くそ!」
よろめきながらも起き上がり、ぶんと頭を振ると被害者の場所へと走る。現場へ着いてみれば、数人の男に押さえつけられた若者に女性が覆い被さっている所だった。
「ごめんね、警察だけど」
さっと回りの野次馬が離れる。
「どう言う事かな、これ」
「す……済みません。話が拗れちゃっただけなんです」
女性が押さえつけられた若者の腕を取り、「大丈夫?」と立ち上がらせる。
「本当にご迷惑かけました、済みません」
何か言いたげなフロアの従業員と押さえ混んだ男達に頭をさげ、ぐいぐいと彼女が若者を引っ張っていく。痴話喧嘩の延長線上と言うことなのだろうか。
「民事不介入ってか?」
慌てて走りこんだ青島は従業員に頷き、肩を竦める。途端、忘れていた眩暈が青島を襲い、かれは足にぐっと力を入れた。胸がむかむかして気分が悪い。二階と言っても二階と半分ほどの高さがある場所から落ちたのだ、骨の一本でも折れていない方がおかしい。
「大丈夫ですか?!」
一気に階段を駆け下りたのか、息を切らしながら真下が青島の肩を支える。同じように被疑者をぐいぐい引っ張りながら魚住も
「病院へ行った方がいいよ」
と心配げに声をかけた。
「こいつは俺と真下で署に連行してくから。歩ける?今タクシー呼ぶからさ」
「大丈夫で……」
言いかけた青島がぐっと口を押さえそのまま近くにあったトイレに走りこんだ時点で、真下が魚住に「応援呼んで下さい!僕は先輩見てきますから」と彼の後を追いかける。魚住も後藤を逃がさないように気を配りながら、署に手短く応援の要請を携帯で頼む。それから後藤を睨み、
「刑事怪我負わせると罪、重いよ」
「ひとつやっちまえば同じだよ」
どこまでも嘯く後藤の胸倉を掴んで「後悔するよ」と低く威嚇したのは、魚住の快挙かも知れない。デスクワークが得意な魚住とて所轄の刑事と言う事なのだ。
「大丈夫かな……青島君」
魚住の頭を去来したのは過去となりつつある、誘拐事件の顛末である。あの時も青島は怪我を負った。少し傷口が逸れていれば命すら危うかったのである。
「一番殉職に近い男かも」
大きな溜息を吐いてやがて来る応援になんと説明すればいいのか、心配半分嫌さ半分で人込みを逸れた階段の奥で魚住は外を見やった。
――青島は不死身。
どこかでそんな安心感があったのだ、誰も。
胸を刺されても拳銃を向けられても腰を刺されても死ななかった男。
今回も以前と同様、慌てて心配すると後で疲れてしまう……そんな気分が彼らにあったのは致し方ない事だったのかも知れない。だが――
例外はどこにでも落ちているものだ。
慌ててトイレに駆け込んだ青島の後を追った真下も、どこかそんな気分があった。だが便器を抱きかかえ、意識朦朧としながら吐き続ける青島を見た時、一気に血の気が引く。
――頭!頭打ってんだ。当たり前の事に気付かないなんて!
急いで彼の元へ行き背中を摩りながら真下はとにかく青島の名を呼び続けた。
「先輩――先輩。すぐに応援が来ますから、病院へ行きましょう」
「気持ち悪い……」
「頭打ってんです。安静にしてないとダメですから」
「真下……気持ちわる……」
最後の言葉が言い終わる前に青島の体が真下の腕にかかる。
「先輩!?」
意識が無くなり青白い顔をして真下の腕に倒れこんだ青島の細い息だけが、狭いが綺麗に行き届いたトイレの中に聞こえ、彼は何度も青島の名前を呼び最後は悲鳴にも似た懇願が、意識の無い体を抱き締めながら溢れ出た。
「先輩――目を開けてください。お願いですから……冗談は止めてくださいよ……先輩!」
それから――
「誰か!早く救急車を呼んで!先輩が――先輩が!お願いだから、助けて……」
汚物に汚れた背広に顔を埋め、真下の涙腺が緩む。
「すみれさん――室井さん!誰でもいいから……お願い、早くして!」

応援の要請に走り込んで来た恩田すみれと柏木雪乃が見た光景は、忘れようとしてもいつまでも深層心理に張り付いてしまうくらい衝撃的なものだった。
意識を失った青島を抱きしめながら、真下の頬に涙の後が見て取れる。狭いトイレの中を覆うのは独特の酸臭。吐き続けて出すものが無くなってから出る胃液の匂い。
「頭――打ってんです!二階から被疑者に落とされて、それでも下の喧嘩に仲裁に行って!トイレに駆け込んだらそのまま意識が無くなって――!」
「なに判んない事言ってんの!しっかりしなさい」
パン――すみれの右手が真下の頬を打った。
「雪乃さん!すぐ救急車を呼んで!」
「もう手配してありますから!」
そう言いながら雪乃が真下から青島を受け取り、ベルトとネクタイを緩める。
「頭打ってるなら早く連れていかないと大変ですね」
「真下君は被疑者を連行して」
「僕も一緒に――」
「なに言ってんの」
真下の肩を掴み、すみれはまっすぐ彼の眼を見て言葉を続けた。
「この事件は青島君と真下君で追いかけてた。最後まで頑張んのよ。でなきゃ青島君が後で怒る。途中で事件放り出したって。良くやったって誉めて欲しいでしょ?」
目を真っ赤にしながらも気丈にしてみせるすみれに、ようやく真下は冷静になって頷く。
「そうですよね……先輩にまた怒られちゃうところでした。被疑者は僕と魚住さんで連行します。あとの事は任せてくださいって――先輩が目を覚ましたら、そう言ってください」
「判った」
大きくすみれが頷く。もう一度青島の顔を見て、吹っ切るように立ち上がった真下の耳に
救急車のサイレンが聞こえてきた。
いつ聞いても不安になる、あの響き。
「すみれさん――雪乃さん。先輩をよろしくお願いします」
一度頭をさげ、彼はもう振り向く事もせず魚住の元へと歩いていく。随分真下も成長したもんだ。青島の髪を撫でながらすみれは小さく笑った。
「だから青島も頑張る」
「――すみれさん、来ました」
救急隊員が走ってくるのを見て、雪乃が小さく呟く。
「大丈夫ですよね?青島さん」
「青島君は不死身のヒーロー、でしょう?」
頷くすみれに雪乃は少し笑って「こっちです」と隊員に向かって手を振った。
誰もこの時点でこれから起こる様々な障害を、予期できる者はいなかった。
そして誰が一番苦しむかも――さすがのすみれさえ気付き事など出来なかったのだ。

警察庁で書類を捲っていた室井に、和久から電話がかかって来たのはそれから2時間後の事であった。
公衆電話から青島の携帯で調べて電話してきたのだと言った和久は
「お前さんには伝えとかないとな、俺ぁ今でも信じちゃいるが」
そう笑って室井の耳に伝わった和久の言葉に、室井の携帯がするりと手を滑り落ちカラン――と乾いた音をたて床に転がる。
ようやく一日が終ろうとする、夕日がブラインドから不吉に差し込む秋の事だった。

−2000/4/29 UP−




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