君をわすれない          
            ――記憶の欠片――



夜船  様



ACT.4

嘲笑を孕んだ瞳の中に、ほんの一握り失望が掠めていったのは確かに気のせいかも知れなかった。皮肉に歪んだ唇からこぼれ出たのは、いかにも彼らしい言葉だったのだ。真正面から射るように見詰める尊大さと同じくらい、嘲りの数々。
「所詮お前達はその程度なんだ。いくら口では理想だ、友情だと言いながら何かアクシデントがあればこれだろう。学習能力があるんだったら、もう二度とあんな馬鹿げた事はやめるんだな。――室井さんも馬鹿だ。こんな奴の為に自分の首を締める事ばかりする。いい加減目を覚ませばいいものを」
会議室で合同捜査会議が終った後、青島は新城管理官に怪我の具合を聞かれ、「心配してくれたんすか?」との言葉に軽く笑われて
「足手まといはいらないからな」
と冷たくあしらわれた。その後職場復帰した事を室井は知っているのかと聞かれ、別に言う程の付き合いをしていないと首を竦めて答えた彼に、新城が言った言葉は随分辛辣なものだったように思う。
誰が口を開いても『室井』『室井』。しかしながら青島本人にしてみれば一体何が起こっているのだと、こちらが問いたい気分になる。室井と言われて思い浮かぶのは、まず気難しい顔をした嫌味なほど隙のないキャリア。それから雪乃さんを傷つけ自分だって後少しで死んでしまう所だった。不審な人物を見つけたからと連絡したのに無視された挙句の、今も残る傷跡。
――あれ、でも何で俺、室井さんの携帯知ってたんだろう。あの時確か室井さんになにか突っかかったような気がする。それに腰の傷跡。あれも確か室井さんが絡んでいた?
「青島君――ひとりで考えたいなら先に言ってね。あたし先に帰るから」
「あ……!ご、ごめん、すみれさん」
静かなピアノと照明を落としたフロアーに輝くキャンドル。予約制の洒落たホテルのラウンジはどこを見渡してもカップルばかりで、すみれは随分気を良くしてワインを美味しそうに飲んでいたのだ。
「さっきから難しい顔して。まるで室井さんみたい」
「……また室井さん?」
うんざりしたように青島が呟く。
「いったいみんなしてなんなの。寄ると触ると『室井さん』。おかしくなっちゃいそうだよ、俺。なんだかなぁ」
苛ついた時の癖で髪をくしゃりとかき回す彼に、すみれは自分のグラスにワインを並々と注いだ。副総監誘拐事件のとき意識朦朧となった青島が、デートしようねと言ったのが随分昔の事に思える。確かに気を揉ませるのは無意識に上手いらしい。これじゃ、一体何人の女が泣かされたか知れたもんじゃない。思わせぶりな事ばかりして気を許すと大変な事になっちゃう。
「仕方ないんじゃない?だって青島君もうおかしくなってる」
「非道い、すみれさん」
「非道くない。青島君が室井さん忘れちゃう方が非道いの、判ってる?」
なにそれ。少し頬を膨らませて青島はすみれを睨む。まるで小学生並の怒り方につい笑いそうになった彼女は腹で取りあえず我慢した。本当なら楽しい食事にしたかったのだが、あの真下が鬱陶しくてしょうがない。自分で言えないなら黙っていればいいのにすぐこっちに泣きついてくるのだ。大の大人が、しかもキャリアな奴が。このままいいムードになって室井を煽ってやろうとも考えたが――それはとても気持ちの良い誘惑であった――和久の一言ですぐ却下してしまった。
――すみれさんよ。俺はな、あの青島が好きだったんだ。室井さんと一緒に夢中になって夢追いかけてる奴がよ。今のあいつは青島じゃねぇ……一番大事なもんが欠けてる。思い出せねぇそれに誰より焦っているのは奴なんじゃねぇかなって俺は思ってるんだ。
――すみれさんが気に入ってる青島はどれだ。命張れる『戦友』か?それとも今の『男』かい?……なんてな。
確かに。
へなちょこは真下だけで充分。
「あのね、青島君。なんで室井さんを忘れちゃったのかあたしは知らない。あたし達の事はきちんと覚えてるから」
「うん。最初に目を覚ました時のすみれさんの笑顔、俺覚えてるし」
ここでめげちゃ駄目だ、前へ進まない。すみれはぐいっとワインを煽った。
「知らないだろうから言ってあげるね、青島君。青島君が病院へ運ばれた夕方、室井さんが来た。よほど急いで来たんでしょうね、あのビッシリしてる人が髪、少し乱してた。あんな悲痛な顔見たの、副総監の時以来」
まあ、あの事件から顔見た事ないけど。首を竦めて笑うすみれに青島が訝しげな顔をする。
「なんで俺の見舞いに来るの?あの人キャリアの、しかも出世街道驀進中じゃない。所轄のいち刑事の見舞いに来る人じゃないと思うんだけどね」
「――キャリアだって人との出会いで変わる。所轄の刑事だってそう。室井さんは変わった。青島君だって変わった。……まるで入り込めないくらい」
まるで挑むようなすみれの目付きに、新城のそれと酷似している事に青島はふと気付いた。
何があったと言うんだろう――室井との間に。この焦燥感のもとが無くしてしまったという室井との何かに関係しているのだとは薄々感付いてはいるものの、いっかな記憶が鮮明になってはくれない。
気が強いが本当は繊細で女性らしい細やかな心配りの出来るすみれを、彼は暖かい感情と共にとても気に入っている。こうして食事をしていても肩も凝らないし、何より会話が楽しい。食事の誘いをふたつ返事でもらった時には結構「やったね」と思ったのだ。何か奢って――そう言う割には一度も二人で食事をした事などないのが現実で、和久などには随分ひやかされもした。
なのに。
今自分の心を占めているのは『室井』の事ばかりだ。すみれが気持ちをそちらに流れるように仕向けているのも拍車をかけている。誘いに乗ったのもこういう話をしたかったのかとおぼろげながら感じた青島は、降参と手を上げて真面目に話を聞くと彼女に意思表示した。もしかしたらこれは転機なのかも知れない。もやもやした気分と忘れ物をした苛立ちと。眠れない夜もすでに両の手では足らなくなって久しい。
優しい腕と力強い眼差しとをもつ誰か。
胸が潰れるほど足掻いてそれでも捨てきれなかった想い。
こんなにも誰かを思えるのだろうかといっそ自分ながら恥ずかしくなってしまうくらいの、恋情。だがその相手が誰なのか判らない。
これは致命的だった。生半可な繋がりではなかったような気がする。一度はすみれかと思ってみたりもした。彼女に感じる柔らかな空気と気心の知れた気安さが、八割方彼女ではないかと確信までいったとき、あの夢を見たのだ。
髪を撫でる指の感触と耳元で囁いた『青島……戻って来い』と言う声。いつそれを聞いたのか記憶にない。けれどあの声はすみれではなかった。無論雪乃でもない。それでいて耳に心地良い声とその誰かの為にここまで戻ってきたのだとは判っている。その人をもう悲しませたくない、独りには二度とさせないと決めて死の淵から舞い戻ってきたのだ。
「……なに考えてるの?」
酒のせいか少し上気した頬ですみれが睨んで見せる。しかしその目は微かな微笑に縁取られていた。
「新城さんに言われた事思い出してたんだ。あの人――室井さんが可哀想だって言ったんだよね。俺なんかの為に自分の首締めてるって」
「あの人らしい」
「新城さん?」
「違うわよ、室井さん。まだ頑張ってんだ、上で」
「なにを?」
「それは青島君が自分で考える事。あたしに聞かないで。――でも、ひとつだけ教えてあげる。青島君が室井さんを思い出さないのは、意識が戻ってから一度も会ってないからなんだと思う。青島君の中で像があっても室井さんへのいろんな出来事が思い出せないのは、だからでしょう?……違うか。出来事は思い出しても、その時々の感情が欠如してるんだっけ。あの人って結構臆病だったのね、今度会ったらからかってやろっと」
決めた?勝気な瞳が青島へ行動を促す。
「ありがとう、すみれさん」
ガタリと席を立ち、青島が――昔のような笑顔で頭をさげた。
「今夜は奢ってあげる。だから室井さんに伝えて?この借りは大きいわよって」
任せて。そう言って早足でドアへと行きかけた青島が、ふと足を止めて彼女の方へと戻ってくる。なにと見たすみれの耳に顔を近づけ、
「すみれさんってやっぱいい女だよね」
そう悪戯っ子のような瞳で囁いて、青島は今度こそ振り返らずに深夜の街へと姿を消した。
「――和久さんの言葉に納得しなきゃ、良かったなぁ。逃がした魚は大きいってね」
でも『戦友』という言葉が気に入ってしまったのだから仕方ない。今回は室井に花を持たせてあげよう。
「それにしても二号機、あんな事言ったんだ。ふう〜ん、明日が楽しみ。どのツラさげて言ったんだか。あ……雪乃さん、全然理解してないよね、なんてフォローしようかな」
ま、いっか。姿の見えなくなった戦友に、頑張れとすみれはワイングラスを掲げて見せた。

すっかり遅くなってしまった。
部屋へと戻る道で彼は苦々しく眉を顰める。それと言うのも招かざる客がいきなりやってきて、言いたい放題暴言を吐いた挙句さっさと用件は済んだとばかりに帰っていったからだ。最後の留めとばかり、
「所詮貴方のする事は無駄ばかりだ」
と薄く笑みを吐くと言うおまけつきで。
足を止めて空を見上げる。この場所に来てからというもの星をあまり見ていない事に気付き、溜息をついた。空気が汚れている事もあるが、そんな余裕など在りはしなかったと言うところが正解か。学生の頃は芝生で寝転んだりして満天の星を友人と眺めたものだ。なのに今はどうだ。ぎすぎすとした生活と人間関係――それを10年以上をやってる。
たったひとつの安らぎにも似た関係は、もうすぐ何の意味もなく断ち切れてしまうだろう。
――貴方はご存知でしたか。
知らなかったさ、間抜けな事に。
――彼はすっかり変わってしまった。貴方の事はキャリアとしか見ていない。
あれから会わず仕舞だったから。
――所詮そんなものですか、貴方とあいつの関係というものは。
俺が悪いのか、新城。
どうして病院へ行けなかったかなんて自分が一番良く知っている。それを他人に言ってどうなるんだ……言葉に出せば陳腐な言い訳で終ってしまうではないか。
「青島君に会ってあげて」
そう恩田刑事に言われた時、応とは言えなかった自分の心。
「何を今更」
もう一度溜息をついた時、官舎にうろうろと動く影を見つけてふと足を止めた。闇夜に浮かぶモスグリーンのコート――口に咥えた煙草の明かり。
「……あお、しま」
足が止まる。いったいこれはなんだろう。何故ここにあいつが居る……俺の事はただのキャリアとしか思っていないのではないか?
今日、実は真下から電話があった。青島が忘れているのだと、約束も理想も何もかも何処かに置いてきたのだと。
――それで良いんですか?すみれさんもあんなの青島君じゃないって嘆いています。これを修復するのはふたりでしか出来ないって。先輩を帰してください、お願いします。
何を望む。何をすれば言いというのだ、この俺に。すっかり疲弊してしまった感情にそんなものはすぐ風に吹かれて塵と化してしまう。青島が刑事に戻ってくるまで約束を少しでも果たそうと躍起になっていたと思うとお笑いだ。その間に彼は自分の事をすっかり忘れてしまっていたのだから。
――すみれさんに、取られていいんですか。
取られる?それこそお笑いでしかない。俺たちはそんな間柄ではなかった。この俺が、自分だけが抱かえていた感情なのだ。
この状況をどうすればいいか。顔を上げぐっと目をつむった彼にどうやら青島の方が気付いてしまったらしい。
「室井参事官ですか?」
少し遠慮がちな懐かしい声で、青島は室井へと背中を丸めたいつもの姿で小走りに近寄って来た。懐かしい笑顔のはずが営業用スマイルになっているのを見逃す室井ではない。
「青島君か」
眉を顰めたまま「何だ」と冷たく言う。
「夜分に済みません。ご迷惑なのは判っていましたけど、どうしても聞きたい事があって」
「今夜でないと駄目なのか。私も疲れているんだが」
「……すぐ、済みます。手間は取らせません」
申し訳なさそうに笑う青島の瞳が逃がさないと強く光る。この強い光に惹かれたのはいつだったろうか。軟弱な外見と違ってその目が存在を強く印象付けるのだ、それだけの奴じゃないと。子供の明け透けな心と、己が心情としている事には決して引かない男としての
頑固さとを併せ持つ『青島俊作』という名の、存在。
どれほど欲しているかお前には判らないだろう、青島。
「すぐ済むと約束できるか」
「はい」
安心したように――挑むように青島はゆっくり笑った。
「では部屋へ来い」
ふたりしか鳴らない『運命』と言う名の糸車が大きくカラリと音を立てる。
奇しくも空には禍禍しく染まった朱い満月が、雲間から彼らを除き見していた。

−2000/5/15 UP−




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