宣戦布告




多分、初めて会ったあの日から、僕は青島先輩という存在に恋をしたんだと思う。

警視庁湾岸署―――通称、空き地署―――にやってきた熱い男、青島俊作巡査部長は、国家公務員採用キャリアと第一方面本部長の父親という二つの肩書きに庇護されて腫れ物扱いの僕をアゴで使った最初の人だった。僕を『さん』付けで呼んだのは着任してから数日間だけ、気がついた時には『先輩』と呼ばされていた。確かに警察に入ったのは青島先輩の方が三年早いんだけど・・・
刑事になったことを子供のように素直に喜んで、嬉々として捜査現場に向かい、所轄の刑事の現実に突き当たる度に怒ったり落ち込んだり呆れたり―――それでも、好奇心に満ちたキラキラした瞳が曇ることはない。
青島先輩の笑った顔は本当に太陽のようだ。浅黒い肌に白い歯が眩しい―――って、どこかの歯磨き粉の宣伝みたいだけど。僕は先輩の無邪気な笑顔が一番気に入っている。大輪の花がパァッと開いたような、本当に素敵な顔をするんだよね・・・時々自分が男であることも忘れて、見惚れてしまうことがあるくらいだ。先輩の笑顔を見ているだけで、元気を貰っている気分になる。
青島先輩は警察官になる前にコンピューター会社の営業を経験していただけあって、大概の人と調子を合せて上手くやっていく。苦手な人や嫌いな相手を前にした時でも、相手に不快感を与えないように振る舞うところなんかは、一般市民の警察に対するイメージをかなり違えるものかもしれない。
でも、それはあくまでも『社交』の部分であって、本当の青島先輩はただのお調子者ではない、心の奥に強い信念を秘めている一途なひとである。
青島先輩が湾岸署に配属されて割とすぐに、和久さんが昔取り調べた男に仕返しされて、爆弾で吹っ飛びそうになったことがあった。健康チェアの下に手榴弾があることを知った人間は皆、我先にと刑事部屋を飛び出したが、先輩は逃げ損なってしまった。あの時、自ら逃げようとしなかったのはすみれさんだけで、青島先輩は逃げたくても和久さんに押さえられて、タイミングを失ったというのがホントのところらしいけど、それでも結局最後まで椅子の上から動けない和久さんに付合ったのだ。まぁ、後半は手榴弾を固定していたワイヤに触れてしまい、事実上其処から離れることが出来なかったんだけれど。
自分で引き留めておきながら「どうして、最初に逃げなかったんだ」と訊いた和久さん(ホント、いい性格してますよ)に青島先輩は「なんか、悪党の思うまんまって、ヤじゃないスか・・・」と返したらしいけど、いかにも先輩らしいと思わせる科白に僕は結構じわっときてしまった。
発想は負けず嫌いな子供のソレと変わらなかったりするんだけど、男っぽいというのか、骨があるというのか―――今まで僕の周りにはあまりいないタイプだったというのも、ポイント高かったのかもしれない。
勝どき署との縄張り争いの時もそうだった。「そんなコト言ってる場合じゃナイでしょー?! 犯人逮捕が先決ッ! 今から捜査に・・・」と喚く先輩と及び腰の僕ら強行犯係一同の目の前であっさり被疑者が捕まっちゃうマヌケさは、所轄の日常が見事に凝縮された出来事の一つに数えられると思う。だけど、その直後に青島先輩が通りの向こう側に向かって「イーッ」とやったことの方が、僕にとってはある意味でショックな出来事だった。
もう、先輩・・・子供じゃないんですから―――でも、カワイイ・・・
おそらく、このへんから僕の嗜好は狂いだしたんだと思う。
それからも青島先輩と共に事件を追い、泣き、笑う日々が続いた訳だけど、その中で僕は先輩への好意を募らせていった。やること為すこと無鉄砲で、スタンドプレイばかりなのに、どうしてだか頼まれると断れなくて、先輩の無茶苦茶なお願いには出来る限り応えてきたつもりである。
そんな僕の前に一人の女性が現れた。雪乃さんである。
雪乃さんは、青島先輩が刑事になって一番初めに手掛けた事件の被害者の娘だった。お父さんが殺されたショックで一時的に口をきけなくなってしまった彼女の心の支えになると約束した先輩は、事件が解決した後も何くれとなく雪乃さんを気にかけ、励ましていた。その雪乃さんが紆余曲折を経て婦人警官になる道を選んだのは、青島先輩やすみれさんが、警察官としてごく当たり前に人を助ける姿を目の当たりにしたことが大きいんだろうけど・・・婦人警官採用試験を目前にした彼女の受験勉強の手伝いをかってでて、僕はカン違いしたのだ―――自分は雪乃さんに恋している、と。
整った顔立ちの、儚げな雪乃さんは、確かに魅力的な女性だと思う。でも、僕が彼女を意識したのは、青島先輩がよく面倒をみていた女性だからだった。僕の献身的な受験指導の甲斐あって、雪乃さんは無事試験にパスし、後に湾岸署交通課で警察官としての第一歩を踏み出すことになった訳だけど、一緒に働くようになって気がついたことがある。考え方や正義感の強いところなど―――雪乃さんにはモロに青島先輩の影響を受けているところがある、ということだった。
『八王子警官殺し事件』の被疑者、安西昭次に撃たれて生死の境を彷徨った僕は、全快して職場に戻ってみたら青島先輩がいなくなっていた事実に、大きなショックを隠す事ができなかった。すぐさま父のコネをフル活用して、先輩の新しい配属先を調べ、警視庁杉並北警察署桜町派出所に電話をかけまくって勤務中の身柄を確保した。今までと変わらぬ先輩・後輩の間柄を半ば強引に確認し、飲みに行く約束を取り付けたところで、僕は漸く生き返った気がしたものだった。
それから暫くの間、僕ら湾岸署刑事課強行犯係の面々は、青島先輩抜きの味気ない日々を送ることになるのだけど―――警察学校を卒業して、当初の希望通りこの空き地署に配属され交通課勤務になった雪乃さんに、先輩の意志が引き継がれているような気がして、僕は奇妙な錯覚を覚えるようになった。そして、僕が彼女に恋していたのは、雪乃さんの中にある『青島先輩』のせいなんじゃないかということに思い当たった。
それでも僕が彼女に纏わりついていたのは、青島先輩に対する雪乃さんの仄かな恋心と自分の切ない恋心を重ね合わせることによって、何か別の道が開けるかもしれないという妙な期待感からに過ぎなかった。その年の暮れに室井さんの計らいで『命知らずのおちゃめな』僕の先輩は湾岸署に戻り、丸二日間署内各課をたらいまわしにされた挙げ句、古巣の刑事課に帰ってきたのだった。
僕は再び先輩と毎日を共有するようになり、大好きな笑顔を見られるようになったんだけど・・・

今、僕は確信している―――青島先輩が室井さんと付き合っていることを。
僕自身は大分前から、普通の人よりちょっと多く青島先輩のことが好きだという自覚があったけれど、室井さんもそうかもしれないと思い当たったら、もうその可能性を無視できなくなってしまった。
青島先輩が室井さんを、室井さんが青島先輩を見る目をみていれば、まず間違いない、と思う。
室井さんが前から青島先輩を特別に思っているのは、湾岸署刑事課の人間なら誰もが知っていた。確かに所轄の一刑事でありながら、キャリアの彼に深く関わったのは先輩だけだろう。捜査一課管理官、警備局課長、警務課主席監察官、刑事部参事官と、室井さんがどのポストにいた時でも先輩は迷惑をかけ、また室井さんの為に奔走もした。良くも悪くも『特別』な存在になるのは、時間の問題だったに違いない。
本来だったらすれ違う筈の青島先輩と室井さんの人生は、袴田刑事課長が、着任早々の勝手がよく解ってない先輩に室井さんの運転手を命じたことから絡みあってしまった。今思えば、全くもって余計なことをしてくれましたよ、課長は。
刑事部屋で、正面玄関で、僕は幾度となく一緒にいる二人を見かけたけれど、モスグリーンの軍放出品のコートを無造作に羽織った先輩と、仕立てのよさそうな黒いコート(通販だって言ってたけど、もしホントなら、カタログの平板な写真の中からあれを選び出した室井さんってやっぱり趣味がいいと思う)のボタンをぴっちりと留めた室井さんの組み合わせは、何から何まで正反対だなぁと思わずにはいられなかった。
正反対な二人だからこそ、対立した時はハンパじゃない。僕も何度か間近で見て、知っている。
一番酷かったのは、昨年秋の『放火殺人未遂事件』の時だった。
些細なミスから始まった事件は思いもかけない方向へと転がり出し、疑惑が疑惑を呼んで、不信感がお互いの間を埋め尽くし、決定的な反発となってしまった。
だけど、反発が激しければ激しいほど、惹かれ合う時も凄まじい。青島先輩と室井さんの場合、それは暮れの『副総監誘拐事件』で実証されたようなものだった。
あの時、僕ら所轄はサイコ殺人女に振り回されて、大騒ぎだった。警察署の、しかも刑事部屋の手前まで被疑者に乗り込まれるなんて、もう、ウチの署らしいっていうか―――前にもヤク中野郎に簡単に占拠されたことを思い出して情けなくなったのは、多分僕だけじゃないだろう。上でコソコソ誘拐事件の捜査をしているのは解っていたけど、僕らはもちろん、いつもだったら首を突っ込みたがる青島先輩もさすがに署内窃盗事件やら何やらで落ち着かず、もうなんでもいいやってカンジだった。例によって上からは情報無しで命令ばかり、毎度のことなので怒りも湧いてこなかったし。
でも、あの三日間で、青島先輩と室井さんは再びお互いを取り戻した。僕が知る限り、あの二人が顔を合わせたのは本店が乗り込んできた初日だけだった筈なのに、やはり心の絆がものを言ったのか、気がついたら以前にも増して強く結ばれた青島先輩と室井さんがいたのだから。
結局『副総監誘拐事件』は信じられないような展開を迎え、青島先輩の負傷と室井さんの降格という、最悪のオマケまでついてしまったんだけれど。

あんなに劇的な事件を共有して、男女の間ならとっくに恋が芽生えていてもおかしくない。

あの事件の後、いったん降格になったものの、室井さんは参事官のポストに返り咲いた。実は室井さんは本店の中でもかなり人気がある。もちろん優秀な人だし、実力主義で人に分け隔て無く接するからだ。東大閥の連中のなかにも『隠れ室井ファン』は多い。かくいう僕もその一人だけど。
室井さんが青島先輩に確保を命じ、上の命令を無視したことを咎められて降格になった話は、速やかに伝わってきた。ほくそ笑んだのは足の引っ張り合いをしているキャリア連中だけで、『室井ファン』のノンキャリ連中や室井さんの元部下だった人達はホゾをかむ思いだっただろう。そのうちの誰かがこの話をマスコミに売ったのだ。
犯人を逮捕し副総監を無事保護したにもかかわらず、指揮を執った人間が降格になったというのはどう考えてもおかしい、ということで取材が殺到したらしい。上は誰がタレコんだか必死に調べたらしいが、とうとう解らずじまいだった。僕は、上から調べが入ることも見越して用意周到に計画を練り、一人だけではなく、誰かが音頭を取って組織的にやったと睨んでいるけれど。
とにかくマスコミを黙らせるには、室井さんを元のポストに戻すしか無かった訳で―――それともう一つ、大きな力が働いた。
事件の被害者である吉田副総監本人が動いたのだ。
あの時被疑者の家の前にいた青島先輩ではなく、本部からの捜査員の到着を待っていたら自分はどうなっていたか分からない、とツルの一声で上の連中を黙らせたらしい。確かに被害者だった副総監にしてみれば、自分を救った現場の刑事に命令を下した現地本部長を降格にすること自体が世迷い事に思えて当然だろう。
参事官に戻った室井さんが現場に来ることは滅多に無い。それに空き地署は空き地署で結構毎日忙しい。僕も青島先輩も毎日聞き込みや張込みや裏付け調査やらでヘトヘトだ。
それでも、ごくたまに室井さんが湾岸署に来ることがある。捜査資料を取りに来ることが殆どだ。昔は「近くまで来た」とよく顔を出していたが、今年に入ってから、そういうことは滅多に無くなった。
そして、室井さんが来た時の、青島先輩の態度が大きく変化したのだ。
前は室井さんの姿を見かけると嬉しそうに「室井さ〜ん」とすり寄って行ってた。たとえが悪いかもしれないけど、犬が御主人様の姿を見つけて、大喜びで飛びついていくような。
もちろん今でも、顔を見ると挨拶して、二言三言、言葉を交わしている。でも、前みたいな馴れ馴れしさが無くなった。視線を熱く絡ませ合っているのに、抑えているのが判る。それに、僕らの前で自分からは室井さんの話をしなくなった。今までは、楽しそうに室井さんのことを話していたのに。
―――これは、アヤシい・・・
僕はピンと来た。
更に先日、それを決定づけるちょっとした事件があった。
随分と陽気のよかったその日、聞き込みから戻ってきた先輩は「あ〜、あっちぃよね、今日」と言いながら、思い切りネクタイを緩めた。たまたま僕は、席についた先輩の後ろを通りしなに、
「先輩、報告書! も〜、早く出してくださいよ。一昨日の障害事件とその前のコンビニ強盗の・・・」
と言いかけたとき、青島先輩の首筋にあるものに気がついてしまった。
なめらかな褐色の肌の上からでも、それとわかる赤い小さな痣。虫刺されというには無理がある大きさと、多分本人は気がついていないであろう、その位置。
僕はその場で、たっぷり30秒は固まっていたと思う。
後ろに立ったまま話の続きを放棄してしまった僕の態度を不審に思った先輩が振り返った。
「・・・真下? どしたの?」
下から上目使いに人を見上げる先輩の顔は、いつ見ても僕の心臓をバクバクさせるのに充分なんだけど、この時ばかりはさすがにその魅力も通じなかったようで。
「先輩」
自分で自分の発した声の低さに驚いたくらいだった。
「ここ、どうしたんです?」
「?」
何を言われているのか、てんで見当のついていない青島先輩は、とても素直な瞳で僕に疑問符を投げかけてくる。
僕はカラーが捲れ上がってむき出しになっている先輩の首筋に自分の指を這わせた。
「―――赤くなってます。痣、みたいだ」
「!!!」
さすがに、それがどういうことか思い当たるフシのあった青島先輩は、慌てて身体を引き襟元を押さえたけど、もう遅かった。その場にいた強行犯係全員―――和久さんと雪乃さんと魚住さん―――と盗犯係一名―――当然、すみれさんである―――の視線が、僕たち二人に釘付けになった。
「先輩、この迹・・・どこで、つけてきたんです」
「迹って、そんなの知るかよ? 俺、何も・・・」
こういう時の先輩って、ホント馬鹿正直なくらい顔や態度に動揺が出ちゃうんだから。
「知らないうちに、つけられてたんですか? こんな―――」
「つけられた・・・って、真下、お前、何バカなこと言ってんだよ? どっかで擦ったんだろ、多分。何でもないってば―――」
自分の席で経費の精算をしていたすみれさんがくるりと椅子を反転させて、すかさず、顔をつ―――と先輩の首筋に近づけた。
「どれ、何なの? 見せてみなさいよ」
「ちょっ、チョット、たんま!!」
青島先輩は必死にYシャツの襟を両手で押さえて、しどろもどろになっている。反対側の席にいた和久さんと雪乃さんは僕らが何を騒いでいるのか今一つ見当がつかなかったらしく、机をまわってこっち側にやって来た。魚住さんもそれに触発されて、席を立って来る。かわいそうに青島先輩は、僕のせいでみんなに取り囲まれるような状態になってしまった。
「もぉ、往生際の悪い―――いいじゃないの、見せたって。減るもんじゃなし」
すみれさんの右手が襟首を隠している青島先輩の右手に伸びて、そのままぐいと捻り上げた。
「ってててて・・・すみれさん、カンベンしてよぉ―――」
予期せぬ暴挙に情けない声を上げた先輩の襟元がはだけて、さっき僕を動揺させた首筋が露わになった。
仮にも、皆、成人男女である。迹を見ればそれがキスマークであることぐらい、容易に見当がつくだろう。荒れ狂った僕の心が追及しようとしているのはどうしてその迹がついたかではなく、誰がその迹を先輩に刻んだかということだった。
追いつめられて真っ赤になった顔で一同を見上げた先輩に、一番最初に声をかけたのは和久さんだった。
「青島よぉ、仕事以外でおめぇが何処で誰と何しようと俺ぁ気にしねぇけどな、程々にしとけ、程々に。何にせよ、疲れる程やるってのは、よくねぇぞ? 物事は程々が一番―――なんてな」
少し高い位置から見下ろしていた魚住さんは
「―――若いって、いいよねぇ」
と意味深な一言を発して、また席に戻った。
雪乃さんはなにがなんだか解らないって顔で僕らを一通り見渡した後、暴力犯係に請われて、賢明にもお茶出しの手伝いに行ってしまった。
そして、改めて先輩の首元を覗き込んだすみれさんが、「フーン」と言うなり青島先輩の肩を軽く叩いて精算伝票作成に戻ったので、僕はちょっとびっくりしてしまった。すみれさんのことだから、もっと追求するかと思っていたのに・・・今や僕は、下方からこっちを睨み付けている潤んだ瞳に、一人で対峙させられることになってしまった。
「・・・なんだよ」
先輩が口を尖らせる。真っ赤に染まったその顔もカワイイと思うあたり、我ながらどうしようもないと思うんだけど。
「真下・・・お前、何ムキになってんの?」
口調は拗ねているけど怒りは感じられず、僕はホッとした。でも『誰が』先輩にその迹をつけたのか、依然として気になる僕は、
「先輩。それ、自然にできたものじゃないですよね? 誰かに故意につけられたんでしょ?」
と詰め寄った。
青島先輩は困ったような表情を浮かべ、僕から目を逸らそうとする。僕は先輩の両肩に手を置いて、逃げられないように視線を絡めた。脅えたような掠れ声が僕の名前を呼ぶ。
「ました・・・よせ、って・・・」
「大体、そういう迹って、普通男性が女性につけるもんじゃないですか? なんで先輩がつけられる側なんです?」
僕は尚もたたみかける。自分でもシツコいと思うけど、どうしても答えが聞きたい。
「別に・・・そんなん、どっちがつけたって・・・」
やっぱり、キスマークなんですね。でも、つけられたってことは、先輩の恋人は男性なんじゃないんですか・・・?
「相手、誰なんです?」
「・・・なんで、俺がお前に、そんなこと言わなきゃなんないんだよ?」
「僕の知ってる人ですか? まさか、室井さん・・・」
青島先輩の瞳に驚異と警戒の色が宿るのを僕が見たのと、後ろからヘッドロックをかけられたのは同時だった。
「あいたたたたたっ・・・・なっ、何するんですかぁ〜!!」
すみれさんだった。そのままずるずると引っ張られて、僕は取調室へと連れ込まれる。
後手にドアを閉めたすみれさんは、もの凄く怖い顔で僕を睨んだ。
「真下くん、気持ちは解るけど、限度ってものがあるでしょう? 今のは、立派なプライヴァシー侵害」
ビシッと言われて、僕はうなだれてしまった。何も言い返せないでいると今度は優しい口調で諭される。
「青島くんのことだから、暫くしたら今問い詰められてたコトなんか、ケロッと忘れちゃうだろうけど・・・マズいよ? さっきのやり方は」
「すみれさん・・・」
この、湾岸署のワイルドキャットは何だかんだで署内の人間関係に精通している。当然、僕の、青島先輩に対する気持ちもお見通しらしい。多分、青島先輩と室井さんの関係をも把握しているに違いないと思うんだけど。
「すみれさんは、知ってるんですか? 青島先輩の恋人」
「さぁー・・・―――知らないわよ」
すみれさんは、顎を軽くしゃくり上げると天井を睨んだ。
「あたしだって、青島くんから直接聞いた訳じゃないし・・・ま、見てりゃ、判るけどね」
僕の顔へと視線を戻したすみれさんに、真正面から見据えられた。
「だけどそんなこと、真下くんには関係ナイでしょ? それとも相手がいたら、青島くんの事、諦める訳?」
僕は力いっぱいブンブンと頭を振った。振りすぎて目が廻ってしまい、焦点が合わない。
「ほら、そんな情けないカオしない―――いっそのこと、頑張ってみれば?」
すみれさんが、(まったく、しょうがないわね)というように微笑んだ。思わず、縋りついてしまう。
「お、応援してくれるんですか?!」
「何、言ってんの。あたしは誰の味方でもないわよ。こういうことは自分で伝えなきゃ、意味無いでしょ?」
それは、おっしゃる通りなんだけど・・・
その時、取調室のドアが勢いよく開いて、魚住さんの顔が飛び込んできた。
「真下君、事件! 大凪町のパチンコ景品交換所で強盗だって。被疑者、逃走したらしい」
刑事部屋の壁上部に取り付けられたスピーカーから、お馴染みの「警視庁から入電中・・・警視庁から入電中・・・」のアナウンスが響いている。僕は咄嗟に、出入口に一番近い席を見たが、先輩の姿は無かった。
「あの・・・青島先輩は?」
「青島君なら、とっくに階段、駆けおりてったよ! ほら、急いで!」
慌てて取調室を出ようとする僕に、すみれさんが悪戯っぽく囁いた。
「大丈夫よ。事件の規模にもよるけど、帰ってきたら―――まず青島くん、さっきの事、忘れてるから」
そして、すみれさんの言った通り青島先輩は事件に夢中になり、僕が危うくはたらきそうになった狼藉については特にお咎めなく終わったのだ。
でも、その日の夜遅く、僕は本店の同期の一人に頼んで、前日の室井さんのスケジュールを確認してもらった。案の定、定時で退庁している―――昨日の青島先輩が海浜公園前のカフェテラスで暴れた男をしょっ引いて来たのは夕方6時半頃、もの凄い速さで取調べを終えると逃げるように刑事部屋から消えたのも事実だ。そこから先のことは解らないけど、やっぱりあの二人はその夜を一緒に過ごしたに違いない。
そう思って、僕は盛大な溜息を吐く。
果たして、青島先輩と室井さんの間に僕が割り込めることなんて、あるんだろうか?
一見異なる人種のようだけど、心の底には共通の理想を持っている、とても強く結びついた運命共同体のようなあの二人を見ていると、僕は羨ましく妬ましい気持ちになる。バリバリのキャリアである室井さんと所轄の脱サラ刑事の青島先輩の組み合わせは、他の人からすればデコボココンビにしか見えないかもしれないけど―――
しょっちゅう先輩に無理難題をいいつけられてる僕の場合とは違って、室井さんが青島先輩の意にそぐわない命令をしたのは、すみれさんの同行監視の時だけだった。通常、室井さんは先輩に対して、上司としてごく当たり前の常識の範疇での指示しか、していない筈なのである。なのに先輩ときたら、その『常識』をも蹴破って勝手に動き回り、室井さんの眉間に皺をスタンプするみたいなことばかりしている。はたから見れば、青島先輩は室井さんの足を引っ張っているお荷物と思われても仕方がないくらいだ。
それでも、建て前や私利私欲が横行する組織の壁に真向こうから体当たりし、苦しんでいる人々の為に努力を惜しまない先輩のやり方は、警察機構の中に埋もれた沢山の良心を掘り起こしてきた。ひたむきで真摯な姿勢に揺り動かされた室井さんが青島先輩をとても大切に思い、必要としているのは僕にもよく解る。室井さんの先輩に対する依存度と僕のそれは殆ど同じだろう。あの爽やかな笑顔だけではなく先輩の存在そのものに力づけられているのも、多分一緒だと思う。
でも悲しいかな、その青島先輩が執着しているのは室井さんであって、僕ではない。
なぜ、先輩は室井さんが好きなんだろう?
刑事になって、最初に手がけた事件の上司だったから?
度々運転手をやらされ、同じ事件に関わることが多かったから?
最初はお堅い官僚だった室井さんが、やがてきわどい橋を渡るようになり、何度も先輩を庇ったから?
挙げ句、馘を覚悟で一緒に単独捜査を敢行し二人揃って査問会にかけられ、理想を共有するようになったから?
多分、理由なんか無いのだろう。
気がついたら僕が、先輩のことを何よりも大切に思うようになっていたように。
青島先輩も、室井さんも―――いつの間にか相手が、かけがえのない存在になっていたのだろう。
同じ物が何一つとして存在しない宇宙にある星の瞬きのように、お互いの存在をただ一つのものと認めて。まるで、あの空に輝いている、この世にたった一つしかない太陽と月のように。
考えてみれば、あの二人を言い表すのにこれほどぴったりの言葉もないと思う。
明るく元気でどんな時でも信念を曲げない青島先輩と、沈着冷静で清廉潔白な室井さん―――
言うまでもなく、先輩が『太陽』で『月』は室井さんだ。自力で光を発することが出来ない月は、他からの光線を受けて初めて輝きを得られる。室井さんの高邁な理想は青島先輩という『太陽』があってこそ、活きてくるのだ。そして『月』があることによって『太陽』は己の光の在処を確認することができる。そう―――室井さんがいるからこそ、青島先輩は自分の信じたものに迷わず突き進んでいく。
本当なら、同じ土俵で対峙することのない『太陽』と『月』がこうやって一緒に存在することが、日本の警察の未来を明るく輝けるものにしていくのかもしれない・・・ってのは、ちょっとオーバーかもしれないけれど。
そう思うと、僕は青島先輩を諦めるべきなのかな、と思う。だって、先輩と室井さんは二人でいてこその、お互いに相応しい一対なのだから―――悔しいけど、それを認めない訳にはいかない。
だけど僕には、今でも、どうしても許せないことがある。
あの『放火殺人未遂事件』の時の、青島先輩に対して室井さんがとった行動だ。
隠さずに言うと、あの被疑者逃走に関する落ち度は僕にあった。今考えても、先輩やすみれさんには僕の尻拭いさせてしまったとしか思えない。それは深く反省している。理不尽な疑惑と謀略がすみれさんを追い詰め、室井さんの為に渋々同行監視を引き受けた青島先輩さえも巻き込んで、一応被疑者は逮捕できたものの、なんとも後味の悪い幕切れとなった。
かろうじて繋がっていた細い信頼の糸をなんとか手繰り寄せようと、必死に食い下がる青島先輩の叫びをばっさりと断ち切った室井さんの態度は、その場にいなかった僕の心をも凍らせるほどに冷たいものに思えた。そして、服務規定違反を犯した所轄の刑事二名には処分が待ち受けていた訳で―――
査問会から戻ってきた先輩は、疲れ切っていた。その時の血走った目と腫れぼったい顔は、今思い出しても僕の胸を締め付ける。過ぎたことをくよくよ考えないようにしている先輩は、翌日にはいつもと変わらぬ明るさで毎度の所轄のルーティンワークをこなし始めたけれど―――同じく査問会から戻った仏頂面のすみれさんがその晩、僕や和久さんを道連れにして「達磨」へとなだれ込み大荒れに荒れたものの、その後はケロッと立ち直ったのに比べると、青島先輩が無理をしているのはバレバレだった。
目の周りに落ち窪んだようなクマを張り付け、瞳の輝きも鈍く、見ている方が辛くなる―――そんな先輩を何とか励まそうと、僕は飲みに誘ったりしたけれど、あの頃の先輩は心ここに在らずというカンジで・・・自分では何の助けにもならないことをイヤというほど思い知らされた。
僕は二度と、先輩のあんな顔を見たくない―――絶対に。
もし、今度、室井さんが先輩を裏切るようなことがあったら―――再び先輩にあんな顔をさせたら。
例え、室井さんであろうとも、僕はゼッタイに許さない。
そんなことをしたら、僕は室井さんから先輩を奪ってみせる。それだけは心に決めている。
どんなに青島先輩が室井さんに縋りついても、力ずくでも・・・奪ってみせる―――

品川署に立っている特別捜査本部に魚住さんと応援に行かされた日、僕は同署の資料室で偶然、室井さんの後ろ姿を見かけた。
「室井さんじゃないですか? お久しぶりです」
僕が声をかけると、いつものように隙のない格好をした室井さんが振り返った。
「君は・・・湾岸署の真下警部か。特捜の応援か?」
「はい、うちの魚住係長代理と。和久さんと青島先輩は外張り中で、港南町三丁目の路上から離れられないもんで」
室井さんが多分一番気になっていることを口にして、反応を見る。もちろん『青島先輩』という名前に力を込めたのは言うまでもない。
「そうか―――湾岸署の皆に、変わりは無いか?」
室井さんは何か物思いに耽るように瞳を眇めたけれど、すぐに管理官時代によく見た冷静な指揮官の顔になった。
「ええ、おかげさまで。室井さん、最近ウチの署に来てくれないから、も〜タイヘンですよ」
「?」
僕のセリフに室井さんが変な顔をした。
「管理官だった頃からウチの署、室井さんのファン、多いんです。交通課の女の子とか・・・」
「あ、ああ・・・」
面食らっている室井さんに、僕は思い切って斬り込む。
「みんな、寂しがっちゃって・・・特に『青島先輩』なんか―――」
室井さんの目が一瞬だけ大きく見開かれたのを僕は見逃さなかった。
「ああ見えても、先輩、結構淋しがりじゃないですか・・・ね?」
僕の言葉の裏側にある想いに気づいてか、室井さんは眉間に皺を刻むまいと、懸命に堪えているような顔をした。ほんの少しだけ怒りを滲ませた口調で、視線と話を逸らされた。
「―――現場は相変わらず、忙しそうだな」
「そうですね。毎日、事件は尽きないですから。支店がどんなに頼っても、相変わらず本店からはなんにも情報が伝わってこないこと、多いですし」
仮にも同じキャリア組の僕が、先輩の室井さんに向かって、こんなこと言うべきじゃないんだろうけど。
「室井さんも立場上、色々なしがらみで大変でしょうけれど、現場には現場の事情がありますしね。青島先輩、相変わらず無茶ばっかりしてますけど、一所懸命なんです」
室井さんの目が再び僕の視線を捕らえた。
「室井さん、約束してくれませんか? 僕ら所轄を―――青島先輩を二度と裏切らないって。僕、この前の査問会の後のような先輩の顔は、二度と見たくないですから」
室井さんが黙って僕を睨み付けた。言われるまでも無い、とその瞳が言っている。でも、それだけじゃ僕は安心して貴方に青島先輩を任せられない。
約束してください、室井さん。青島先輩を悲しませるようなことは絶対にしないって。
何があっても先輩を裏切らないで―――先輩の手を放さないでいてください、お願いですから。
僕たちの視線が空中でぶつかった。ひょっとして、火花が散ったかもしれない。
「先輩にまたあんな顔させたら―――許しませんから。そのこと、忘れないでください」
室井さんの顔から表情が消えた。どこまでも冷たく静かな瞳が僕に向けられている。
「解った。覚えておく―――それでは、失礼する」
室井さんは僕に向かって軽く頭を下げると、資料室から出ていった。
その、ピンと背筋を伸ばした後ろ姿に、黙って宣言する。
今の僕は、まだ貴方の敵ではないだろうけど。
青島先輩を泣かせるようなことをしたら、僕は絶対、貴方を許しませんからね!
室井さん、覚悟していてくださいよ―――!!

(1999/3/27)


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真下くん、再び、暴走してますが……(大爆笑)
3月最終週の夜中にP-STOK〜スカパー!と立て続けにTVを見ていて、ブラウン管のユースケ・サンタマリア氏に触発されるようにして一気に書き上げたシロモノです(笑) いや〜元々書く(打つ?)のは早い方ですが、正味4時間位で仕上がってオドロキ。今までの最短記録かも。「風は未来に吹く」の全面改装(笑)で使用できなかったタイトルをそのまま持ってきました。私が書くと、なぜか真下は暴走ばかり……なんか、ユースケ氏に恨みでもあんのか、自分(爆)