差しのばされた手



夜船  様



ACT.1 

(畜生、俺ってばジャンケン弱いの知っててやるんだからなぁ)
本庁の玄関先でがしがしと歩きながら、青島俊作は唇を尖らせる。
新城管理官が湾岸署にある過去のデータを見たいから、わざわざ「届けろ」とお達しがあったのは、長閑な昼下がりの事。
刑事課にいた面々はこぞってそれをたらい回しにした挙句、恩田すみれの「ジャンケンにすれば?」という有り難い申し出に柏木雪乃が頷いたところで、青島以外の誰もがほっと溜息をついたのはしごく当然の事ではあった。
果てしなくじゃんけんに弱い奴がいる。
一斉に「そうしよう!」と大合唱になり、現在に至るのである。
「何で俺ばっかな訳?」
俺だって新城さん苦手なのに。
(それに怪我が治ってまだ一ヶ月しか経ってないんだよ?もう少し温かい目で見守れないかなぁ。特捜立ってないのに何で新城さんの顔見なきゃなんないのよ)
今日の湾岸署はこれで良いのかと言うほど平和だったのに。昼も食べて一服して、書類を見ながらうつらうつらしながら過ごせる、本当に貴重な時間だったのに。
「せめて室井さんがいる時だったら良かったのにな」
言ってしまってから後悔する。
生真面目な性格を現している容姿が、くっきりと思い浮かぶ。職場に復帰してから一度しか会っていない。参事官に返り咲いたから、警察庁にいる室井とは顔を合わす機会などなかったし、プライベートで会うほど親密でもない。理想と夢が二人を繋ぎとめている、あやふやで確固たる絆。
あの頃は特捜が立てば会えた。
気難しそうな眉間の皺と、口数の少ない引き締めた唇。いつも向かい風に立ち向かうかのような張り詰めた背中や姿勢の良い歩き方が、自分が結構気に入っているのを自覚したのは、随分昔の事になる。
そして、ひとつの感情に気付いたのはもう少し後。
「止め止め」
早く署に帰って惰眠を貪ろう――伸びをして歩き始めた青島の足が、ふいにそこで止まる。
玄関先に横付けされた黒塗りの高級車から降り立った人物を見て、思わず声をかけてしまった自分に、少しだけ驚いた。
「室井さん」
相変わらずの眉間の皺が、少しだけ数を減らす。
「青島」
「珍しいですね」
「ああ」
てこてこと近付く青島に目を眇めながら、室井は言葉少なく相鎚を打った。
「君は?」
「新城さんからの頼みで、書類を届けに来たんすよ」
あの人、人使い荒いからやんなっちゃいます。眉を顰めながら、情けなさそうに笑う青島に「ご苦労だな」と僅かに苦笑する。
「帰るのか」
「はい。もう書類渡しましたしね、早く帰んないと課長に怒られます」
「そうか――今度飲みにでも行こう」
「嬉しいっすね」
何の変哲もない青島の返事に、室井が足を止めた。何だか今、あしらわれてしまわなかったか?社交辞令の返礼のような、気軽で薄っぺらな青島の返事だったような気がする。
足を止めた室井に、青島が振り返り「どしたんです?」と笑った。
「疲れるまで働くなぁ――あ、これ和久さんの台詞です」
「私は嘘など言わん」
「は?」
いきなりな言葉に、青島の頭はクエスチョンマークで満杯になってしまった。
「約束を反故にしたのは、ひとつだけだ」
「室井さ〜ん、話見えないっす」
「――飲みに行く話だ」
几帳面に青島のいる所まで引き返し、室井は疑っと彼を見詰める。
「へ?」
「別に社交辞令で言っているんじゃない」
「はあ……」
「君が時間の空いた時に電話してくればいい。携帯の番号は知っているだろう」
「じゃ、ヘリで……」
「それは却下だ」
なぁんだ、やっぱり駄目か。子供のような笑顔で青島は言った。
「じゃ、きりたんぽですか?季節はずしてます」
「君の行きつけの場所で良い」
「警察官僚のお口に合うか、保証しません」
少し意地悪な言い方を、あえて青島は言ってみる。実は食べてみたかったのだ、本気で。
休みの日にヒマをもてあまして付けてみたTVで、きりたんぽがやっていた。美味そうな映像にちょっとだけ室井を恨んでしまった彼は、意趣返しをする機会を狙っていたのである。日頃カップラーメンやコンビニの弁当ばかり食べている所轄の刑事に、目の前にエサをちらつかせて『待て』をずっとさせているキャリアを少しばかり苛めたって、誰も眉は顰めない筈だ。
「君は俺をそういう風にしか見てなかったのか」
「冗談ですってば!俺、明後日非番ですから、明日にでも誘ってください。もしよければ」
室井の言葉が『私』から『俺』になった事に慌てて、青島は笑顔で彼の顔を覗き込む。冷静を絵に描いたような室井が激昂する前触れが、この『俺』発言なのを青島は充分熟知していた。感情が先立つとかなりな意固地になってしまうし、手がつけられないほど頑固な室井は少々扱いづらい。ま、そんなとこも良いんだけど。
――俺って末期?
自嘲気味に下を向いた青島に、何を思ったか室井は小さな溜息を付く。
「君が勤務を終えたら電話しろ。私より予定はたてにくいだろう」
「わっかりました。じゃ、楽しみに待ってます」
敬礼をした青島が「わ、時間!」と慌てて走り出す。
「相変わらず慌しい奴だ」
苦笑しながら、室井も急ぎ足で待たせてある部下の元へ向かう。青島と遭遇した日は一陣の風がいつも室井を吹き上げる――それは心地よい、溜めていた息がすっと肺から抜けていくような穏やかなものだった。
突風であったり嵐であったりする時の方が多いのが現状だが、それでも彼に会うと心がふと暖かくなる。次に向かう力になる。副総監誘拐事件の時にかなり切実に感じた事ではあるが、顔を合わせなくなった現在、痛いほど青島を求めている己に気付き、室井はもう一度こっそりと苦笑した。
認めてしまうには危険すぎ、否定するには苦しくて切ない感情。割り切れない限りは騙しながら生きていく他ない。知られてはいけない――青島だけには己のほの昏い欲を暴かれるわけにはいかないのだ。
「子供じゃないんだ」
「何か?」
部下の応えに「いや」と瞳を厳しくし、室井は玄関へ背筋を伸ばして潜った。

相変わらずの顰め面だったよな。
ボールペンで遊びながら書類を前に、青島は本店で偶然会った室井を思い出していた。
本当に久し振りに見た気がする。公園で会ったのは一ヶ月も前のことになる。昔とは違い、これからもっと室井とは公で会う事が難しくなっていくだろう。
――プライべートで会った事ないのに、なに考えてんの俺。
がしりとペンを握り締めた瞬間、後ろから低い声が聞こえた。
「うるさい。独り言は頭の中で言って」
「あ……ごめん、すみれさん」
ぽりぽり頭を掻きながら青島は椅子ごと後ろを振り返る。同じように書類を前に難しい顔をしていた恩田すみれは、あきれ顔のまま言葉を続ける。
「なってない、青島君。本店でなにかあった?帰って来てからおかしいよ?」
「なんにも。なんにもなさ過ぎてさ」
「いいことじゃない。これで事件がなんにも起きなきゃ、久し振りに早く帰れるし」
魚住係長が奥方の顔でも思い出したのか、にんまり笑った。
「いいなぁ。あたし帰れないし」
「いいじゃない、すみれさん。お仕事しようよ」
「まだ根にもってる!」
「何が?」
「ジャンケン」
別に。くるりと椅子を回して青島は肩を竦める。半分感謝して、半分は恨んでいるのだ。
室井と会えた。でも約束が出来てしまった。これは嬉しいのか憂鬱なのかもう自分では判らなくなっている感情だ。逢いたい、でも会ってしまうといつ自分の抱いている邪な想いに気付かれてしまうかと、神経を張り巡らせてしまう。営業トップの座を総動員して、自然に振舞えるよう幾重にも罠を仕掛け、室井を煙に巻こうとする。自分がどんなに室井を想いその腕を求めているのかを。差し出される手が欲しい――筋張って以外に繊細な動きをするその手が。
「先輩!手がお留守ですよ!早く書いてしまってくださいね」
「うるさいなぁ、真下君」
「煙草ばかりに手をやってないで、ペンを持ってくださいよ」
「小姑」
ぽそりと呟いた青島の言葉に、すみれが小さく笑った。
「愛されるって大変なことなのね」
「止めてくれる?すみれさん。俺浮上出来なくなりそう」
ぱたりと机に突っ伏した青島に、「頑張れ」とさらにすみれは追い討ちをかける。それに輪をかけたのは「警視庁より入電」との、いつものアナウンスだった。
「真下〜、行くぞ」
鞄を手に青島が席を立つ。それに追いつきながら真下は釘を刺すことを忘れない。
「先輩、書類書きが終らなかったら、今日残業です」
「いいよ、別に。明日でなきゃ」
「明日なにかあるんですか?コンパなら誘ってくださいよ。いっつも逃げてるんだから」
階段を下りながら真下がこっそり呟いた。
いつもそう。コンパだ、飲み会だと騒いでる割にはいっかなお誘いがない。女好きだとばかり思っていたのに、どうもここ最近は違うような気が真下はしている。そう、放火殺人未遂から副総監誘拐事件にかけて。
――全部、室井さんが関わってるもんな。
上司と部下。キャリアとノンキャリ。公私な友人。どれにも当てはまらないような気がするのは、あながち間違いじゃない筈だ。警察官僚の父を持つ自分を、あまりなめないで欲しい。
「先輩の影響受けてるの、別に雪乃さんだけじゃないって事」
「真下!遅い」
玄関口で叫ぶ青島に「わかりましたよ」と返事をしながら、和久さんなら何か知っているのだろうか――少しだけそんな風に彼は思った。誘拐事件の時に「指導員」の腕章を外してから現場に戻る事をしなくなった老刑事には、自分に見えないものが見えるんじゃないか。それだけの繋がりを青島と分かち合っている筈だから。
室井さんは自分が憧れているキャリア。では先輩は――?
ぶんと頭を振って真下は階段を一気に駆け下りた。

−2000/4/18 UP−




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