君をわすれない          
            ――記憶の欠片――



夜船  様



ACT.5

お邪魔します――そう言って玄関をくぐった青島は、まず自分の記憶が正しかった事に心でひとつ頷いた。
すみれとレストランで別れた後、室井が住んでいる場所を知らない事に気付きうろたえた青島だったが、取りあえず地下鉄に下りてざっと切符売り場で各駅の名前を確認する事から始めてみた。記憶の端っこで行った事があるんだと誰かが自己主張している。その声に促されるまま切符を買い、電車に揺られ、着いた駅から足の向くまま道を歩いた。
――で、目の前にあんたがいた訳だし。
一度か何回かは知らないけど、俺はここに来た事あったんだ。
「青島、座ったらどうだ、ビールくらいなら出せる」
「あ、済みません、気を使わせちゃって」
すぐ失礼しますんでお構いなく。そう言って笑う青島に他人じみた匂いを感じ、室井は眉間の皺をいっそう深めた。会いに行かなかったのは己の所為なのに、気を抜くと彼を責める言葉が溢れてきそうだ。何故忘れた――何故、会いに来た。
「私が飲みたいんだが」
酒でも飲まなきゃやってられるか。心の中で苦々しく彼が呟く。目の前には青島がいる。
しかしそれは彼ではない――己の知っている『青島』ではないのだ。全て自分が悪いと言うのか、自分にはそうする事すら許されなかったというのか。
室井の沈黙に慌てたように青島がへらっと笑った。
「あ、なら俺も頂きます。酒抜いた生活が長かったんで、随分弱くなっちゃったんすけどね。お相手ってほど飲めませんけど、いいですよね参事官」
「――昔からお前はそんなに強いほうではなかったろうが」
『参事官』――そう言われるのが嫌で室井はついそう呟いたのだが、ふっと溜息をついた青島の表情にぐっと唇を噛み締める。
「やっぱり俺のこと知ってるんすね、室井さん」
聞きたくなかった一言。
「もう気が付いてるんですよね、俺がここに来た理由なんて」
「……」
「戻ってきてから誰も彼もが『室井さん、室井さん』。大概俺も限界っすよ――教えてくれませんか?参事官。俺と貴方の関係って何だったんです……何で俺は貴方を忘れちゃったんですか」
無言でビールを注いだコップを置き、室井は青島の目を見据えた。苛立ちと微かな切望を覗かせた色素の薄い瞳。この瞳をどれだけ愛したのか、もう定かでは、ない。
「君のいう事は多分、私が管理官の時の事を言っているのだろう。君の刑事としての姿勢を私は随分かっていた。それに君は私の運転手もよく勤めたから、それが彼らに仲が良いと映ったんだろう」
「それは俺だって覚えてますよ?よく運転手やらされてくさってたし」
「なら、何が聞きたい」
一瞬、青島の瞳が剣呑に光った。
「すみれさんに言われました――あんたが室井さんを忘れる方が非道いんだって。俺は、俺の記憶の中では貴方の事だってきちんと覚えてるんだ。でもそれは違うとみんなが言う。じゃ、何が違うんだって聞くと誰もが口を閉ざす――なら俺はどうすればいいんですか?誰に何を聞けばいいんすか?貴方に聞くしかないでしょう?」
「これ以上何が聞きたいんだ?青島」
「貴方は俺の見舞いに来てくれたってすみれさんが言ってました。所轄の刑事ごときにわざわざって普通思うでしょ?でも違ったんです。俺が意識を戻してから退院するまでに顔を見せなかった貴方が悪いって言う。――そういうことなんです」
下を向いて青島が指を握り締める。そしてテーブルに置いてあったビールを一気に飲み干して、小さく笑った。
「おかしいですか?俺って何なんでしょうね?今の俺は俺じゃないそうです。死ぬほどリハビリやって、必死になって現場戻ったら今度は訳の判らない苛立ちで眠れやしない。誰かの声がいつも響いてきて、夢中で追っても届きゃしない」
もう一杯ください。目の前に付き出されたグラスを手から取り、
「そんな飲み方するな、馬鹿」
聞いた事も無いような優しげな声で、室井はそれを自分の手元に置いた。まだ大丈夫、我慢出来る。青島が何を口走っても自分はとにかく冷静でいなくてはならないのだから。感情に流されればきっと言わなくても良い事まで口走ってしまう。
それはずっと己が抱ていたふたつの恐怖のうちひとつが現実となってしまう事だ。ひとつは『青島がいなくなる日』そして――
「何であんたはそんなに冷静でいられるんすか?理不尽な事を俺は言っているんですよ?俺の苛々のせいは全部あんたが絡んでるって、そう言っているのに……あんたにとって俺はやっぱり取るに足らない人間って事ですか。やっぱりそうなんだ。俺が思っていた事が正解なんだ」
「青島?」
「所詮俺たち所轄はあんたらキャリアにとっては駒なんだ」
「何を言ってる!」
髪の毛をかき回しながら感情の赴くまま喋り続ける青島に、多少の不安を見出した室井が思ったより強い力で彼の腕を取った。
「どうした、今のお前は支離滅裂だぞ。言いたい事があるんならいくらでも聞く。だが私は君たちを駒だなんて思わない――それだけは撤回してくれないか」
「だったら何で――何で顔を出してくれなかった……俺が不安と戦ってる時、あんたは何をしてたんだよ!?みんなが言うようにただの上司じゃ無かったって言うなら、俺の記憶を何で沈めた……」
室井の腕を振り払いおもむろに立ち上がった青島が、長い不眠と不安を続けながら暮らしていた一ヶ月以上の日々を叩きつけるように、室井に噛み付く。
「あんたの事を忘れたのが原因なら――何であんたは俺の前に来てくれなかったんだ!?あんたにとって俺はそれだけの価値しかなかったって事じゃないか……期待なんてしなきゃ良かった、もしかしてあんたなら皆が言う俺に戻るための何かを知ってんじゃないかって……お笑いじゃないのよ」
喉で笑った青島がもういいですと、室井に背を向けて玄関へ歩いて行こうとして、次の瞬間驚愕に目を見開いて足を止める。自分のすぐ脇をビールグラスが掠め、白い壁に激突して砕け散ったのだ。
思わず振り返ると拳を振るわせた室井が、狂気にも似た瞳でただ青島だけを見詰めていた。
今まで見たことも無いような怒りで染まった、姿。
――見たことないような……?
何かが青島の意識に引っかかる。それと同時に早くこの部屋を出て行かねばならない――
焦りと共に彼は自分の体を何とか動かそうと躍起になった。だが足は彼の思惑とは異なり、一歩たりとも動いてはくれない。
「ふざけるな――それがどうした」
ゆらりと室井が青島に近寄る。
「病院へ何故行かなかったと聞いたな?言って欲しいのか、お前が一番聞きたくない言葉じゃなかったのか、青島」
「……室井、さん」
ダン!――青島の右肩のすぐ横に手を叩きつけ、室井はもう片方の手で彼の顎を掴む。それはまるで骨が砕けるかのような力で、小さくうめいて青島は何とかその指を引き剥がそうとした。
「お前が意識をなくしていた間、俺がどんな気持ちでいたか知ってるか?副総監誘拐事件で嫌というほど味わった喪失感を、頭痛がするほどの不安をお前は判っているのか?」
「そんな事……覚えちゃ、いない!!」
「幸せな奴だな。そうやってお前も逃げるのか?俺が医者から言われた時に逃げたようにな」
「逃げた……?」
何から――そう言おうとして顎をぐっと上向かされた青島は、息が繋げなくて夢中で室井の指を掻き毟る。けれど無意識に理不尽な行為に対して、室井の瞳を睨み据える事は忘れなかった。その瞳にいっそ逆撫でされかのか、顎の圧迫が非道くなる。
「ああ、そうだ。お前の意識が戻ったとて何もかも忘れているかも知れないと言われた。核となっている約束も理想も全てお前が忘れていたら、俺はこれから何を目指していけばいい。俺の指し示す道はお前と共にあるから行ける。所詮俺も臆病な人間という事だ」
「ち……ちが……!」
「何が違う。お前は一体俺の何処を見てきた。真面目で理想の為に必死になって上への階段を登るキャリアか?約束の為に努力してお前に信頼される男か?――俺の一面でしかないだろう!そんなものは」
違う、違うんだ!青島は必死で言葉を紡ごうとするが如何にせん、顎を掴まれては発音すら難しい。だから心の中で叫ぶ。
――違う、俺の知ってるあんたはそれだけじゃない!それだけだったら俺はここまであんたと一緒に生きたいなんて思わない……こんなにもあんたを、俺は。
「嬉しいか、青島。お前の理想としたキャリアがこんなに臆病で。人の煩い口なんて無視すればいい。だが、心に入り込んできて住み着いてしまった感情をどう無視すればいい。失いたくないと……失ってしまったら心が死んでしまう。そんな感情を持ってしまった俺を笑うか、青島」
吐息が唇にかかり、青島の瞳が更に見開かれる。
挑むように、狂気のように絡んでくる舌に翻弄されながら、最初に腕を回したのは青島だった。そのまま左手が室井の首筋にまわりきつく抱き込む。絡めた舌と吐息に室井の顎を押さえていた指が離れ、骨も折れよと抱き締めた。
身動き出来ないくらい互いを抱きとめ、尚離れない舌が想いのたけを吐き出す事を切望した。愛しているなんて陳腐な台詞を思い抱くくらい、熱くて切なくて哀しい『想い』。
淫猥な音をたてて唇が離れた時には、ふたりとも過去の会話など何の未練もなかった。映るのは互いの瞳にある、男として生まれた時から本能として横たわっている焔のみ。
だから泣き笑いの表情で青島はもう一度室井の唇へ、自分のそれを重ねた。今度は包むように大切な想いを分かち合うように。もう判ってしまった。知られてしまった。この想いと体に住み着いた手のつけられない欲望を。
ようよう甘い息を吐いて体をそっと離し、互いを見詰め合う。
「――俺はずっと、あんたとこうしたかった」
「俺はお前をこうして抱きたいと思っていた」
それがどんなに道から外れていようとも。獣道だと――畜生道だと笑うなら笑え。その分俺たちは強くなるだろう。生きていく為に、強くなるために選び取った相手はこれ以上存在しない。
「こうして会えば俺はすぐ判ったのに」
「何がだ」
「……あんたのこと」
ふと眉を上げた室井に、青島は失笑する。
「普通あんなされたら殴るでしょう?あんたってホントに朴念仁」
「それは」
ふっと溜息を付いて青島は床に座り込もうとしたが、飛び散ったガラスの破片に気付きもう一度息を吐いた。
これはきっと自分の捨てられなかった『世間体』や『言い訳』なのだ。こんなにもあっけなく壊れてまうくらい薄っぺらなものだったなんて。
「なにやってんだろ、俺たち」
「さあ」
「あんたが病院へ来て、顔を出してくれたらこんなややこしい事にならなかったのに」
「無駄じゃなかったろう?」
苦笑と共に室井が屈んでグラスを拾い上げ始め、慌てて青島もそれを手伝う。
「俺には恐れるものがふたつある。ひとつはお前がいなくなる日、もうひとつは俺の気持ちを知ったお前の侮蔑に満ちた目だった」
「室井さん……」
「だがこれでひとつになった。なら俺はもっと強くなれる――青島、俺は上へいくぞ。もっとだ」
満面の笑みで青島が頷いた。
「ああ……これで俺、眠れるんだ。すみれさんにも真下にも青島なんかじゃないって言われなくても良くなる――室井さん、あんたにも責任半分あるんですからね」
そうしてビニール袋にガラスの破片を詰め終わった後、もう一度抱き合う。
互いに回しあった手を二度とは離さないだろう。こんなにも求めて諦めてそれでも消す事が出来なかった、夢と理想を絡めた強固な赤いロープ。手を伸ばせばこんな近くにあった温もりを、今までどうして諦めようとしていたのだろうか。
「記憶がないってどんなだ」
「……あんたも頭打ったら判ります。もちろん俺はあんたと違って見舞いにはいきますけどね」
「もうそれくらいにしてくれないか」
「精々たかってやりますよ」
にこりと笑った青島だったが、はっと何かに気付いた瞬間一気に床にへたり込んだ。忘れてた、今の今まで。
「何だ」
「すみれさん……室井さんに『この貸しは高くつく』って言ってました」
天井を見上げて大げさに室井が息を吐く。それは彼女ならではの刑事としての勘だろうか。
――違うな。
薄々室井は感付いていた。青島を違う目で見はじめた時から彼の周りにある好意と、切ない瞳と……。
「後悔しないか、青島。お前には選ぶ権利がある」
「それはあんたも一緒でしょ?俺は――間違っていない」
たとえ誰を泣かせてしまっても。心の欲求は成就した時点で、次の段階へともう歩き始めてしまった。この人の為ならどんな事でもしよう、たとえ将来道が別ってしまったとしても、この想いにかえれるものは何もない。
座り込んだ青島を背中から室井が抱きしめる。
なんと遠回りをして手に入れた事だろう。しっかりとした筋肉の弾力が心地良い。子供のような笑顔も信じた事には決して揺らがない強い瞳も。子供と大人が同居するこの男と出会えて良かった。
「感謝する」
「何に?」
首に回した室井の腕に手を添えて、喉で青島が笑う。
「さあ――取り敢えずはお前の怪我と恩田巡査部長に」
「――すみれさんと食べる時は俺も誘ってくださいよ」
「なんだ」
「すみれさんって良い女でしょ?」
今度は室井が笑った。
「ああ、彼女は良い女だ」
「……先に会ったの俺っすからね。あんたにゃあげません」
「そういうものか?」
すみれが聞いていたら激怒しそうな台詞をさんざ吐いて、ようやくふたりは現実に立ちかえる。
「俺、明日また早いすから帰ります。取り敢えず特捜たってるし」
「よく恩田君と食事出来る時間があったな」
「所轄はもういい!――だって」
「新城か」
大きく頷いて青島が頬を膨らませる。またしても弾き出された所轄のメンバーは、結局通達があるまで通常勤務だと冷たく言われたのだ。
「現場仕切ってるのは俺たちなのに」
「くさるな、青島。その為に私が頑張っている」
「――早く俺たちの仕事が出来るようお願いします、室井さん」
大きな伸びをして青島が「帰るか」と立ち上がる。
「じゃ、行きます」
「終電ないぞ」
「そこら辺でタクシー捕まえますから」
「送ってやる」
「いいですよ、そんな」
慌てる彼に、人の悪い笑みを浮かべて室井が玄関に置いてある車の鍵を取った。
「俺には送る権利が発生したぞ、さっき」
「……素直に受け取ります」
先に外へ出ておけ。そう言われた青島がコートの襟をたてて道路の近くまで小走りに歩くと、天上には満月が存在を誇示して光っているのに気付いた。
これからどうなって行くのか、誰も知らない。本人さえ踏み出した足が天空へと登る階段に行き着くのか、崖っ淵に突き進むのか予想すら出来ないこの現実。それでも差し伸べたれた手を互いが気付き、取る事の出来た今を大切にしたいと思う。
「先の事、考えてたら進めない。人生ってそんなもんっしょ?」
月に向かって彼はいっそ鮮やかな微笑を向ける。
先のことはその時々にぶつかっていけばいい。だって俺は大切なものも人も出逢えたし手に入れる事が出来た。
「あとは理想に向かって前進あるのみ。……なんてな」
伸びをした彼は車のヘッドライトに気がつくと大きく手を振って答えた。

月は黙って二人をただ覗く。
様々な人の思惟に翻弄されていく彼らを案じているのか嘲笑しているのかは、それこそ月だけしか知らない事だった。

−2000/5/23 UP−




♪作者様からのコメント♪
長い間ご愛読頂きまして本当に有難う御座いました。
またどこかでお会い出来れば幸せです。
そのときはまた宜しくお願い致します。
            ――夜船――

じゃ、なくて!
「愛してる」と言わないふたりが今回のコンセプト。
一応これで最終話なんですが、お約束通りハッピーエンド(笑)
この先は彼らのみぞ知るところでしょうか←逃げるなっっ
ああ……この先が……怖いっ!


夜船 様へのご感想はこちらまで




 へ戻る


『差しのばされた手』に続くお話です。とうとうやりましたねえ〜!
互いが抱く、気づいてしまった想い―――それは決して望んでならぬこと。叶わないのだと理性で割り切って墓場まで持っていく覚悟が、青島側に起きた部分的な記憶喪失という"欠落間"に煽られて、じわじわと追い詰められてゆく―――
相思相愛だったとしても、相手に「好きだ」という一言を告白するのには、かなり勇気が要ると思います。男女間ですらそうなのだから(って、私だけ?)同性同士となったら、そのへんの葛藤は尚更のもの。ましてや前回、(一生、この想いが悟られないように)と願った二人なら、それは意識下に強く抑圧されていた欲望です。これが溢れて暴走(失礼)するには何かキッカケ、それもかなりの『非日常性』が要求されます。
記憶喪失―――というネタ自体は、それほど珍しいものではないかもしれません。でも、失われたアイデンテティー捜しに絡めて、己の本心へ向き合う羽目になるというお話の流れが素晴らしいですね。こんなにしっくりくるシチュエーションは、そう、ありませんよぉ〜〜〜
そしてこのお話には、沢山の"青島と室井を応援している人"が、出てきます。それが私には、とても嬉しかった!!!
ヨコシマな見方では当然(笑)ですが、これはノーマルに見てもそうなのですね。つまり、『室井と共に理想を目指して行く青島でなければ、青島じゃない』ということを皆が心で感じているのです。だから、真下がすみれに泣きつき、和久が寂しげに呟く。すみれは結局、青島本人に選択を委ねます。そして、二人を心配(?)しているのは、新城も同じ。相変わらず口の悪い弐号機ですが、そこが新城らしくてツボでした(笑)←カケイストの戯言
夜船様、本当に本当に、どうもありがとうございました〜   そして、次はいよいよ、ですよねっ?!