君をわすれない          
            ――記憶の欠片――



夜船  様



ACT.2

カラカラと目の前をスレッシャーが通り過ぎていく。
そう言えばこうしていつまで経っても出てこない青島俊作を待っていた事があった。もう記憶にすら留めていないほど昔の事だと思ったが、まだ一年経っていなかったのだと気付く。
「すみれさん」
救急治療室の前でじっと赤いランプを見詰めていた恩田すみれが、声のした方へ目をやる。そこには青島の携帯を持って歩いてくる柏木雪乃の姿があった。
「連絡取れた?」
少し寂しげに雪乃が首を振る。
「どなたも出ませんでした。伝言だけは入れておきましたけど。それと和久さんに電話しました」
「和久さん?」
「はい。青島君とは名コンビでしたから。教えておかないと後で叱られちゃうかなって」
そうね。すみれは小さく笑った。和久ならきっとこんな時には頼りになる。自分達よりたくさん生きて色んな悲しい事も経験してきた老刑事なら。
「まだですか?青島さん」
「うん、まだ。頭打ってるから脳の検査するって」
「そうですか……」
ランプを見詰めて雪乃が溜息を付く。どうしてこう青島はいつも周りを心配ばかりさせるんだろう。誰も彼もこんなに心配してるなんてきっと考えもしない、あの人は。考えもしないで無茶ばかりして、後で笑うのだ「ごめんね?」と。邪気の無い――少しだけ眉を下がらせた表情で。
「大丈夫ですよね、青島さん」
ホテルで言った言葉をもう一度雪乃は繰り返した。胸には青島の携帯が握られていて、その白い指が細かに震えているのに気付いたすみれが、大きく頷く。
「あの男は死なないわよ――死神だって嫌がる」
「ちょっと酷いです」
「心配ばかりかける奴は、女の敵」
「……味方、ですよ」
そっと雪乃が呟いた。彼女の想いはすみれも知っている。知らないのはのほほんな真下と
本人の青島くらいのもので。父親が殺された事件からずっと青島は何かと雪乃の助けになってやっていた。傷付いた心を抱えて心細く生きていかねばならない彼女にとって、青島は生きる支えになったのだ、これが恋情に変わったとていっかな可笑しな話ではない。
そうね、あたしだってもう少しでヤラれる所だったし――室井の存在さえなければ。
女心と培った刑事の勘が二人の間には入る隙間が無いと、いつも警告を発している。近寄れば傷付く。それは青島が刺された時に見せた室井の激情で、急に色を成したような気がしていた。
いい女がここにいるのに。
キッとランプを勝気な瞳で見上げた時――
「あ……和久さん」
雪乃の嬉しそうな声に振り返ると、和久平八郎が相変わらずの飄々とした姿で「よっ」と片手をあげる。
「和久さん……」
急に雪乃が涙目になり和久にしがみ付いた。
「青島さんが……」
「なんだよぉ、いきなり。しっかりしねぇか雪乃さんよ。あんたも刑事になったんだ」
「済みません……和久さんの顔を見たら気が緩んじゃって」
ぽんぽんと雪乃の背を叩く和久がすみれを見る。
「すみれさんも大変だったなぁ。あいつにはいつも振り回されるな」
「ほんと。いい加減にしてもらいたい」
「――あんたは辛い事ばかりに立ち会うなぁ、すみれさんよ」
のんびりした口調に優しさが滲み出るのは和久の懐の広さなのだろうか。しょぼついた瞳は相変わらず芯の通った光があり、訳もなくすみれは鼻がつんとするのを覚え、慌てて涙を目じりで止めた。
「元気になったら思いっきり奢ってもらう」
「その時は俺も呼んでくれよ」
「勿論――雪乃さんもね」
「はい」
こっそり笑いあった三人がふと顔色を変える。隣の処置室でいきなり女性の鳴き声が廊下まで響き渡ったからだ。同じ頃に運ばれた男性の妻だろうか――夕暮れにさしかかった寒々しい廊下にただ泣き声だけが途切れる事無く続く。
本当に病院は嫌だ。すみれは肩を抱いて思う。あの時の事を嫌でも思い出してしまうのだ。血に塗れた青島を心配しながら愛用のコートを洗った、あの凍りそうだった時を。
「どれくれぇ経つんだ?青島がここに入ってから」
「一時間半ぐらい」
「長いやな」
ふと和久がそう呟いた時、引戸になっている銀色のドアがス……と開いて中から三十後半の医師が姿を現した。途端三人の表情が緊張したものになる。
「患者さんの関係者の方ですか?身内の方はいらっしゃいますか」
医師の言葉に雪乃が首を振って「連絡したんですけど……いらっしゃらなくて」と答える。
「病状を説明したかったんですが」
「なら俺が聞くよ、先生」
和久に医師が目をやる。
「先生よぉ……あいつは俺にとってまぁ息子みたいなもんだ。教えてくれねぇか?」
「……」
「あいつはな、先生。こんなところでくたばっても良い奴じゃねぇんだよ。やらなきゃならねぇ事があんだ、だから頼む」
頭を下げた和久に、「判りました、こちらへ」と言いながら医師が和久を中へ招き入れる。
脳の断面図が並べられた写真を見せながら医師の告げた言葉は、和久でさえこれをすみれや雪乃にどうやって伝えたらいいものか、重い溜息と共に思い悩んでしまうような絶望的なものだった。
「これを見てください。ほら……ここに影があるでしょう?これは出血している事を意味しています。そうです、この丁度脳の真中ですね。これが例えば頭蓋骨のすぐ中側にあれば、少し頭蓋骨を切り取って血を取り除く事も可能なんですが……場所が真中ではどうしようも無いと言うのが現状なんです」
「と、言うと」
「今は強制的に脳を眠らせている状態です――脳を休めるためにね。出血が止まればまだ
可能性はあります。ですが、このまま出血が止まらなければ血が脳を圧迫して、我々にはどうする手立てもありません。いま言えるのは良くて植物人間――最悪の場合は覚悟しておいて欲しいと言うことです」
ス……と和久の血の気が引く。遠くで青島の邪気のない笑い声が聞こえたような気がして、ぐっと拳を握り締めた。
「だから俺は言っただろう、青島。逮捕の時が一番危険なんだって」
「お気持ちは察します……。それでですね、会っていかれた方が良いと思います。宜しければ外でお待ちになっている方も。呼びたい方がいれば、連絡してください」
「先生――!どうかあいつを助けてやってくれっ。あいつは光なんだ……これからの警察の希望になっていく奴なんだ。こんな事で死んでいい奴じゃねぇんだよ!」
医師の言葉に和久は強い力で彼の肩を掴むと一気にそう言い募っていた。死なせたくはない……もうあんな辛くて情けない思いは一度だけで充分じゃないか。
「これは可能性ですがね、人は時として医者の考えられない回復を見せます。それを我々は奇跡と呼びますが……青島さんもそれが起こるかもしれない。希望はもっていきましょう。それから明日から面会時間が限定されます、会わせたい人がいるのなら少しは時間に目を瞑りますが」
「――そうだ、一人いる」
和久が肩から手を離してぽんと手を打つ。いつもしかめっ面をした男が鮮明に頭を過ぎり
「今から急いで連絡をいれる、先生。あいつにどうしても会せてぇ奴がいるんだ。そいつの声を聞いたらくたばっているヒマなんかねぇって事に気が付くだろうよ」
「そうですね、なるべく声をかけてやってください。眠っていても耳は聞こえるんです、脳に出来るだけ刺激を与えた方がいいんですよ」
「よし」
勢いよくドアを開けた和久にすみれと雪乃が走り寄る。それに「話は後だよ。それより青島の携帯はあるのか?」
「あ……私が持っていますけど」
雪乃が差し出した携帯に和久は眉を顰め使い方が判らんと呟く。それに和久が何をしようとしているのか気が付いたすみれが、公衆電話を指さした。
「室井さんに電話いれるなら公衆電話。病院ではかけちゃいけないでしょ?」
「おお、そうだったな」
雪乃にメモリで携帯番号を出してもらいふたりして公衆電話のある場所へと消えた後、すみれは長椅子にすとんと腰掛けて重い溜息を吐く。一体何がどうなっているのだろう。ずっと付き添っていた自分達より先に室井へ知らせると和久は言ったのだ。きっと室井の事だからすぐにでも飛んでくるだろう。刑事課が鏡によって占拠された時、SATまで上部に掛け合って出動させた時のように。こと青島が関わると室井の行動はいつも素早い。
「何だって言うのよ」
ふたりには一体何があると言うのだろうか。無理難題をいつもぶつけて必ず応と言わせる青島と、上部に逆らってまでも青島のさせたいように動く室井。男女間ならすでに関係があってもおかしくない。
「……あたし、なに考えてんだろ」
和久が消えた廊下を見詰めながらすみれはもう一度だけ溜息を吐き出した。
そして眉間の皺を倍ほど増やした室井が病院へと急ぎ足でやって来たのは夕暮れが薄闇にさしかかった頃で、すでにすみれと雪乃がもの言わず眠り続けている青島と面会をしてから30分は経とうとしていた。
「青島の様態は」
「――眠ってる。って言うより眠らされてる」
「そうか」
「早く会ってあげたら?その為に仕事ほっぽって来たんでしょ」
少し剣のあるすみれの言葉に疑っと彼女を見詰め、室井は踵をかえして処置室に入っていく。ドアがパタンと閉じられた後、それでもすみれは
「頼んだからね、青島君のこと」
唇を噛んで小さく呟く。それから雪乃と和久を見て
「あたしたちは取りあえず署に戻りましょ。きっと真下君あたりが心配でうろうろしてる」
「でも……」
「いいから。和久さんも一緒にお願いします。一応署長達に説明しないといけないし。今人手が足りないからまた指導員復活したりして」
強気にいつもの彼女に戻ってそう笑った。和久も何かを察してか
「やめろよぉ、すみれさん。せっかくばぁさんとのんびりやってるのに」
「ま、文句言うなら青島君にね」
行こう――二人の背を押してすみれは処置室を後にする。奢るだけじゃすまないからね、お二人さん。心の中で二発ほどパンチを食らわして肌寒くなった外へと力強くヒールの音を響かせた。

機械音が全てを支配する空間。
酸素マスクと人工呼吸器の規則正しいリズム。
そしてたくさんの管。
その中に埋もれて青島はただ静かに眠っていた。
「どういう事だ……青島。お前はどうしてそんなに俺に心配ばかりかける。俺にも出来る事と出来ない事があるんだ」
青白い頬に触れて室井は奥歯をぐっと噛み締める。青島が呼吸をする度機械が上下に振れて無機質な音を出し、それが彼に言い知れぬ不安を更に掻き立てるのだ。どうしてこんな事になる。酒を飲んで笑っていた青島と別れてからまだ一ヶ月と少ししか経っていない。
触れようか触れまいか――そんな胸が焦がれる夜を過ごしてから、僅か一ヶ月。
――俺は現場の刑事っすよ?
お前に何かあれば約束は反故にする……そう言った己に青島の目が語っていた。
「それを証明してどうする」
眉間の皺を見た事も無いほど増やして顔に手をやった室井の肩を、後ろから暖かな手がそっと包む。
「貴方がどうしても会わせたい人だったんですね」
後ろを振り返ると穏やかな顔をした医師がひとつ頷き、青島を見た。
「人は時々信じられない事をするものですね。彼は脳が出血していた、意識など無いのが普通です。でも彼は下で起きていた騒動に割って入り、あまつさえそれを解決しようとしたと聞きました。起きて走り……考えられない事です」
「――彼は刑事です。人が困っているのを見過ごしたり出来ない」
「だから信じようじゃないですか。今の彼はよくて植物人間……そうとしか言えません。けれど人は時として奇跡が起きる。彼ならそれが出来そうな気がする」
医者としてあまり誉められた言葉じゃないですがね。そう言って彼が笑う。
「室井さん――でしたね?人は何かをし残した時、もしくはしなければならない事が残っている時、生きるようになっていると私は考えます。彼はまだしなければならない事があるとご老人が仰っていましたよ?」
「そうです、彼にはしなければならない事がまだある」
青島に目をやり、力強く室井が言い切る。
「死んでいる暇などないんだ」
そうですか。こう答えた医師はしばらく言葉を切った後、真正面から室井を見る。
「ただこれだけは覚えていてください。痛めつけられたのは脳です。どんな障害が残るか想像出来ない。体に障害が残るかもしれない――知能に障害が出るかもしれない。脳を強制的に眠らせ、低体温を続けるのは良くて10日です。たとえ目が醒めたとしても彼が貴方を覚えている保証はどこにもないんです」
「それは……!?」
「貴方だから言うんです」
そう言葉を結んで医師は頭を下げ隣にある詰め所へ戻って行った。それを見詰め、再び室井は青島に視線を戻す。
「大丈夫だな、青島。まだ俺はきりたんぽを食わせていないぞ……あれに執着していたろう?喰いたかったら戻って来い。……俺を……ひとりにするな……青島!」

青島が意識を取り戻したと連絡が室井にあったのは、それから2週間後の事である。それをもたらしたのはすみれであったが、彼女の声は安堵と言うより不安に揺れていた。
「青島君気が付いたってお母様から二日前に連絡来た。あと二ヶ月くらいしたら退院出来るって――家に連れて帰るから、一度顔を出して欲しいって伝えてくれって言ってたの。来れるよね、室井さん。あれから一度しか病院行ってないんでしょ?青島君……会ってあげて」
彼女の口調に室井の携帯を持つ手が白くなる。医者は言っていなかったか?たとえ目が醒めたとしても傷害が残るかも知れないと。
――俺の信じた人だもん
――俺達だけは無駄だと思われる事でもやりましょうね。
「青島」
ひとりで遠くに行くんじゃない。約束はまだ途中だ、何もかもまだこれからなんだ。俺ひとりで険しい道を行けとお前は言うのか。せめて俺のこの馬鹿な気持ちを聞いてから決めてくれ、ひとりで抱かえているには大きくなりすぎたこの想いを。
俺はお前を……。
「くそ!」
彼の持っていた書類が手の中で悲鳴を上げた。

−2000/5/1 UP−




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