差しのばされた手



夜船  様



ACT.3

案内された場所は、十人も入れば一杯になってしまうかというような、こじんまりした居酒屋だった。
暖簾を開けて入った室井に、すでに五十路は越えているかと思われる女将が「いらっしゃい。今日は早いのねぇ」と、お絞りをだす。
「お連れさんがいらっしゃるから、座敷にしますか?」
「お願いします」
軽く頭を下げた室井に青島は少しだけ感心した。そもそもキャリアって言うのは、もっと高そうな場所で食事をするか、所轄が出す弁当だとか――そんな事しか思い浮かべていなかったのが本音である。
「室井さんでも居酒屋に来るんですね」
「“でも”は余計だ」
四人がかろうじて座れる座敷に上がりながら、室井はむっと眉を顰めて見せる。
「私は肩が凝る席は苦手だ。それにここの女将がつくる料理は、一度食べたら忘れられないぞ」
「へぇ……こんな場所知らなかったっすよ、俺」
「どうせ君が行く場所は、女性が好みそうな所だろう」
突き出しを持ってきた女将に「適当に持ってきてくれ」と言いながら、ビールグラスを青島に渡す。
「いいえ、違いますよ。いつもコンビニの弁当か、カップラーメン」
得意げに胸を反らす青島に
「そんな事が自慢になるか」
「室井さんは食わないでしょう?結構美味いんですよ、これが」
「刑事が栄養失調で倒れる事くらい恥ずかしいものはないぞ」
「なら」
青島はぺろりと下を出して、「時々室井さんが一緒に食ってくれたらいいんです」と笑った。
「――」
「あ、別に本気にしなくて良いです。室井さんだって忙しいでしょうから」
慌てて青島が手を振る。
「いや――そう言う手もあったなと思っただけだ」
ほんの少しだけ優しい目つきになって、室井は青島が差し出すビールをコップに受けた。
その表情にとくんと青島の胸が一度だけ揺れる。お返しを受けながら、本当にこの人が大切なんだと今更ながら確認してしまう。あの時……刺されて死んでいたら、こんな顔をするこの人に二度と会えなくなってしまうんだった。
「室井さん、復帰おめでとう御座いました」
グラスを掲げながら青島が頭を下げる。
「なんだ、いきなり」
「だって、俺本当に嬉しかったんです。もう少しで遠回りさせてしまうところだった」
「私がそんな事で上への階段を踏み外すか」
「そうっすね」
強気な室井は好きだ、安心して約束を任せられる。青島は日が射したように笑った。その笑顔こそが室井の感情を掻き回すのを知らずに。
「それに――私の力ではない。あれから一度、副総監にお会いしたんだ」
「副総監に?」
「ああ。副総監は和久刑事の話をされた」
「和久さんの?」
――思いはいつか叶う。
副総監誘拐事件の時、すこし嬉しげに……そして僅かな寂しさを込めて和久は青島に言った。指導員の腕章を返したまま、あれから刑事課に戻ろうとはしない老刑事の顔を、彼は暖かい思いで浮かべる。彼こそが『刑事』そのものだった。
「事件が解決してから一度和久刑事と会ったそうだ。それで君の事を随分自慢していたらしい」
「――俺?」
「ああ。俺は良い後継者を持った、と」
止めてくださいよ――青島は照れ隠しか髪をくしゃりとしながら肩を竦める。
「あの人に誉められたんじゃ、目覚めが悪すぎる」
「こうも言ったそうだ」
俺が刑事を辞めても約束は続くじゃねぇか。俺たちの約束、青島が今度は頑張る。現場で頑張る刑事はまだいるんだ、捨てたもんじゃねぇだろ?
「羨ましいか。とな」
「和久さん……」
「それで副総監は和久刑事に言い返したらしい。お前だけ良い思いはさせてやらないぞと」
「あ……」
ぽんと手を叩き、青島は
「だから室井さん参事官へ戻ったんだ」
「私の存在があるうちは大いに利用したまえ――そう言われた」
苦笑しながら室井は女将に日本酒を注文する。すでに瓶ビールが青島の後ろにずらりと並べられていた。
「室井さんって酒、強いんですね」
「ビールは飲んだ気にならんだろう。君は弱いのか?」
人並みだと思う。だが『人並み』という言葉が室井の前で存在するのかが、どうにも青島は自信が無い。確かに室井は東北生まれと言うだけあって酒には強そうだ。あそこは米が美味いし水も良い、酒も上等なのが良く判る。
――でも、これはないんじゃない?潰れたら俺、恥ずかしいぞ。
それにも増して、酔った勢いで言ってはならない事を言ってしまうことが怖い。手を取り頬に押し当て、想いのたけを告白してしまったら……室井は二度とキャリアでない顔を見せてはくれないだろう。
青島に時折見せる弱気。もしかして自分にだけ見せてくれているのではないか――そんな調子のいい事さえ考えてしまうくらい、様々な表情を室井は見せてくれるようになった。
むろん一等青島が気に入っているのは、誰にもわからないくらいの目じりに現す、優しさと気安さ。
「酔ったら介抱してくれるんすよね、室井さん」
「ああ、お前のアパートまで送ってやる。潰れる前にアパートの住所を教えてくれ」
「駄目っすよ。約束は室井さんの部屋でしょう?」
手を振る青島に、苦笑をしながら「そうだったな」と室井が言う。
大丈夫だろうか。自分の部屋へ連れて行って、この押さえきれない欲情を青島に気付かれてはしまわないだろうか。室井の瞳が追い詰められたように一瞬ひかる。この暴走する感情をまだよく処理出来ていない。
手を掴み背を掻き抱き首筋に顔を埋めてしまいそうだ。この吐き気のする、己自身が気付くことすら出来なかった激情をきっと青島は軽蔑するだろう。
「約束は約束ですからね――あ、でも誰かいるんだったら俺、遠慮しますけど」
「そんな相手がいたら、こんな所でお前と飲んでいないだろう」
何が気に障ったのか判らないまま、青島は「そうっすね」と言葉を濁した。感情が先走りする前兆を見せる室井に何故か瞳を合わせられない。ここから先には行かない方がいい。見てはならないものが存在している――。
「とにかく食って、室井さんのとこへ行きましょうよ。もちろんこんな美味しいもの食ったのは久し振りっすから、腹一杯になるまで立ちませんけど」
悪ガキのようににやりと笑いながら、青島はトドメの台詞を吐く。
「室井さんの奢りなんですよね?腹バクハツするまで食おうっと」
「食いすぎて腹壊すなよ。そこまで俺は面倒見きれないからな」
冷たい。青島は日本酒を一口で飲みながら、もう一度笑った。
「室井さんがせっかく誘ってくれたのに、酔いつぶれちゃうなんてもったいない事、俺には出来ませんよ。腹は大丈夫です。俺、腹壊した事ありません」
「そうじゃない――傷にはもう障らないのか」
お猪口をくいっと空けながら、室井が少し伏せ目で言う。公園で会った時もう大丈夫だと伝えた筈なのに、彼はまだ気にしているらし事を青島は初めて知った。いや、会う事が無ければ――会話が無ければお互いの気持ちを伝える事など出来ないのだと、思い知ったと言うべきか。
「俺はもう大丈夫です、室井さん。大丈夫なんだ」
しっかりと目を見て、だから青島はそう答えた。これ以上あの事件の事で室井を煩わせる事が嫌だったのだ。もう終ったのだから、あの時俺は死ななかったし内臓も神経も血管だって失っていない。あるのは時々引き攣れる、少し肉が盛り上がった傷口だけ。それすらだって服を脱がなきゃ誰も気付かない程度のものなのだ。
「俺は殺されても死にやしませんよ?室井さんとの約束果たすまで」
「約束を反故にされたくなかったらな」
ようやくいつもの室井に戻ったのか、強気な顔付きで青島を見る。
「世話もかけさけてくれなければ、もっと有り難い」
「だって……それじゃ、室井さんとの絆がきれちゃうじゃないか」
ぽそりと呟いた青島の言葉は、室井の胸を突然鷲づかみにした。いまなんと言った……?
青島は何て言ったんだ。
黙りこくった室井に何かを察して「なんてね。一寸はくらってしちゃいました?」と悪戯っ子の顔付きで彼が上目使いに笑う。
「ああ……こんな時間じゃないですか。ね、行きましょうよ室井さんち。楽しみだなぁ」
よっこらしょっと腰を上げる青島が、さり気なく腰を庇うのを室井は疑っと見詰める。気を付けなければ見落としてしまうようなさり気ない動作で、青島は己を隠す事を彼は短くない付き合いで気付いていた。だからそれを見逃さないようにしなくては。彼は隠すのが上手い――どれだけ己が曝け出す事を望んでも。
「だからって引き下がらないぞ、俺は」
もうお帰りですか?女将が言うのに愛想よく相鎚している青島をちらりと見て、室井は革靴を履いて「勘定を」と声をかけた。
外は生ぬるい風が辺りを包んでいる。まるで互いの胸のうちを隠す事の愚かしさをあざ笑うかのように。まさかと思うから気付けないのだ。
――答えは既に出ているはずだろう?――
遠くで月がじわりと笑った。

−2000/4/18 UP−




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