差しのばされた手



夜船  様



ACT.4

広くも無い玄関を上がり、居間として使われているフローリングへと案内された青島は、ソファーセットとパソコン、それに本棚とテレビが置いてある部屋をぐるりと見渡して、官舎だからもっと豪華なのかと思った――そう言って子供のように笑った。
「俺の部屋はワンルームだから、それに比べちゃ、広いですけどね」
「帰って寝るだけの所だ。飾る必要もないだろう」
少し嫌そうに眉を顰めて、座れと室井がソファーを勧める。青島の想像では炬燵が置いてあるのではと思っていたが、どうやらそれは室井が東北の出身だからなのだと気付いて、また小さく苦笑した。
「何だ、笑ってばかりいると追い出すぞ」
「室井さんのお誘いなのに客、追い出すンですか?」
失礼します――そう言ってソファーに腰を下ろす。室井はキッチンへとグラスを取りに席を立ち、その僅かな間に青島は誰かの影を――他人の匂いを部屋から嗅ぎ出そうとし、舌打ちした。
「なにやってんだ、俺。サイテー」
女の影が無い事にほっとする自分に嫌気がさす。ここまで卑下た男に成り果てたのが無性に悔しくて、切ない。ソファーに体を預け、それでも無意識に室井が生活している空気を少しでも感じていたいと目を閉じると、心の中がちくちくと痛み始める。そのうち誰かが――自分ではない誰かが、この部屋で室井と語り笑いあい、そして固く閉ざされた寝室へと移動し……室井の手が誰かの腰を抱き、うなじにその唇を這わせる。それは決して自分では有り得ない。
絶望的な、その確信。
「きしょう……こなきゃ、良かったかな」
盛大に溜息を吐いて目を開けると丁度キッチンからグラスを手にした室井が腋に日本酒の一升瓶が抱えて戻ってきた所だった。
「ここには日本酒しかないぞ、それでいいな」
「ええ、充分です」
思いを断ち切るようににっこり笑った青島が、それを受け取りグラスに注ぐ。
「このグラス、綺麗ですね」
「切子ガラスだ。実家から失敬してきた」
「失敬って……室井さん」
手にすっぽり入る、藍色のグラスに彫られた模様が透明になっている。華奢なつくりの見た目高価そうなグラスに、室井の気持ちを少し勘ぐってしまうのは惚れた弱みというもだろうか。たとえば――大事な客にしか出さないとか。そんな匂いのするグラス。
「俺酔っぱらっているから、あまり高価なグラスは止めてくださいね、室井さん。割れたら弁償出来ないっす」
「遠慮するな、どうせ私は普段使わん」
「へへっ、一応客として扱ってくれるなんて、嬉しいですね」
くしゃりと髪を書き上げ、目の高さまで掲げてくいっと飲み干す。辛口ではあるが、芳醇な口当たりの良い酒に、「美味い」と青島は嬉しそうに室井を見た。
「これ本当に美味い」
「実家から送ってきた酒だ。居酒屋などではあまり飲めないぞ」
だから味わって飲め。そう言いながら室井はもう三度酒を注いでいる。
「美味いから飲みすぎてしまいそうっすね、これ」
「遠慮しないでいいぞ。飲みすぎたら泊めてやる」
――ふいに手を止め、青島が室井を見詰めた。印象的な瞳が何度か揺れ、口が何かを言おうとしてそのまま笑顔に変わる。
「官舎に泊まり!俺絶対自慢してやろっと。特に真下」
「真下……?」
「そうっす!知らなかったんですか?室井さん。真下はねぇ、室井さんの事憧れてんです」
「私にか?」
「そう。悔しがるだろうなぁ、楽しみ。へへ……でも一回もまだコンパ実現させてないのに、真下の憧れの室井さんちに泊めてもらっちゃうなんてそれは可哀想すぎか。俺、帰れますから大丈夫ですよ、室井さん」
いきなり饒舌になった青島に室井の眉が顰められる。彼が不必要に饒舌になる時は得てして何かを悟らせまいとしている事に室井は気付いている。では一体何を己は言ったのか。
――泊めてやるって事か。
どういうことだろうか。確かにベッドはひとつしかないが、邪な感情を持っている自分なら焦りもしようが青島はいたってノーマルな男だ。上司と一緒では困ると言うのなら、ここまで来たいと思わないだろう。付き合いの良い彼の事だから誰かの部屋で一晩明かすのは別段今日が初めてという事もなかろうし。
酒を飲みながら青島を見やると、彼もまた自分を見ている。
「なんだ、妙に神妙だな」
「え?そんな事ないと思いますけど」
「遠慮するなんて、君らしくないぞ」
じゃ、いつもの俺って節操なし?――がっくりと頭を垂れてそう言った青島に苦笑して、室井は「ほら」と酒を継ぎ足す。
そして一升瓶がほとんどカラになる頃には、日付はすでに次の曜日へととうに跨いでいて、酒に強い室井はともかく、ここまで日本酒を飲んだ覚えの無い青島に至っては酔っ払い寸前と化していて、妙にハイテンションになっていた。
「いい気分っすね、室井さん。こんないい酒飲んで、しかも前に室井さんがいて。警察庁にいってから会う機会なんてなくなっちゃったから俺、けっこう寂しかったりするんだよね。室井さんの顰めっ面拝めなくて」
「飲みすぎだぞ、青島」
「だって勧めたの室井さんですよ?俺は好意には素直ですもん。きりたんぽの約束も忘れないでくださいよ」
「判ったって」
軟体動物一歩手前の青島にやはり苦笑し、室井は自分のグラスにまた酒を注ぐ。酔える青島が羨ましいと言えば、どんな顔をするだろうか。自制心が酒ごときでなくなるとは思えないが、それでも念を入れる事に越した事はない。理性が焼き切れてしまえば後は本能に身を売り渡すしかないのだから。服を剥ぎ酔って力の入らない彼を蹂躙するのは、そう難しい事ではないだろう。内に溜めた溶岩のような邪念を彼の体内に吐き出し、それで何が見えるというのだろうか。
――何もありはしない。
侮蔑と憤りと屈辱に塗れた彼を見たいのではない。理想と夢を共感した間柄で満足すべきなのだ。それ以上のものを欲しがって、全てを無くすより今手にしている絆を後生大事にしていたほうが、きっと後悔しないで生きられる。
「……ねぇ、室井さん。俺はね、室井さんに会えて良かったって思ってます。それにこうして仕事以外でも時間を一緒できるなんて、本当に嬉しいっす」
「酔いが醒めても覚えていてくれると嬉しいがな」
「大丈夫です。きっとどんな事があったって俺たちは大丈夫。だって今までだって色んな事があったでしょ?でも大丈夫だった。俺の信じた人だもん――って、前にも言いませんでしたか?」
「ああ」
だから室井さん、そんな顔して俺を見ないでください。気付いてしまいそうになっちゃいます。
あんたの目と俺の目と、同じ色をしている。
――って、俺たちの目が言ってるんです。
「室井さん。この手を離さないで行きましょうね」
火照った青島の手が室井のそれを取る。その力強さに室井はふと青島の瞳を覗き込んだ。その暗い焔を宿した深淵の底にある、ひとつの真実に室井の手が青島の首筋をくいっと掴む。
「お前は前を向いて生きていけ。煩い事は俺が処理してやる。その為に俺は上へと行くんだ。お前が――お前達が少しでも動きやすいようにする為に。それを忘れるな、青島」
「信じていますから。どんなに会えなくても、話せなくても。心は同じ所を目指しているんだって、俺だけはあんたを何があっても信じようと思ってる。あんな思いは二度と御免だ。信じれば乗り越えられた筈なんだ」
判ってしまったから、それを何かに摩り替えて誤魔化して。でも離れたりしてやらない。
互いがこれ以上と思う程必要としていると気付いてしまった事への真実は、決して見過ごす事は出来ない。
なら今日のこの日は未来にどう関わっていくのだろうか。こんな側にいながら想いを隠し、それでも前を向いて気付かなかった振りをして明日の朝を迎えていくのに。
――こんなに欲しがっているのに。
――こんなにもひとりの人間を、焼き尽くすほど。
「室井さん、終電無くなっちまいそうです。泊めてくれるんですよね」
「そう言った筈だ。悪いが私は明日登庁なんでな、朝が早いぞ」
「うへぇ、じゃ、寝ましょうよ」
手をあげて青島が降参した振りをする。それを合図に室井が立ち、寝室に消えるとトレーナーの上下を持って戻って来る。
「背広のままで寝ろとは言わんぞ、これを着ろ」
「あ、有り難いっス」
丁寧にお辞儀をしてそれを頂戴した青島がにやりと笑う。
「言っときますけど、俺の寝相は悪いですよ」
「鼾もだろうが」
「ばれてますね」
言いながら大あくびをして、目を擦る。まるで子供だなと室井に苦笑され、二人してそのままベッドに潜り込んだ。
「ダメだ……沈没」
そう言って、数分も立たないうちに隣で小さな寝息が漏れ始める。寝つきはむちゃ良いですよ――いつかそう言った事が実証された青島の寝入りの早さに、室井が盛大に息を吐く。
大丈夫だ、まだ。
こんな事では負けたくない。肩にかかる肌の暖かさに酔いながら、室井は祈るように目を閉じた。
あの時見せた青島の目の色は何だったのだろう。
まるで己と同じほの暗い焔が宿ってはいなかったろうか。何かを言い出して止めた唇を情念のままに塞いでしまうべきだったのだろうか。
――いつまで
――いつまで保つ事が出来るだろう。
青島の、子供にも似た寝顔を見詰めながら室井はそっと頬に手をやる。日に焼けた健康そうな弾力のある肌にざわりと背筋が震えた。
このまま貪り尽くしてしまいたい。
思うまま蹂躙し、二度とこの手から離れられないようにがんじ搦めにして。誰にも奪われないように肉欲に溺れさせて……。
――出来る訳、ないだろうが。馬鹿な事を考えるな。
そこまで性根が腐ってしまえば、約束自体が粉々に崩れ去ってしまう。これだけは必ず成し遂げなければならない、夢なのだ。
「寝るぞ」
酔いにまかせてしまえばすぐに寝付けるだろう。
意地で目を閉じた室井の寝息が聞こえ始めたのは、それから一時間ほど経ってからだった。

遠くで月が傾く。
明日の朝には普段のように接するふたりを嘲笑うかのように。
人の心には嘘などつけない。
いつかそれのしっぺ返しが来るものなのだと、寝息の交差するふたりにはまだ気付く事も出来なかった。
そう――失えば全てが終ってしまうのだと言う事に。
寄り添う事がいかに大切かと後で後悔しても、時は戻らない。
星々に抱かれて、月が哀れむかのような光を、カーテン越しにうっすら二人を照らし出していた。

−2000/4/26 UP−




♪作者様からのコメント♪
『もしかして……』って互いの想いにちょっと気が付くふたり。
でも結局理性を総動員して気持ちを押さえ込んでいるんですね。
大人で同性のタガが外れるのはいつになる……
このふたりに未来はあるんでしょうか(泣)


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いやん、もう―――切ないですねえ!
お互いに薄々気がついているけど、これからのことを考えたら、交わした約束の大切さを思ったら、感情に任せて行動することは出来ない。それは二人が大人であるということですが、共に『男』だからだと思うんです。
警視副総監誘拐事件の後、もしも二人が一度も顔を合わせなかったなら、それは可能だったかもしれません。いつか想いを風化させてゆき、懐かしい記憶として心の奥にそっとしまっておくことにもなったでしょう。しかし、顔を合わせたら最後、そうはいかないと思うのですね。
とりあえずは、前哨戦。慣れない時間に職場を出たせいで、満員電車の中、身体を寄せ合うことになってしまった二人がとてもリアルです。片想いの相手に公然とくっつけるのは嬉しい反面、自分の気持ちが身体を通して伝わってしまいそうでドキドキしますよね。似たような経験のある私は、このシーンをニヤニヤしながら読ませていただきました(笑)
食事をして、杯を傾けて―――二人の間で交わされる当たり前の会話と、それぞれの思惑の対比が鮮やかです。今日のところは理性が勝ったようですが、次回もそうなる保証はないという感触が確かに伝わってきます。これからを期待したくなるような終わり方ですね♪
夜船様、本当に本当に、どうもありがとうございました〜