遠雷




室井さんに、見合い話が持ち上がったらしい。

連日のぐずついた天気が列島上空を蔽い尽くし、梅雨の真っ只中に首都圏を抱え込んでから、久しい。じめじめとした湿気とむせるような熱気は、鬱陶しいという一言で片付けるには治まりきらない程の不快感をそこいらに蔓延らせていた。気象予報で告げられる、昨年よりも長期化しそうな梅雨前線の在り方は、人の心を重苦しく塞ぎ込ませ、日々の覇気の何パーセントかを確実に削いでいる。
雨は苦手だ。特に、しとしとと降りそぼる、霖(ながあめ)は。
篠突く夕立ちのような一種の激しさや雨上がりの爽やかさの欠片も無く、微かな音だけをたてて町中をしとどに濡らすだけの憂鬱な降り方は、普段考えないようにしていた事に思いを巡らさせ、目を背けていた気持ちの淵を不用意に覗かせたりするような、嫌な感覚を呼び覚ます。
ただでさえ気の滅入る季節に、私がその話を耳にしたのは、全くの偶然だった。室井さんが一度も会わずに断りを入れてきた見合い相手の一人が、父の恩師の孫娘だったのである。
その日、非番だった私は珍しく実家から夕餉の席へと呼びつけられた。気位は高いが優しい母からの電話は、厳格な父の命を受けてのことに違いはなく、それだけでも私の気を重苦しくさせるのに充分な理由となった。更に、待ち構えていた話題が自分の身辺に関することではなく尊敬する先輩の私事に拘わることと知った時の狼狽は、如何ともしがたいものであった。
食事を終えるなり書斎に呼ばれた私は、父から単刀直入に切り出された。
「賢太郎、少し、訊きたいことがある―――室井君というのは、お前の先輩に当たるのか?」
「ええ。大学は違いますが、国家公務員採用の2年先輩です。それが、何か?」
父の恩師である東大法学部のY名誉教授に、私は直接師事したことは無かった。私の在学中、彼の教授が既にかなり高齢であったことと、専攻とは微妙に異なるゼミを担当されていたからである。ただ、私が社会人となった後に、父からY教授の娘婿が警察庁の現役官僚の一人であることを聞かされてはいた。そして、今現在その人物は本庁の重要なポストに赴いていることも、当然知っていた。
年齢的に早い、ということは無いだろう?―――と、父は私に言った。学問の世界しか知らない老教授にしてみれば、後ろ盾に何の不足も無い筈の自慢の孫娘に会おうともせず断ってきた男の為人(ひととなり)がかなり気になったらしく、その後輩を息子に持つ教え子である父に愚痴ったのだろうというのは容易に察せられたことだった。
自分の父親相手に駆け引きするのは少し気後れしたが、私には私なりの理由と矜持があった。室井さんが置かれている現在の状況―――昨年暮れに現地本部長を務めさせられた事件によって一旦降格されたものの、その直後に起こったちょっとした騒ぎにより短期間で差し戻された人事の一件など、警察の内部事情に関しては肉親といえどもおいそれと語るわけにはいかなかったし(尤も、その辺りに関しては父に話さずとも、Y名誉教授は娘婿からそこそこの情報を得ているであろうが)、何よりも自分の個人的な感情をここで晒すつもりは毛頭無かったからである。それでも、訊ねられるまま、差し障りのない程度に室井慎次という人間の人物像や地位を語り、その見返りにと、あの人が断った見合い話の出所や仲介者といった、より具体的な事柄を引き出した。
見合いを世話したのは、警察上層部の中でもかなりの権力を持つ、某局局長だった。室井さんが青島と拘わって道を外れる(私には今だそうとしか思えないのだ)以前から、彼を秘蔵っ子のように気に留めていた人物だった。そして、室井さんが断った見合いは、この一件だけではないということも知った。
某局長が室井さんに縁談を持ち込んだ理由は、歴然としていた。彼が降格されて後、あまり間を置かずに起きた内部告発はマスコミの煽動を追い風にして、見事その人事を撤回させることに成功している。アンチ室井派からすれば面白くないことこの上ないだろうが、局長のようなシンパは『室井慎次』という人物への支持が決して少なくない事実に気をよくしながらも、ならばこれ以上足許を掬わせない為に後ろ盾を作ってやろうという親心を出したに違いなかった。
私のように好むと好まざるとに拘わらず『東大卒』というブランドがついてまわる立場と違い、室井さんは旧帝大系とはいえ、マイノリティもいいところの東北大出身である。圧倒的な多数派である東大出身者の中には、そのプライド故の閉鎖性を嫌って希に唯我独尊を決め込む向きもあるが、少数派の場合は『学閥』という徒党を組まねば出世への足掛かりを得るのが難しいのが、揺るぎ無い現実である。それにも拘わらず、あの人は東北大の学閥に加わろうとしなかった。
別に同窓の繋がりや派閥を軽んじている訳ではなく、単に馴染まないのだ―――以前、室井さんは私にそう語ったことがあった。尤も、今迄の室井さんの経歴を見れば、そんなものに属さなくとも充分である証明となるだろうが。
『学閥』という、入庁してから一番最初に遭遇する後ろ盾を頼みにしないできた室井さんのやり方は、上の者の機嫌を常に窺い、その意向に絶対の服従を強いられるという、時には人間を辞めたくなるような心情には陥らないですむものの、失態があった場合には遠慮無く切り捨てられる危険性を持ち合わせていた。例の『副総監誘拐事件』が引き起こした降格人事は、そのささやかな前哨戦に過ぎなかったと考えていいだろう。
中間管理職という、上からも下からも突き上げられる立場は、一歩間違えただけであっさり足場を崩され、その地位に付随する中途半端な高さ故に、一旦転げ落ちると又候這い上がるのには時間がかかる。そして、ここへ来て、私達のようなキャリア組はもう一つの方法で後ろ盾を得ることが可能であり、それが実力者の令嬢との『婚姻』だった。
室井さんの華々しい経歴に加えてあの誠実な人柄と端正な容姿なら、余程煩い趣味を持っている女性でない限り、話は簡単に進むだろう。あの人の場合、確か角館の旧家の出で、家柄も何ら遜色無い筈である。
だが、恐らくそうはならないであろうことを私は予見していた。
青島という、湾岸署の一刑事が室井さんの傍らにいる限り、あの人が政略結婚を受け入れる訳が無いことを私は本能的に察知していた。そして、その事実は私の胸中に苦く切ない気持ちを甦らせ、浮かび上がることを許さない重力の墓場のような黒く濁った大海にこの身を沈めようとするのだった。
私との会話から一応の満足を得たらしい父は、比較的短時間で接見を打ち切ってくれたが、自分にしてみれば今抱えている事件捜査の行く末よりも気がかりな案件が降って湧いた分、迷惑な里帰りとなっただけだった。
翌日、特捜本部を設置している担当所轄の一つである湾岸署へ出向くと、その足で厚生中央病院に入院中の被害者へ事情聴取することに予定変更した。もちろん、運転手は青島だ。職権乱用と言われればそれまでだが、こうでもしなければ、あの男と立ち入った話は出来ないのだから仕方がない。以前は露骨に嫌そうな顔を見せていた青島も、最近では諦めたのか結構大人しく命令に従うようになっていた。
署長・副署長・刑事課長の三馬鹿トリオの見送りを尻目に、青島が車を発進させた。湾岸署の側道をまわって最初の角を曲がると、私は運転席に向かって話しかけた。
「どうしている? 最近は」
「―――どうって・・・何が、スか?」
毎回、お定まりの質問に対して、これまた何時もと変わらぬ答えが返ってくる。
「室井さんと、だ。会っているんだろう?」
いい加減、認めたらよさそうなものだが、青島も結構しぶとい。私としてはそろそろ最初の応酬は省きたいと思っているものの、こうして一々トボけてみせるこの男とのやりとりは、彼なりの心理的な予防線であることが解るだけに、仮に諭したところで詮無いことであると半ば諦めてはいた。
「はぁ・・・また、『室井さん』っすか―――僕だって、そんなにしょっちゅう連絡貰ってる訳じゃ無いですから」
そんなおざなりな受答えが私相手に通用すると思っているのか、青島。一昨日、センチェリーハイアットに室井さんが宿泊したことも、そのロビーでお前の姿が目撃された事実も、公安部では既に掴んでいるんだぞ―――
私は深く息を吸い込むと、努めてさりげなく言葉を吐き出した。
「室井さんの見合い話のことは、聞いているんだろう?」
「・・・」
暫くの沈黙があった。青島は少し前屈み気味に前方を見つめたまま、運転を続けている。バックミラーの中では長めの前髪が揺れるばかりで、その奥にある表情を窺うことは叶わない。
「―――イエ、聞いてませんけど・・・?」
少々の驚きを滲ませただけの、それ以外の感情は微塵も悟らせない声で返されて、今度は私の方が慌てた。
室井さん、そんな大事なことをこいつに話していないのか、貴方は?!
い、いや、それとも私に対して、故意に知らないふりをしているのかもしれぬ・・・
固まってしまった私を青島がミラー越しに覗き込んできた。その表情に動揺した様子は少しも見受けられない。
「あっでも、室井さんなら、年齢的にもそろそろお見合いの一つや二つ、あってもおかしくないっすよね」
明るく話す声から何の感情も汲み取らせようとさせぬ、完全なる防御が私の心を尚一層不快にした。
「そういう新城さんは、お見合いしないんスか?」
悪戯っぽく瞬いた瞳がこちらに向けられた。簡単に話を逸らされてなるものかと、強引にたたみかける。
「私の事はどうでもいい。大体、室井さんをさしおいて結婚する気なぞ無いしな」
「・・・はぁ・・・」
何か、自分でも凄い事を口走ったような気がしたが、そのまま続けた。
「まあ、上司が部下の見合いを世話するのは、我々キャリアの場合、そんなに珍しいことではない。某局長の口利きだそうだ」
「そうなんスか?」
ごく素直に訊き返された。
「ああ」
「でも、どっかの局長が話を持ってくるっていうことは、室井さん、大分、評価されてるってことっすよね?」
青島はまるで自分とは何も関係の無い人物の噂話をしているように、淡々と続けた。
目の前の男が何を考えているのか、全く理解出来ない私は、自分の手札を少々晒すことにした。
「確かに、それもある―――だが」
言葉を切った私をミラーの中の不思議そうな視線が追いかけてくる。
「?」
「室井さんの場合、暮れの事件で降格になったものの、また参事官へと復帰しただろう?」
青島が黙ったまま頷いた。こちらの様子を窺いつつ運転を続けている頭の天辺を何とはなしに見ながら、私は自分の考えていることを慎重に語りはじめた。
「あの人は東北大の『学閥』に所属していない。次にまた、ああいう事があったとして、今回のように都合よく復帰出来るとは限らない。局長が持ってきた縁談は、恐らく室井さんに後ろ盾を得させる為のものだろう」
「後ろ盾・・・っすか・・・」
「ああ。大蔵省官房長官の二女に、第七方面本部長の一人娘、それからSグループ会長の縁戚にあたる娘―――どの女性を選ぶにせよ、結婚すれば配偶者のバックボーンが、室井さんを助けることになる」
「あ、ナルホド・・・」
青島は納得したように合いの手を入れた。まあ、これは一般論として通用する話だから、私もこいつの反応を特に気にはしていない。しかし次に自分が告げようとしている言葉を聞いたら、彼がどのような態度を取るかに非常な興味をそそられる反面、そこから導き出される真実を目の当たりにしたくないと願う気持ちが心の中に確かにあって、それがどういう類の感情なのか、今の私には説明がつけられないでいた。
だが、ここまで話しておいて肝心なことを伏せておくのは卑怯な気がしたというのは、やはり単なる自己弁護に過ぎないのかもしれぬ。
「然るに、他にも縁談が持ち込まれていたのかもしれんが・・・」
一応、言い訳のような枕詞を持ち出し、覚悟を決めた。
「―――室井さんは、その三件、全部を断ったんだ。それも、その中の誰にも一度も会わずに、な」
「え?!」
青島の表情が一瞬だけ揺らめいたが、それは、すぐさま大きな驚きのリアクションに取って変わられた。
「って・・・何で?」
何で、だと?! その理由はお前が一番良く知っているんじゃ、ないのか?
問い詰める訳にもいかず、私はきつく唇を噛んだ。肚の奥底からふつふつと湧き上がってくる怒りにも似た感情をそれでも懸命に抑えて、吐き出した声はゾッとするほど低かった。
「理由など、私が知るか―――知りたければ、本人に直接、訊けばいいだろう」
私の前では絶対に口を割らないものの、青島が室井さんとただならぬ関係であることはもはや疑う必要の無い事実だ。そして、あの真面目で誠実な室井さんが、二股を掛けられるような(果たして、こういう場合も『二股』と言うのかどうか、定かではないが)いいかげんな人間でないことくらい、私にも良く判っていることである。
しかし―――何故、私は青島相手に、こんな話をしているのだろうか・・・
確かに昨夜、父から聞かされた室井さんの見合い話が自分の心を揺さぶったのは、事実である。
実家から官舎へと戻る道すがら、私がずっと室井さんのことを考える羽目になったのも、これ以上の条件は滅多に無いとまでいえるほどの縁談を三件とも断ったという、普通では考えられない結末に戸惑い、呆れたからだった。そして、あの人が結婚を考える気になれないその原因を私は唯一つしか思いつけなかった。
それが、青島の存在だった。
公安は未だしも、密偵が暗躍するようになった少し前から、あの二人の関係が変化したのだろうと、私は密かに当たりをつけている。まあ、警備公安警察の手口を知り尽くしている室井さんが警戒を怠る筈は無いだろうし、青島は青島で結構気をつけているようである。大学の一年後輩にあたる男が現在警備企画課にいるので時々それとなく探りを入れているが、月に何回か外で顔を合わせている(飲んだ帰りに自宅へ泊めるくらいは、独身ならまあ、有り得る話だ)という事実以上のものは、拾えていないらしい。尤も身内相手であるから、それ以上のプライヴァシーに土足で踏み込めるほど、奴等も鬼畜ではないということだろう。
大体、人を好きになるのに、理由は無い。
全てを共有したいと思いたくなるような深い関係まで辿り着けるかどうかは別にして、その人物の持つ才能や容姿、性質などに大きく魅力を感じ、惹き付けられるのは、何も異性の間に限った事ではあるまい。
相手を大切に思い、愛しいと感じる。その人の為に何かをしたいと気だけが焦り、空回りする自分の日常ですら幸せに感じられる。この感情が深まりそれを『愛』と呼ばわることに、私自身も異議申し立てをする気はない。ただ、そういう気持ちが何ゆえその相手に対して発生するのか、理論的な説明がつけられないことを除いては。
無言のまま後部座席でふんぞり返っている私の様子を探るような視線に捉えられる。
「・・・それにしても、なんで新城さんが、そこまで詳しく知ってるんスか?」
不審そうな声で質問を受け、漸く我に返った。元々何かを画策するつもりで話し出した訳ではないので、私は持ち札全てを実にあっさりと青島の前に投げ出した。
「第七方面本部長の奥方の尊父が父の恩師だった関係でな、私の耳にも入ってきた」
「そうっすか・・・」
何か考えを巡らすように呟いた後、一呼吸置いて発せられた次の科白に、私は思わず絶句した。
「しっかし・・・勿体無いコトすんなー、室井さんも」
どこまでも、『ただの親しい友人同士』というスタンスを崩さない、こいつのしたたかさと頑固さに改めて頭が下がる。
「ああ―――確かに、勿体無い・・・な」
他に答えようがないので、私も相槌をうち、それきり、目的地に到着するまで会話は無くなった。今や時間は完全に凍り付き、空間は水を打ったような静けさに支配されている。
きっちりと正面を向いて、運転に全神経を集中させているかのような、青島の後ろ姿を私は何とはなしに眺めた。先程の一連のやり取りからしても、青島が室井さんの見合い話を全く知らなかったのは、どうやら本当らしい。
こんな話を延々と続けて、私は一体、青島から如何なる反応を得たかったのだろうか。室井さんが見合い話を断ったことは、恋人同士の間でとっくに了解済のことと決め付け、あの人にあれ程の縁談を切り捨てさせたという満足感を抱えているに違いない彼の姿をこの目で確認して納得したいとでも思っていたのだろうか。尤もそういう下衆な根性が自分の中にはっきりと存在していること自体、己の俗物ぶりを証明するだけなのであろうが。
しかし、そんなこちらの思惑は見事に外れて、互いに不愉快極まる感情のしこりを呑み込んだまま、私も青島もそれぞれの領域で殻に閉じこもることになってしまった。
もしも室井さんが見合い話の一つを受け入れてその結果を青島に隠しているのなら、仮に私がその事実を知っていたとしても、わざわざ自分の口からそれを告げるような真似はしないだろう。それはあくまでも室井さんと青島の問題であり、私の知った事ではないからだ。
だが、室井さんは見合いを全て断っているのに、それを青島が知らされていないという事実が何を意味するのか、私には解らなかった。それなのに全身を駆け巡る胸騒ぎに抗えず、青島の態度や表情から尤もらしいことを読み取りたくて、この話題を最後まで引っ張った自分の激情が如何なるものに支配されているのか、それを知るのはとても怖い気がした。
今や私は、自分で自分の気持ちの在処が掴めず、戸惑いの中に全身を委ねるしかなくなっている。
また青島も―――遂行中の職務(といっても、ただ車を運転しているだけに過ぎないが)に全神経を傾けているかのように振る舞っているものの、その胸中が穏やかならざるものであろうことは、私にも容易に想像がつくことだった。何しろ自分が仕向けた訳ではないのに、恋人が逆玉の輿ともいえる縁談を軒並み袖にした挙句、それについての報告は一切無いのである。表面は取り繕っていても、内心は冷静でいられる程、鈍感な奴ではないだろう。
それにしても、青島という男は、つくづく不思議な存在だと思う。
一見、自分勝手に行動しているようでいて、意外に繊細な神経の持ち主だということは、ここ数週間、この男を観察していて、私が認識を改めた部分だった。手掛けた事件についても、被害者には勿論のこと場合によっては被疑者に対してもかなり心を砕いて接している。
しかし、警察内部の規則に従い上司の命じた事以外には手を出さないという、ごく簡単なことが、どうも出来ないらしい。目の前の小さなゴミを拾おうとしたが為にバランスを失って、せっかく集めた産廃物の山をまた突き崩してしまうことの馬鹿馬鹿しさに目を向けようとしないのが、私にしてみれば不思議であり、とても、民間企業での勤務経験があるとは思えぬとさえ感じる。
だが、それが青島の青島たる所以であり、組織捜査に於いては問題点となりうることが、この男と何度も仕事をするにつれて徐々に判ってきたことだった。
人に分け隔て無く接し、親身になって励ましてくれる警官というのは、庶民から見れば、限りなく理想に近い公僕像だろう。けれども、世界中でも抜群の検挙率を誇る日本の警察がその高数値を維持するには、ある程度の優先順位を決めて事件にあたっていかねばならず、みんながみんな、青島のように動ける訳ではない。
ましてや捜査一課ともなれば減点方で己の働きが評価され、その点数がモロに出世に響くのである。大体、斯様な査定を設けなければ、出世への野心や競争心を煽ることが難しくなり、各捜査員の志気にも大いに影響が出るのは否めない。己の信念ともいえる『正義』に従って行動する捜査員よりも、目の前にぶら下げられた人参欲しさに手柄を立てようとするコマの方が断然多く、また扱い易いのは当たり前のことである。
元々、私にとって『青島』という名前は、『室井さん』という、自分の好敵手と目しつつも殆どその存在に心酔している優秀な先輩を思い起こさせるキーワードに過ぎなかった筈だった。しかし、彼が暮れに負傷して以来、私の中にとある喪失感が生じ、日に日にその質量を増していったことは否定できない。
退院してから本庁へ挨拶に来た時、義理にせよ、向けられた笑顔の眩しさが自分には不適切に思えて視線を逸らした私を青島はどう思っただろうか? 共に捜査に当たる度、辛く当たってきたのだから、今更気にしたところで何か変わる訳でもないだろうが。
顔を見れば勝手に室井さんを連想して、棘のある言葉を投げつけるだけの私の存在を若干引き攣った笑顔で耐えていた青島の態度が最近少し軟化してきているように思うのは、自分の物腰が以前に比べて大分友好的になったことを反映しているのだと思う。相手の感情を鏡のように受け止めて返してくるのが、彼の本質なのだろう―――それでも、今まで私が発したマイナス感情には、一応上司だからと思ったにせよ、よくぞ我慢していたものである。
先入観があったとはいえ、強烈な反目は、時として忘れることの出来ない印象をその心に刻み込む。
職場を同じくしているだけの人間関係に於いて、職務遂行に関し自分に対する利害でしか彼を見ていなかったのは当然のことであり、それ以上踏み込んだ関係など、考えたこともなかった。だが、室井さんが彼に惹かれていくのを目の当たりにし、それ故憎悪の対象だった筈のこの男が、昨年末の事件の最中に脇腹を刺されたことを無線で知らされて、自分でも言いようのない不安と怒りに翻弄されたのだ。そして私が、青島俊作という人物の内面に注意喚起させられるのは、時間の問題だったに相違ない。
あれほど燗に障ると思っていたにも拘わらず―――いや、それだからこそか―――いったん気持ちが反転すると、並々ならぬ興味もとい好奇心が疼き出す。それが、あの二人の私的な『関係』だけにとどまらず、青島本人にまで及ぶのは、単に室井さんと比較して青島に関する情報が少ないからだと、己を納得させたのは今年の初めだったろうか。
尤もらしい理屈を盾に湾岸署から報告を上げさせ、青島のあらゆる周辺情報をとり急ぎ掻き集め、そこから分析して得た私なりの見解は、どう考えても私が彼らの間に入り込む機会は今後巡ってきそうに無いだろうという確信だった。天と地ほども立場の違うあの二人が最初は対立し、反目し合いながらも強く惹かれてゆき固い信頼で結ばれる様は、一種の信仰にも似た敬虔な気持ちさえ、私に思い起こさせたのである。
相手を気遣い、思いやり、何があっても信じていく―――そこまでの関係を築き上げた室井さんと青島なら、立場的なものからくる目先のすれ違いに惑わされるようなことは、もう、ないだろう。
周りがどんなにその絆を引き裂こうと画策しようとも、多くを黙って耐え忍び、時には密かに想いを確かめ合いながら、いつか共に手にする『理想』を目指して行くだろう。
例え、どんなに大きな障壁が目の前に立ち塞がろうとも、悪意のある妨害を受けようとも、己の身体を楯にしながら、青島は室井さんを―――室井さんは青島を護ろうとするだろう。
そう―――あの二人はもう二度と、繋いだ手を離しはしないだろう。
昨年、秋に起きた事件の折、自ら遂行した策略によって一度は決裂寸前にまで追い込んだ筈の絆が、もはや確固たるものになってしまったのは、私にとって運命の逆転に他ならない。そして、それが判っているだけに、自分の中にはやり場の無い、ただ不穏なだけの燻りが残る。
軽いエンジンの唸り音やハンドルを切る軋音だけが、静かな車内の温度を下げていく。貝のように押し黙った運転手は、もはやバックミラー越しに後部座席の方を窺うことすらしない。だが、それは青島が私を拒絶しているのではなく、この、凍てついてしまった瞬間をどう暖めたらいいのか戸惑っているに過ぎないことを辺りに蔓延しているやや気まずい沈黙が如実に物語っていた。
全て視界に入ってくるものから逃れようと、私はそっと目を瞑った。しかし却ってそれは、二つの顔をやけにはっきりと脳裏に浮かび上がらせる結果となっただけだった。
今ここにいる男と遠く別の庁舎で指揮を執っている男との間で交わされているありとあらゆる感情を思うと、全身の血液が逆流し、全ての毛穴から焦りと絶望が吹き出すような感触に見舞われる。そして、その度に自分が抑えられなくなるほどの焦燥を感じるのは、何ゆえなのか理解に苦しんでいるくらいだ。
冷静に考えれば、私が室井さんの信頼を勝ち取り青島の良き上司となることは、まず有り得ないのだ。私は常に青島の暴走を諌める立場でしか、彼と接することはできない。過去に同じ状況を経験した筈の室井さんと正反対の評価を青島に対して下さざるを得ないのは、私の職務遂行に対する考え方の中で息づく矜持が、この型破りな男の為に捻じ曲げられるのを決して許しはしないからである。それが国家警察という巨大な組織を管理していく立場の、ゆくゆくは官僚として上に立つ者の心得なのだ。
だからこそ、本庁と所轄という歴然とした階級差を飛び越えて、『理想』を共有し合う室井さんと青島の関係が、私にはひどく羨ましく、妬ましいのかもしれぬ。私にとって室井さんと青島との関係が、この世でたった一つの宝物を手に入れた者同士のような眩しさを伴う次元のものとして映るのは、多分にそういう理由が含まれるらしい。
その輝かしい夢と理想の中にこの身を置いてみたいと、室井さんと青島の間にあるものを私も手にしてみたいと、ふと思うことがあり、気がつくと、どうしたら彼らの信頼と尊敬を得ることが出来るか考えている自分に呆れるばかりである。
あの二人の間に割り込むことなど、もはや不可能に近い気がしているにも拘わらず、もしも、その可能性がこの私に、ほんの僅かなりとも残されているのなら―――
強く望んで努力を重ねていけば、思いは何でも叶うと信じていたあの頃。
この世には諦めてはならないものと諦めねばならないものと、二種類ある事を初めて気付かされて、苦々しい気持ちを経験したのは何時のことだっただろうか。
おそらく、私は―――自分が思っているよりも、欲深く、業が深いのかもしれぬ。
自分が欲しいと思ったものは、弛まぬ努力によって、全て、勝ち取ってきたのである。だからといって、手に入れられぬものがこの世に存在することをどうしても認めたくない―――ただそれだけ故に悔しさを感じるほど、子供じみた人間ではないつもりだ。
いかに渇望しようとも、決して己の掌中に納められない種類のものが世の中には確かに存在することも、理屈ではきちんと理解している。
それでも―――手に入れたいと望むのは、やはりただの我侭なのだろうか?

重苦しく沈んだ車内の空気に身体中の全細胞を占領される中、目隠しされて迷宮内を手探りで動き回っているかのような思考の内側を抉るように、突如、音がした。
澱んで動く気配の無かった車中の大気がうねり、酸素が呼吸し始める。窓ガラスに激しい勢いで、雨粒がぶつかり出したのだ。
パワーウィンドウの外側を大きな滴がつたい、流れるように後方へと飛び散っていく。車の天井にも、土砂をぶちまけたような激しい轟きがこだましている。
夕立だった。
音の無かった車内に、突如として不規則なリズムからなる連続打音がなだれ込み、充満した。
「・・・ちぇっ」
走行中の我々を蔽う幾種類もの『音』にかき消されて本来なら聞こえない筈の舌打ちが、私の耳に届いたような気がしたのは、ただの思い込みだろうか。両手でしっかりとハンドルを握っている後ろ姿が、それでも伸びをしたように見えたのは、やはり目の錯覚だろうか。
「やっぱ、降ってきちゃいましたねぇ・・・こりゃあ、暫く、止みませんよ?」
その一言が冷え切ったこの空間にじわじわと溶け出して、少しだけ車内の温度を上昇させる。
「ああ―――蒸してきたな」
弛めるつもりは無いが、襟元に手をやった私の姿をミラー越しに素早く認めた青島の左手がハンドルから離れて、エア・コンディショナーボタンの列へと伸びた。私は、バックミラーの中で、首を横に振った。
「いや、いい。もうじき、着くだろう」
「はぁ・・・」
それから数分後、厚生中央病院の敷地内へ車を滑り込ませた青島は、視線を忙しなく泳がせた。
ここへは捜査絡みで今までも何度か訪れたことがあり、いつも正面玄関脇に車をつけてもらっていた。しかし突然の夕立に、誰もが庇のある玄関先に車を乗り入れようとし、その結果、スロープの辺りは乗客待ちのタクシーやら送り迎えの自家用車やらで大変な状態となっていて、とても近寄れたものではなかった。
とはいえ、雨はその降り方を弱める気配を全く感じさせない。この中を歩けば、例え数メートルでも濡れ鼠になるのは、目に見えている。
混乱の極みを行き過ぎて150メートルくらい先に駐車スペースを見出した青島はそこで車を停め、運転席から飛び出すと、車体の後方にまわり込んだ。
「おい? 青島ッ?!」
突然のことにワンテンポ遅れて発せられた私の呼びかけは、ただ虚しく自分の耳に返ってきただけだったが、すぐにカチャリと音がして、後部座席のドアが外から開けられ―――そこには、傘を手にした青島が立っていた。
「コレ1本しか、無いんで・・・」
慌ててトランクから引っ張り出してきたのだろう、長身を屈めるようにしてあまり大きくない傘をこちらにさしかけている。
まだ座ったまま、私は青島を見上げた。
傘の骨をつたって、雨水が途切れることなくコンクリートの上に打ちつけられている。頭部だけ傘の中に入れているような青島の左肩が外にはみ出して、既に沢山の飛沫を受け上着の布地に染みを拡げつつあった。
腰を浮かせ車を降りると、丁度青島の胸元に飛び込んだようなかたちになった。私に傘の柄を押し付け、身体を引こうとした腕を捕えて、自分の方へと引き寄せた。
「―――君も玄関口まで、来い」
「・・・は?」
呆然と返されて、私の中に小さな苛立ちが生まれる。
1本しか、無いんだろう? なら、君も傘と一緒に来るしか、ないだろうが」
青島が無言で傘を持つ手を右から左へ移して、歩きはじめる気配を漂わせた。
まるで滝のようなシールドを突っ切るようにして玄関へと向かった。どちらともなく歩調を合わせ、足元だけを凝視するようにして進む。路面は洗い流されてぬめぬめと輝き、その上を洪水の如き水量が流れていく。
一歩進む度に建物との距離が詰まっているのは確かなことなのに、叩き付ける飛沫に遮られて、それでも玄関口がぼやけて見える。それとは対照的に、隣で傘の柄を握る青島の、大きな浅黒い手がはっきりとした輪郭を伴って目に入ってくる。
触れそうなほどに間近にある身体から発せられる体温を何故か心地よく感じるのは、跳ね返る水気が湿気を上回り僅かな冷気を漂わせている所為に違いないと、自分に言い聞かせた。
別に黙ったままでいるのが気詰まりだった訳ではないのに、言葉が勝手に零れ出る。
「室井さんにも、こうしたことがあるのか・・・?」
自分の声が掠れているのにも驚いたが、何故こんなことを訊いたのか、一体、己の思考回路がどうなってしまったのか、私にはもうお手上げだった。
青島がきょとんとして、視線を寄越した。
「は・・・? あ、傘のコトっすか? そりゃ、あったんじゃないスかね? まー、雨、降ってりゃ、これくらい、しますって」
一つの傘に入って歩くという、ただそれだけの行為が、私の気持ちの中にある『何か』を変化させる。だが、それが何なのか、私には解らないままだ。
正面玄関の手前あと数十メートルというところで、頭上が一瞬明るく輝いた。厚く垂れ込めた灰色の雲間に細かなひび割れを浮き上がらせて瞬くような煌きが走る。
青島が首を竦めたのと殆ど同時に、遥か彼方の上空から炸裂音が降ってきた。
遠雷だ。
「やっぱ、判ってても、音、聞こえると、チョット焦りますね」
言い訳するような科白に、私の理性が突き崩される。気がつくと青島の腕を掴んで、転がり込むように庇の下へ飛び込んでいた。傘を閉じるのも忘れたまま、青島が驚いたような瞳を私に向けた。視線を合わせないようにして、素っ気無く言い放つ。
「それを閉じたまえ―――周りに、迷惑だ」
「あ・・・ハイ」
元々大きくない傘だった上に、私の身体を濡らさないように配慮した所為だろう―――青島の身体の右半分は見事に雨水を吸っていた。
「屋内に入っていた方がいい」
「いえ、外にいますから・・・こんな、ずぶ濡れの状態で、中、入ったら、病院側も迷惑でしょーし」
「構うものか。濡れてるといっても、右側の方だけだ。ここのロビーは割と広いから、隅の方にいれば、邪魔にならんだろう」
青島が不思議そうな顔をした。まるで私の頭がおかしくなったのではないか、とでも言いたげな表情に、今まで自分がしてきた仕打ちに対するしっぺ返しを喰らったような気がして、喉の奥が小さくヒクつく。
「君が私に気を遣ったせいで風邪でもひかれたのでは、寝覚めが悪くなる」
まだ、何か言いたそうな眼差しと対峙するのが息苦しくて、私は青島の腕を強引に取ると、自動ドアに向かった。
無理矢理青島の身体を待合ロビーの中ほどまで引っ張ってきてから、漸く手を離してやる。
「その上着、脱いでいた方がいい。そのままだと、本当に風邪、引くぞ」
「はぁ・・・」
私が心配していることに余程納得がいかないのか、青島は躊躇うような表情を見せたものの、それでも素直に上着を脱いだ。少し困惑している様子で私を見下ろしている顔をわざとねめつけるように見据える。
「病室へは私一人で行ってくる。君はここで待っていたまえ。身体、冷やすなよ」
青島の返事を待たず、私は被疑者のいる病室へと向かった。
歩く度にリノリウムの床が立てる音が耳障りで、それから逃れるべく視線を窓の外へと泳がせる。
灰色の雲は、墨汁を溢したように万遍なく拡がり、雲海を走る稲妻の数は増える一方である。二重になっているガラス窓越しにも雷が放つ振動が音として伝わってきて、その度に、私の身体の芯が反応し、ごく僅かに痙攣する。
降りしきる雨は一段と激しさをましている。青島を強引にロビーに引き擦り込んだのは正解だったなと思いつつ、帰りの車中を思うと、この天候にも負けず劣らずの鬱屈したものとなりそうな気がして、足取りが重くなった。
それでも、時間は万人の上を平等に流れていき、必要な質疑応答を繰り返した後、私は被疑者の病室から引き上げた。
相変わらずの、虫唾が走るようなキュッという音を立てる床を蹴りつつ受付まで戻ると、青島が立ち上がって私の姿を認めた。いつもなら、事情聴取の中身をしつこく訊きたがるこの男が、黙って傘を片手に私の隣を歩き、ただ離れた場所に停めてある車を目指して進む。
幾重にも落下する瀑布の中を突き抜けるようにして、私達の乗った車が発進した。
外では鳴り止む気配の無い遠雷が、光と轟音による寸劇を繰り返し演じている。
この雷のように荒れ狂う心を抱えて、私はシートに深く沈み込み、ゆっくりと目を閉じる。
湾岸署まで残り20分強―――とてつもなく長く感じられるであろう時間が、今、始まろうとしていた。

(1999/9/5)


ご意見・ご感想はこちらまで



 へ戻る



苦悩する新城さんシリーズ(←にするなって)第二弾です。もう、キャリアは理屈っぽくて…(苦笑)
ウチの新城さんは、室井さんも青島くんも手に入れたがっています。新城さんて、小さいときから挫折の少ない人生を送ってきたような気がするんですね。だから、二人が羨ましくなったら、両方の立場(室井さんの信頼も欲しいし青島くんの尊敬も勝ち取りたい、みたいな)が欲しくなるような、我侭さを持っているような気がします。
多分、一人っ子だと思うんですよ、新城さん。頭のいい子供で、親や周りからは期待されてすくすくと育ってきて、また本人が優秀なので、やったらやっただけの結果を手にしてきているんじゃないでしょうか。
この話ではそんな新城さんが、今まで"室井さん"に付随して意識していた青島くんを初めて『個人』として捉えるようになった心境の変化を書いたつもりなんですが…………「あえなく撃沈」って、こういうことを言うのですね……(しくしく→号泣)