差しのばされた手



夜船  様



ACT.2

好きと愛の形はどう違うのか――まだ俺には判らない。
だけど失ってしまったら生きていけない感情は知っている。
声を聞かせて欲しい。
自分だけを見詰めて欲しい。
その腕で背骨が折れるほど激しく抱かれてみたい。
欲と憧れに塗れたこの想いを人は何と名付けるのだろうか。
30年生きて、それすらも知らない。
気が付かなければ良かった。
でも、知らなかった頃にはもう戻れない。
そう――時折こうして携帯を見詰めてしまう愚かな自分が愛しいとさえ思えてくる程。

「で、青島君、なにを携帯とにらめっこしているの?」
翌日、定刻もあと僅かという時刻になって、すみれは青島の奇怪な行動に細い眉を吊り上げて見せた。
「……電話をしようとする事への罪悪感」
「なによ、好きな人でも出来たわけ?」
「何でそうなるのよ」
どきりとしながらも青島は笑ってみる。忘れていたが、すみれは聡い。流石は女性だとこういう時感心したりするのだ。いつもは異性としてあまり意識していないのに。
「だって電話してみようかどうしようかて迷ってる。約束して相手が忘れてたらって怖いんでしょ?」
「すみれさん、ドラマの見すぎ」
「事実は小説より奇なりってね。ドラマより現実の方がドラマじゃない。で?相手は誰なのよ、さっさと白状なさい」
「嫌です。どうせカモられるんでしょ?」
「こりゃ失敬」
ふざけて軽い敬礼をすると、すみれは中西に呼ばれて「はいはい」と席をたつ。頑張ってねぇと手を振り、青島はまた携帯のメモリを何度か押した。
『室井』
この二行がどうしても押せない。
待っていてくれているんだろうか。いや、忘れるような室井ではない。気になるのはあの時の瞳の色だった。
何かを隠して足掻いている感情の波。それを知るのが本当は怖いのだと、もう自覚している。もしかしたら室井は――。
「何考えてんだろ」
溜息をついた瞬間、携帯が青島の手の中で大きな音をたてた。
「わわっ」
慌てて見ると、そこには『室井』の二文字が綺麗に並んでいる。
――なんで、こうなる?
泣きたい気分で青島は携帯のボタンを押した。
「青島です」
『室井だ。急に済まない』
「いえ――丁度定時です」
『上がれるのか』
「はい」
『では、迎えに行こう。ヘリではないが』
「ははは……期待はなかったっす」
『待ってろ』
プツリと唐突に電話が切れた。あまりにも室井らしい応対に、心なしか青島の心に暖かなものが流れる。もしかして自分が電話をしなかったから、わざわざ掛けてくれたんだろうか。律儀な彼だからか――それとも、もしかして。
「……なわけないか」
「青島さん、なに百面相してるんですか」
初夏らしい若草色のスーツにオフホワイトのショルダーをさげた雪乃が、青島の顔を覗き込むようにして、小首を傾げていた。
「あれ、雪乃さん。今日非番じゃないの?」
「あ、すみれさんと約束してるんです。美味しいもの食べようって。青島さんも一緒にどうですか?」
「いい。奢るほど金持ちじゃないし」
「駄目よ、雪乃さん。青島君はデートだって」
鞄を肩に提げたすみれがしかめっ面で、小気味よく二人の間に割って入る。
「デート!ですか?」
「ち……違うよ、雪乃さん!すみれさんもあてずっぽうで言わないでよ」
「だってさっきの電話」
だから違うって。頭を掻きながら青島は本当に困った顔をして、すみれの肩をがしっと掴んだ。
「お願いだから変な噂たてないでね。コンパのお誘いが来なくなっちゃうから」
「――なに奢ってくれる?」
真っ白になった青島の背中から真下がのほほんとした口調で
「じゃ、僕がお供します」
「帰ろっか、雪乃さん」
「はい」
「そんなぁ」
うなだれた真下を尻目に刑事課の女性二人が部屋を出て行こうとした時、緒方がひょいと顔を覗かせて青島をちょいちょいと呼ぶ。
「なに?」
「……青島さん、外で待ってます。お約束ですか?」
「……」
誰にも気付かれず青島がそっと溜息を吐いた。室井だ。迎えに来ると言っていたが、一体どこから電話してきたんだろう。少なくとも警察庁からではない、時間が短すぎだ。
「お待たせしてしまっては」
「ああ、そだね」
愛想笑いをして、青島はデスクへ取って返すと鞄をひょいと持つ。まだ居残りの同僚へ挨拶をして廊下へ出ると、すみれが腕を組んで待っていた。
「青島君」
「だから、なに?」
「室井さんと約束だったんだ」
「まあ、ね」
「ふ〜ん……あの事件から仲良くなったのね」
剣呑な瞳に気おされつつ、取り合えず笑って頷いてみる。
「今度室井さんにキャリア紹介してって言っといて」
「なによそれ。自分で言いなよ、もう」
「こりゃ失敬」
行くからね――そう言い残し、青島が小走りですみれの前をすり抜ける。それを見送った彼女がふっと溜息をついた。
忘れられないのは、
あの時の室井の瞳。
青島が刺され、緊急で病院へ運んだ時の切羽詰まった、彼らしからぬ激情。
署に帰るのだと言った室井の微かに震えていた、握り締められた拳。
「何なのよ、これって」
「どうしました?すみれさん」
訝しげな雪乃に笑って「何でもないよ、行こ、雪乃さん」そう言いつつすみれはきゅっと前を睨んで見せた。
いつものけ者。いくら心配したって何も判りゃしない。携帯を睨んでいた青島も、署長達に見つかる事も考えずにわざわざ迎えに来た室井も。
(なに二人で世界作ってんのよ)
「サイテー」
小さくすみれは呟いた。

玄関から出ると、少し離れた場所に黒いスーツが見えた。背中を向けて空を見上げている
その姿に、少しだけ青島は切なくなる。張り詰めた背中と、いつものように提げている黒い鞄。きっと眉間には皺が寄っているだろう。あれは室井さんのトレードマークだから。
俺には取ってあげることが出来ない。現場の刑事にはキャリアの苦悩が本当のところ、きちんと理解していないだろうから。それは現場をあまり知らない室井にも言えることだろうけれど。現場がどれほど臍を噛んでいるかだなんて。
だから俺達の約束があるんだろう?室井さん。
だからごめん。俺はあんたに邪な思いを抱いちまってる。ブレーキかけてるんだよ、これでも。だって大人だし、もう十代のガキじゃないんだしさ。夢を共有してるだけでも幸せって、そう思っている。たとえ、この腕があんたをどれほど欲してしようとも。
「室井さん、すんません。遅くなりました」
やや歩調を緩め、いつもの自分に戻る時間を確保した青島が笑顔をつくり、背中を向けている室井に声をかけた。
途端はっと、室井が後ろを振り向く。そして少しだけ目を反らして「いや」と首を振った。
「急がせたみたいだな。済まん」
「なに言ってんですか。室井さんを待たせたなんて知れたら、署長に大目玉くらいます」
「――そうか」
見た目には判らないくらい目を細めて室井が苦笑する。一気に署長以下3人の顔が浮かんだのだろう。
「では、気付かれないうちに退散するか」
「車じゃないんですか?」
「なに言ってる。今日は飲む約束じゃないのか。酒飲んで運転出来るか」
「こりゃ失敬」
すみれを真似た青島に、室井が
「恩田刑事は元気か」
「そりゃあもう。室井さんにキャリアを紹介してくれって伝言預かりました」
「相変わらずだな」
「毎日いちゃもんつけては、奢れって言われてます」
室井より半歩送れて歩きながら、青島は外面を総動員して何気なく笑う。
「そう言えば、彼女になにが食べたいのか聞いておいてくれ」
「なんでですか?」
しまった、険が出なかったろうか。咄嗟に青島は「室井さんも隅に置けないなぁ」と頭を掻いてみせた。
「恩田刑事には借りがある。今度奢る約束が伸びてしまった」
なにかを思い出したのか、室井の目が優しくなる。そんな室井はめったにお目にかかれないのを青島はよく知っていた。だから胸が痛む――嫉妬という名の、とんでもない外道な感情に支配されそうになり、空を慌てて見上げる。
「日が長くなりましたよね。すぐ夏がくるんだなぁ」
空を見上げていたから青島は見抜けなかった、室井の瞳に宿った焔に。
上を向いた拍子に、のぞけった喉元に喰らいつきそうな自分を押さえ込むため、握り締めた拳の強さに。
「ね?」
笑顔で室井を覗き込むように笑った青島の瞳に映ったのは、だからいつもの憮然とした彼の表情だった。
「で、どこで飲むんです?居酒屋ですか?それともバーかなにか?俺、まだ夕飯食ってないんですよね。夕飯くらいは室井さんの行く店がいいです」
「君には口が合わないんじゃないか?」
「あれ〜、覚えてたんですか?人が悪いっすよ。あれは冗談ですってば」
ポケットから煙草を取り出して、情けなさそうに青島が苦笑する。
「夕飯は私の知っている店でいい。それからどうするんだ?」
目の前に地下鉄の入り口が見えてきた。地下鉄に乗る前に、行き先を決めてしまいたいと室井は思っているらしい。多分青島の言う場所に近い店を選ぶつもりなのだろう。
「実はね、ちょっとお願いが」
子供が悪戯を思いつき、こっそりと耳打ちするような瞳で青島は拝むポーズをつくる。
「なんだ」
「俺、一度でいいから、官舎に行ってみたかったんすよね。後で皆に自慢するんです」
「それは私の家に来たいと言う事か」
ぼそりと言った室井に、慌てて彼は大げさに手を振った。
「すんません、俺の我儘でした!」
「――かまわん」
「だからもう言い……え?」
「だからかまわんと言ったんだ」
あれ?駅のホームへ降りながら、室井の横顔を思わず青島は凝視した。絶対駄目だと言われると思ったのに。プライべートが詰まっている部屋に、まさか自分を入れると思っていなかったのが本心だったりする。だから二つ返事で室井が了解するなど、ほんの少しでも有りとは考えてすらいなかった。
「青島、私の部屋の近くでいいか」
「……へ?」
「食事を先にするんだろう」
「そ、そうでした」
先に歩く室井を追いかけながら、彼はふいにその背中に腕を回したい衝動に駆られてしまう。愛しくて切ない気持ちと、相反する情欲の固まった精神。中途半端なシーソーを抱えた自分を室井は何も知らない――知らないから、部屋へと迎え入れたりするのだ。
室井の後ろを歩きながら、ふいに青島は視界がうっすらと霞みそうになった。
――どうしてこんなに想うかなぁ、俺って。何だか青少年してんじゃん。馬鹿みてぇ。
友人と言うには遠すぎて上司と名付けるには近すぎる距離。何もかも曖昧な関係の中で、たったひとつ確かなものが『夢』への階段。あんなに色んな事があって、プライベートが今日初めてなんて、いっそ笑い話にしかならない。
「どうした、青島。私と一緒では足がすすまないか?」
振り返り室井が眉間の皺を濃くして言葉を吐く。
んな訳ないでしょうが。肩を竦めて青島が呟いた。嬉しいに決まっている。だからこそあまりはしゃいじゃったら、胸のうちが読まれてしまうじゃないですか。
「この朴念仁」
「何か言ったか?」
「い〜え!美味しいものご馳走してくださいね。期待してんですから」
「言ってろ」
苦笑じみた声で言ったあと、ホームに滑り込んできた電車へまっすぐに歩いて行く。その後を慌てて追いながら、また青島は小さな溜息を吐いた。
いいんだろうか。あの人の部屋へ押しかけても。
こんな気持ちを抱かえたままプライベートへ足を突っ込んでも。期待の無い時間と無意味な会話。
――それでも好きなんだから、しょうのない奴だね。青島俊作、一世一代の失敗。
「……なんてな」
また肩を竦めて青島は和久の口調を真似て、自分も電車に飛び乗った。
電車の中は退社時間と重なったのか、途中から人の数が酷く多くなる。体を動かす事が困難になり、思わず室井は息を吐いた。
こんな早い時間に帰った事があまり無いためか、寿司詰め電車の中は空気の流れが無いのか、妙に息苦しい。誰かが車を出す事が日常化している為、いつの間にか体が鈍ったようだと室井は思う。それは決して青島の息が自分の首筋にあたるからだとか、密着された体から流れ込む体温だとか――そんなものだからじゃない。そう自分に言い聞かす。女生徒の話し声やOL達の噂話が時々耳から遠くなり、青島の体温を感じ取れるよう心が集中してしまいそうになる。
「混んできましたね」
ドアの手すりに掴まりながら、青島が電車に乗って初めて声を出した。
「凄いっすね。ほら、俺達こんな時間には普通帰らないっすから、すっかり忘れてました。署長に室井さん来たって言って、車出した方が正解だったかな」
「構わん」
「ですか?いつも車じゃないんすか?」
「そんな事はない。駅まで近いからな」
「へぇ〜、キャリアっていつでもお抱え運転手がいると思ってましたけど」
揶揄するような響きに、勢い室井の表情が険しくなる。
「それはいつも君が運転手になるからだろう」
「まぁ……そうすね」
くくく……喉で青島が笑った。そうすると直接背中に響く事になり、彼は瞳を固く閉じた。
――これではただの欲求不満だ。
手を差し伸べ、体を抱きこみ、減らず口をたたくその唇を己のもので塞いで。甘い吐息が漏れるまで蹂躙してしまったら、青島はどんな表情をするだろうか。この、強情で命知らずな想い人は。
「あ、次じゃないですか?降りるの」
青島の言葉に、室井ははっと現実に引き返す。
――何を考えているんだ、俺は。
後悔ばかりが先走りしている。暴走しそうなこの感情を、いつまで理性で押し留める事が己に出来るだろう。いまにも溢れてしまいそうな激情を。
「降りましょ、室井さん。なに食べさせてくれるんすか?俺ハラ減っちゃいました」
子供のように笑う青島に、少しばかり心が痛んだ。
「待ってろ、がっつくなよ」
「ひどいっすね」
酷いのはあんただ、室井さん。あんなに体密着するなんて、ペナルティもんですよ。俺の理性、もうガタガタ。
鼻に掠める室井の整髪料の匂いと、薄着のシャツにかかる体温。青島にとってこれは予想外の出来事だったのだ。体を預けてしまいたい欲求と、今なら寄りかかれると訴える本能。それを蹴飛ばし殴り倒しようやく駅についた時には、くたくたになった心が少し悲鳴を上げ始めていた。

――いつまで持つのだろう、この理性は。いつ気付かれてしまうだろう、邪な心を。知られてはいけない、騙さなければ共に歩けない。失ったら壊れてしまう……世界が。

−2000/4/18 UP−




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