湾岸署の極めて平和な一日




昨日―――
風邪気味だった青島くんは定時少し前に湾岸署を後にして、報告会に出席する為に本庁へと向かった。
モスグリーンのコートを肩にかけたまま小走りに玄関に向かう後ろ姿を見送りながら、
「青島先輩、大丈夫ですかねぇ、風邪」
真下くんが誰にともなく発した呟きを耳にしたあたしは、報告書を書く手をちょっと休めた。
「そーねぇ・・・熱は無いみたいだったけど、声、ヒドかったねー」
ほぼ入れ違いに刑事部屋に戻ってきた雪乃さんが、心配そうな声で言う。
「そういえばこの冬の風邪って、喉からやられるって言ってましたよね。青島さん、復帰したばかりなのに―――酷くならないといいですけど・・・」
「インフルエンザだったら、さすがの青島君も辛いかもしれないねぇ」
魚住さんも、神妙な面持ちで眉を顰める。
後ろから、和久さんが腰をさすりながら話に加わった。
「やっぱりよぉ、俺が行ってやった方が良かったかもなぁ・・・」
あたしはにっこり笑って、和久さんを安心させるように言った。
「大丈夫ですよ。青島くんのことだから、テキトーにやってくるでしょ」
「そぉだな・・・あいつ、結構要領、いいしな」
みんな、なんとなく納得してそれぞれの仕事に戻っていった。

その夜、熱を出した青島くんを家まで送ろうと車を走らせた室井さんは、豊洲駅交差点付近で交通事故渋滞に巻き込まれてしまった。青島くんの家まで辿りつく為には大回りしなければならないことから、風邪の悪化を心配した室井さんは自分の住む官舎に青島くんを連れ帰り、一晩看病する羽目になった―――というのは、翌朝、あたしが聞いた話。

午前8時半。
いつもと変わらぬ長閑な湾岸署刑事課に電話の呼出し音が響いた。
「はい、湾岸署刑事課」
受話器を取り上げる。
「本庁の室井です」
「あら、おはようございます。青島くんなら、まだだけど?」
あたしの声に真下くんが顔を上げたみたいだったけど、気づかないフリをした。
電話の向こうの室井さんの声は、少しホッとしたようだった。
「恩田巡査部長だな?」
「まあ、声だけで解っていただけるなんて、光栄ですわ。でも、何もでないわよ?」
「構わん。私が用があるのは、恩田君、君なんだが」
「は?」
あたしは、思いっきり頓狂な声を出してしまった。
室井さんが、青島くんじゃなくてあたしに用事・・・なんて、まさに晴天のヘキレキとしか言いようが無い。
「周りに誰かいるのか?」
「ええ、まあ・・・ここは自分の席ですから」
「済まないが、誰もいないところでこの電話を取ってくれないか」
少し間をおいて、低い声で返事をする。
「解りました。場所、変えます」
あたしは席を立って、コンピュータルームへと移動した。

「で?」
コンピュータルームに人がいないのを確かめてドアを後手に閉めると、手近の椅子に腰掛けた。
「単刀直入に話そう。青島君のことだが」
「やっぱり・・・また、なんか迷惑かけた訳?」
室井さんが苦笑してる。
彼が湾岸署に電話してくると一律に青島くんに用事かと思われ、それこそ名前を出そうものなら「また、あいつ何かやったんですか」となる―――これ、周知の事実。
「いや、そういう訳では・・・昨晩の報告会の後、青島君の風邪がひどくなった」
室井さんが大まかに昨晩の流れを追って、あたしに事情を説明してくれた。
「それって充分、青島くん、室井さんに迷惑かけてんじゃない」
あたしは呆れたような声を出した。
「とにかく、起き上がれない状態なんだ。昨夜から明け方にかけて悪化はしていないようだが、良くもなっていない」
「―――って、もしかして室井さん、青島くんにつきっ切りで寝てないのぉ?」
「いや、適当に寝ている」
声が出なかった。
(もう、何やってんだか、この人達・・・・)
眉間に皺を寄せたまま、ぶっ倒れている青島くんを看病する室井さんの姿を想像して、ちょっぴり楽しくなった。
「それで、あたしにどうしろと?」
「今日の青島君の欠勤を騒ぎにしたくない。刑事課長以上には出来れば知られない方がいいんだが・・・方法は君に一任する。上手く計らってもらいたい」
しばし沈黙した後、あたしは答えた。
「―――判った。袴田課長は昨日から寝込んでるの。何とかする。で、何、奢ってくださる?」
「何がいいか、考えておきたまえ。頼んだぞ」
電話の向こうで室井さんが短く笑ったようだった。
受話器を戻し、コンピュータルームのドアを開けると、あたしは伸びをした。
「もー、青島のやつー!!」
「先輩がどうかしたんですか?!」
後ろから急に声をかけられて、あたしは真下くんを小さく睨んだ。
ちょっと、ビックリするじゃない!
「今の電話、本店の室井さんですよね? 青島先輩、また何か巻き込まれているんですか?」
「何よ、盗み聞きしてたの?!」
青島くんに懐いている真下くんですら、これだもん。
せいぜい青島くん本人が「何かやらかしたのか」というのを「何かに巻き込まれたのか」と解釈する程度だ。
あたしは後ろで何か喚いてる真下くんを置き去りにして、さっさと自分の席に戻った。

午前11時。
顔の半分をマスクで覆いながらも、袴田刑事課長が遅れて出勤してきた。
(今日も、休んでてくれりゃ、良かったのに・・・)
あたしは舌打ちしそうになりながら、課長に青島くんが風邪で欠勤している旨を告げる。
「ええ? 青島君、休みなの? じゃ、署長に報告・・・」
「ちょっと、課長!!」
まだコートも脱いでいない課長を取調室に引っ張ってくると、あたしは溜息をついた。
一体いつから、課員の勤態を一々署長まで報告上げることになったんだろう?
「何よ? 恩田君、こんなところに連れてきて」
「課長。課長の風邪が青島くんに感染ったんですよ。元はと言えば課長のせいなんですからね!」
とりあえず、イヤミを言う。
「どうして、私のせいなのよ?」
「一昨日、青島くんを無理矢理つれていって、接待ゴルフの荷物運び、させたじゃないですか」
「しましたよ」
「あの日中、青島くん、課長と一緒だったんだもん、感染りますよ」
これは、カンペキ、言いがかり。
「そんなこと言われても―――ねぇ、恩田君。ほんとに彼、風邪なの? 確か昨日、本店行ったんでしょ?」
「それが、どうかしました?」
「また、本店で粗相でもしたんじゃないんだろうね? 大体、風邪で休むってガラじゃないでしょ?」
(まったく、役に立たないところで鋭いんだから・・・・粗相って言われりゃ、そうなんだろうけど。でも、風邪ひいてるのは本当だし・・・)
思わず含み笑いをしそうになって、あたしは顔を引き締めた。
「とにかく―――別に、いいじゃないですか、有休扱いで。強行犯係で問題あるんなら、後で非番、変えればいいんだし・・・・たかだか風邪で休んだだけで、なんで署長に報告しなきゃならないんですか?」
「それは・・・」
課長の歯切れが悪くなったのを聞き逃してあげるほど、あたしはお人好しじゃない。
一応、刑事だもんね。
獲物を追いつめるように射すような視線を投げる。
「課長―――何か、隠してますね?」
あたしの剣幕に圧されて、課長がおずおずと口を開いた。
「本店の・・・指示、なんだよね・・・」
「本店の?」
課長は諦めたように喋りだした。
「よく判んないんだけど、青島君の勤態とか交友関係とか、報告しろって言われてるんだよ」
「なんで?」
「そんなこと、私が知る訳ないでしょ。我々支店はさ、本店の言う通りに報告あげるしか、ないんだから」
あたしの脳裏に半年前の悪夢のような事件の記憶が甦ってきた。
(まさか、今度は青島くんが・・・?)
ここのところ特捜本部が立つような事件が湾岸署管内で起きることは無く、本店との接触は皆無に近い。
今年に入ってから―――というよりも、職場復帰してからの青島くんが処理しているのは、本店サイドから言わせればゴミのような所轄の事件だけだ。
咎められるような事は何も無い筈だけど―――それに今日は、室井さんが青島くんと一緒にいる。
青島くんが警察庁に睨まれているなら、室井さんが知らない筈は無いだろうし、それならわざわざあたしに青島くんの欠勤届けの処理を頼んだりせず、然るべき筋から署長に圧力をかけて終わりだろう。
(室井さんが知らないとしたら、本店が独自にやってるってことか。となると、怨恨、かな・・・?)
素早くそこまで考えを巡らすと、あたしの頭の中にくっきりと一人の男の顔が浮かんできた。
「恩田君、もう、いいでしょ?」
目の前の課長をねめつけると、あたしは殊更に低い声で言った。
「課長、署長と副署長への報告はしないで下さい―――さもないと、室井参事官が乗り込んできますよ」
室井さんの名前が出たところで、課長は仕方が無いというように頭を振った。
(室井さんてば、青島くんの評判がこれ以上悪くなることを心配してあたしに今朝のこと頼んできたんだろうけど、うちの三人には室井さんの名前出した方がよっぽど効果的なんだけどなー)
あたしは課長を部屋から追い出した。

「真下くん、ちょっと」
周りをきょろきょろ見回すもんだから、目立ってしょうがないじゃない。
あ、やっとあたしの姿が目に入ったみたい・・・
「すみれさん、何してんですか、そんなとこで」
「いいから、ちょっと―――青島くんのことで・・・」
その一言で真下くんが取調室にすっ飛んでくる。
ドアを閉めるとあたしは椅子に腰を下ろして、話を切り出した。
「―――課長が青島くんの勤態や交友関係なんかを署長経由で本店に報告してるらしいの」
事情がよく呑み込めないのか、真下くんはポカンとしている。
「あたしの時と違って、監察絡みじゃないと思う―――室井さんも知らなさそうだし」
室井さんの名前を聞いてようやく頭が回転しだしたらしい真下くんが口を開いた。
「それじゃ、本店が勝手に、先輩のこと嗅ぎ回ってるってことですか」
あたしは深く頷いた。真下くんが首を傾げながら続ける。
「でも、先輩、復帰してから所轄のルーチンしかやってないじゃないですか。ここんところ特捜も無いし。なんで、睨まれなくちゃいけないんです?」
あたしは声のトーンを落として、ゆっくりと話す。
「怨恨―――じゃないかと、思うんだけど」
「青島先輩が? 誰に?」
「例えば、新城管理官、とか」
真下くんがハッとしたように顔を上げた。
「ビンゴ―――それ、有り得ますよ。過去に先輩の所為で、特捜、大分引っ掻き回されてますもんね」
「ん。あの人、執念深そうだし―――」
あたしは真下くんの目を見据えると、言葉を続ける。
「で、頼みがあるんだけど―――真下くん、本店に探り、入れてみてくれない? 同期、いっぱいいるでしょ?」
「解りました。新城さんに関する情報を重点的に当たってみます」
「頼んだわよ。あたしは署長に本店のどこからのオーダーか、それとなく聞いてみるから―――もし出来たら、だけど」
「先輩のためですからね、がんばりますよ」
本当にここは警察か?と思いながらも、あたし達は取調室を後にした。

午後5時。
湾岸署では大きな事件も無く、至極平和な1日が終わろうとしていた。
青島くんが休んでいるせいか、とっても静かに感じられる刑事課の席で、あたしは報告書を書いている。
和久さんは雪乃さんを連れて他所の管内で逮捕された被疑者を引き取りに行ってるし、魚住さんは傷害で引っ張ってこられたチンピラを仕方なく取り調べている。
課長は風邪を理由にとっとと帰宅してしまっていた。
裏付け捜査から戻ってきた真下くんがあたしの席にすっ飛んできた。
無言で人の右肩をつつくと無人のコンピュータルームへと促す。
ドアを閉めるが早いか、真下くんが口を開いた。
「すみれさん、マジ、ヤバいですよ」
「何か、判ったの?」
真下くんが声を潜めて続ける。
「新城さんが青島先輩の情報を集めているのは間違い無いですね」
「やっぱり、恨み、かってんの?」
「それが・・・」
言い澱む真下くんを鋭い視線で射すくめる。
観念したのか、小さく溜息をついて出てきた次の言葉にあたしは耳を疑った。
「―――新城さん、室井さんと青島先輩の仲を引き裂きたいらしいんです」
は?
「すみれさん、去年の秋に先輩と二人、査問会にかけられましたよね? あの事件のキッカケになった署長室の盗聴器、仕掛けたの、新城さんなんですよ・・・」
「どういう、こと?」
「―――だから、結果的に室井さんが盗聴を指示したことになってるけど、新城さんは室井さんに、自分が盗聴した、青島先輩が署長室ですみれさんを庇うような発言をした時のテープを聴かせて、室井さんに先輩への不信感を植え付けたんですよ。これ、本当です。僕、聞いてたんですから。資料室であの二人が喋ってたの―――」
「じゃ、室井さんと青島くんは、故意に対立させられたってこと? でも、何で、わざわざ? そんなことしなくたって、所轄が本店と仲悪いのなんて当たり前じゃない」
ぞんざいに言い放つあたしに、真下くんが真剣な面持ちで食い下がってくる。
「だーかーらー、『嫉妬』ですよ、『嫉妬』」
「? 嫉妬・・・って、誰が誰に?」
「要するに、室井さんの心を独占している青島先輩に新城さんが、です」
眩暈がしてきた。
真下くん、なんか、言葉の使い方、間違ってない・・・?
「これは、本店の同期から聞いたんですけど―――新城さんて、表向きは室井さんのこと『田舎のサル』とか何とか言ってますけど、本心では室井さんにベタベタに心酔してるらしいんです」
それは初耳だわ。
新城さんて、てっきり室井さんを嫌ってるとばかり思ってた。
あ、でも、それって好意や憧れの裏返しってことか・・・
「だから、青島先輩が室井さんと親しくしてるのを見ると、所轄の下っ端のくせして室井さんに馴れ馴れしくするなんて、許せない―――と」
心底呆れたあたしは馬鹿馬鹿しくなってきた。
そりゃ、青島くんが室井さんと、プライヴェートでも飲みに行ったりしているのは知っている。
あたしは本店の人間に心を許すものかと思っていたけど、青島くんは室井さんだけは違うと思って信じているみたい。
あの二人が理想を同じくしているのも(昔、和久さんも吉田副総監と同じ約束をしていたらしい)、あたしの尾行をさせられた時も室井さんを助けたくて引き受けたことを、後で和久さんから聞いた。
だけど青島くんは警視庁湾岸署刑事課強行犯係巡査部長で、室井さんは警察庁刑事局参事官だ。
仕事に関して言えば、本庁と所轄の関係は何ら変わっていない。
大体、引き裂くとか引き裂かないとかいう仲じゃないと思うんだけど・・・
「それで、青島くんの足元、掬おうっての? だって、参事官の室井さんが現場に出てくることなんて、この前の副総監誘拐事件みたいな大事じゃなければ、まず無いでしょうが? 大体、室井さんは青島くんに直接指示を与える立場じゃなくなってるし―――仮にあったとしても、それは仕事上のことでしょ?」
「でも―――室井さん、ここに来ると何かと青島先輩を重用したがるじゃないですか。刑事課には僕らだっているのに、あの人、青島先輩しか見てませんもん」
(刑事になりたての雪乃さんは兎も角、アンタや魚住さんや課長じゃ、室井さんの足手まといにしかならんでしょうが)
何だかんだ言っても青島くんの実力を認めているあたしの無言のツッコミ、真下くんは全然気がつかないだろうけど。
「新城さんからすれば、室井さんが先輩のことしか見てないのが気に入らないんですよ。青島先輩を蹴落として、以前のように自分が室井さんの心を掴みたいと思ってるんです、絶対」
もはや、真下くんの言い回しがヘンなことは、あたしもどうでもよくなっている。
「え、あの二人って、青島くんに割り込まれる前は、仲良かった訳?」
「んー、仲良かったっていうか、新城さんの一方通行だったみたいですけど―――本店の同期の話だと、室井さんは以前から『我が道を行く』って感じて、派閥には加わらなかったらしいんですね」
東北大出身が密かなコンプレックスである室井さんらしい話ではある。
「ホラ、室井さんて、東大閥の連中尻目に出世街道爆進してるじゃないですか」
「青島くんのお陰で、大分足踏みさせられてるみたいだけどね」
茶々を入れると真下くんに睨まれた。
「こりゃ、失敬」
「東大閥がつるんでる中で頭一つ抜きんでてるってのがカッコよくて、実は東大出身者でも室井さんに憧れてる人、結構いるんです。でも本庁は表向き東大至上主義ですからね、『隠れ室井ファン』っていうことで」
「はぁ〜、本店もタイヘンねぇ」
室井さんて、本店ではアイドルだったのか・・・
「新城さんも例外じゃなくて―――大体、室井さんは皆の憧れの的ですから、『抜け駆け禁止』っていう暗黙の了解がありまして・・・」
「抜け駆けって、何に?」
「室井さんに対して、ですよ。でも新城さん、室井さんのいたポストをおんなじように辿ってたってこともあって、仕事を盾に室井さんに相談にいったり・・・」
「あの新城さんが、他人に相談なんてするんだ」
「室井さんにだけ、だそうですけどね。まぁ、そんなこともあって、本店の中では新城さんが室井さんに近づくのは仕方無いって感じだったらしいです」
「で、そこに現れたのが、青島くんって訳」
「だから、青島先輩のこと相当嫌ってるみたいです。今までウチの署に特捜立った時だって、新城さんが先輩にやらせた仕事って殆どイジメだったじゃないですか。アレが室井さんに知れてたら、絶対黙ってなかったと思いますけどね。先輩、そういうこと愚痴らないから。ホント、なんだってあんなに健気なのかなぁ―――傍で見ている僕の方が切なくなりますよ」
漸く、あたしは真下くんの話の矛先がズレてきていることに気づいた。
この先のことはあまり知りたくない気もするんだけど、ここまできたら聞かない訳にもいかないんだろうな・・・
とりあえず、話の方向性を立て直すべく、質問を試みる。
「それで、その大ッ嫌いな青島くんの情報集めて、弐号機のヤツ、何するつもりなの?」
「もう、完全に公私混同してるらしくて・・・私生活でも青島先輩と室井さんの仲を邪魔するつもりみたいです―――本店の人間だって、私用で室井さんに近づくのはみんな牽制しあってるのに、とんでもない奴だっていう感じで」
「あの、さ・・・私生活での青島くんと室井さんの仲ったって―――職務中はとにかく時間外は青島くんがどこで誰と会おうと勝手でしょ? それに青島くんが特にアプローチしなくても、室井さんの方が青島くんに―――ってことだって考えられるでしょーが」
「そんな細かいシチュエーション、あの新城さんが理解すると思います?」
まったく、これだからキャリアってのは困るのよ。
頭だけ良くて、マトモな感覚持って無い人が多すぎる。
「ま、確かに理解するとは思えないわね―――青島くん、かわいそー」
あたしは青島くんに心から同情するのを禁じ得なかった。
まさか、そんな理由でイジメられてたなんて・・・
しかし、本庁での室井さんの人気がそんなに凄まじいものだとは知らなかった。
あたしの考えてる事を見透かすかのように真下くんが口を開く。
「室井さんて、当人が優秀だってことはもちろんなんですけど、相手に対してきちんとした評価、するって―――ホラ、本店だって、東大出のキャリアばっかじゃないですから。ノンキャリの人達だっていっぱいいるし、そういう中で分け隔て無く、実力のある人を認めて登用する姿勢が、ファンが多い所以らしいです。本人は全然、自分の人気に気がついてないみたいですけどね」
官僚特有の政治的な駆け引きはともかく、ウチの署のスリーアミーゴスに見られるような『上には弱く、下には強く』的なゴマスリ行為は、確かに室井さんからは想像できない。
あたしだって、あの型破りな青島くんをちゃんと評価しているのが、室井さんの偉いところだと思っている。
確かに湾岸署の問題児には違いないが、青島くんの信念は、刑事として、もとい警官として当たり前に正しいし、刑事としての能力はかなり評価されるべきだから―――最も、今の警察機構は絶対に青島くんを認めないだろうけど。
「大体、青島先輩も、青島先輩ですよ―――」
黙り込んでいるあたしに構わず、真下くんが呟いた。
「なんだって、室井さんばっか見てるんだろう―――だから、新城さんに睨まれるんじゃないですか。僕だってキャリアなんだし、少しは頼ってくれたって・・・そりゃ、今はなんの力も無いけど、先輩の為なら何だってするのに・・・」
最後のほうは消え入りそうな声だったが、もちろん聞き逃してあげなかった。
(やっぱり、ね・・・―――青島くん、自分に向けられる好意に対しては、激ニブだからなー・・・こりゃ、真下くんのキモチは全然伝わってない、か)
今日、青島くんが室井さん家で休んでいるという事実が発覚したら、とんでもないことになりそうでコワい・・・

あたしは心なしかしょげている真下くんの肩をポンポンと叩いた。
「まあ、本店の方の事情は置いていても、要は新城さんの八ツ当たりってことよね。だけどそんなんで、所轄を引っ掻き回して貰っちゃ困るわ―――かと言って、あの新城さんに圧力かけられる人なんて、そうそういないしねぇ・・・最悪、室井参事官に仕切ってもらうしかないか。新城さん、室井さんの言うことなら、ある程度聞くんでしょ?」
「でも、室井さんに何て言うんです? 新城さんが室井さんのことで青島先輩にヤキモチ妬いて八ツ当たりしてるなんて、阿呆らしくて言えませんよ」
確かに阿呆らしいけど、大体、室井さんと新城さんの問題な訳でしょ、それって。
青島くんはとばっちり、受けてるだけなんだから―――と、思ったところで、あたしは考えた。
青島くんは室井さんのこと、どう思っているんだろう?
そして、室井さんは青島くんのこと、どう思っているんだろう?
もちろん、お互いに好意を抱いているであろうことは、はたであの二人を見ていれば判る。
あんな『約束』しているくらいなんだから、固い信頼で結ばれているとは思う。
だけど、それだけなんだろうか?
あたしは、去年、大騒ぎになった副総監誘拐事件を思い出していた。
本店が勝手に湾岸署に乗り込んできたあの夜、青島くんと室井さんの間だけ、温度が5度くらい下がったんじゃないかと思うくらい冷たい空気が横たわっていたのに。
翌々日には、青島くんは室井さんを助けようと、サイコ殺人女が収監されている独房へとあたしを引っ張って行った。
そうして被疑者の家を特定した後、『確保』の一言を待つ、青島くんがいた―――あまりに真摯でひたむきすぎて、傍にいるあたしの心までが痛くなるような、一途な信頼を室井さんに差し出しながら。
被疑者の部屋に押し込んだ時だって、「俺達が逮捕したら室井さんが・・・」って躊躇しているから、隙をつかれてあんなことになってしまった。
あの、嵐のような三日間の中、いつの間に、青島くんは室井さんへの信頼を取り戻したのだろう。
そして、青島くんが刺されたあの時。
被疑者の部屋に乗り込んできた室井さんは、負傷した青島くんを他の捜査員に触らせなかった。
全身から哀願と憤りと後悔と決意が滲み出ていた。
真っ青な顔をした青島くんに手を貸しながら「死なないでくれ」と叫びだしそうな『哀願』、被疑者が確定できた途端に手柄の取り合いを始めた上層部に対する『憤り』、挙句青島くんに確保の指示を出すのを逡巡させられ結果として彼が刺されてしまったことへの『後悔』、青島くんを絶対死なせるものかという『決意』。
今考えると、あたしも大パニックだったけれど、室井さんはもっとパニクってたと思う。
だって、救急車も呼ばずに、自分で車を運転して青島くんを病院まで運んじゃったんだもの。
確かに、あの時現場には警察の車両が山ほどあったし、負傷した青島くんをあたし達が室井さんの車に運び込んだ時点で察しのいい連中が素早く交通規制を敷いてくれた。
事実、救急車を呼ぶよりは早かったかもしれないけど、あたし達、青島くんを止血するの、忘れてたのだ。
青島くんを受け入れた病院は、事前に連絡が行っていたとはいえ、正直、呆れていたみたいだ。
青島くんの負傷は、それほどまでに室井さんを動揺させたのだから。
昨晩、苦しそうな青島くんをほっとけなくて、結局自分の部屋に連れ帰った室井さんの心情が手に取るように解る。
青島くんを失いそうになった時の、祈るような気持ちを再び味わうのはあたしだってゴメンだもの。
自分が誰に支えられているのか、自分にとって一番大切なのは誰か―――が、あの時室井さんは解ったんじゃないかと思う。あたしも、同じ気持だったから。
でも、あたしの場合、青島くんに特別な感情は無い。
同じ職場で、危険と隣り合わせの仕事して、一緒にハラハラすることはしょっちゅうだけど、それで一々同僚に恋してたら、身が持たない。
青島くんは大事な仲間だから―――和久さんの言ってた『戦友』って言い方のほうがしっくりするかな。
彼だけじゃなく、和久さんや真下くんや雪乃さんや魚住さんや武くんや中西係長、暴力犯係のみんな、袴田課長でさえも、彼らに何かあったら、とっても辛いもの―――真下くんが撃たれた時にも、それは充分体験させられたっけ。
自分の身体が切りつけられたのと同じ、痛みを感じるだろう。
でも青島くんと室井さんの場合、それ以上の、仲間意識など飛び越えた互いに唯一無二の存在なんじゃないだろうか。
仕事上だけじゃなくて、嬉しいときも悲しいときも常に共にありたいと思う、とても特別な相手なんじゃないだろうか。
あれだけあからさまに裏切られても信じたくてたまらなかった青島くんと、自分の地位と立場が危うくなるのも構わずに現場に駆けつけてきた室井さんをただの『親しい友人同士』という言葉で括るのは、どう考えても相応しくない。
友情や信頼だけではない、何か運命に突き動かされるような一途な感情をお互いに相手に感じているような気がしてしまう―――そう、男女間では当たり前に語られる『恋』もしくは『愛』と呼ばれるものを。
青島くんの様々な顔があたしの脳裏を過ぎる。
事件が解決した時や苦手な書類書きを終わらせた時の、少し疲れてホッとした顔。
遅刻してきた時の、バツの悪そうな顔。
本店のイヤミな捜査員やウチのスリーアミーゴスに対する、営業用スマイル。
はりきって捜査に向かう時の、こっちまで元気になるような笑顔。
あたし達が知っている以外に、室井さんにだけ見せる顔があるのかもしれない。
そして、室井さんも。
少なくともあたしは、おっかない顔と辛そうな顔しか見たことない。
いつも眉間に皺よせて、人を射すくめるように目を見開いているか、きつく目を閉じて歯を食いしばっている顔しか。
あの眉間に皺が無い状態の時って、あるんだろうか。
あの大きな瞳が優しげに細められることが、あるんだろうか。
青島くんには、そういう顔を見せてるのかもしれない。
明日のこと、青島くんがどんな顔して出勤してくるのか、あたしはとっても気になりだした。
今日、室井さんも休暇をとると言ってたっけ―――今頃、室井さんは必死に青島くんの看病、しているんだろうな。
普段は元営業マンらしい気配りで相手を気遣う青島くんだけど、病気の時ばかりはそうもいかないだろう。
青島くんが風邪ひいてることによって、ひょっとしたら、二人の間にある『常識』という名の距離が、少し、縮まるのかもしれない。
ただ、室井さんが言っていた『起き上がれない状態』というのが少し気に懸かる。
この冬、猛威を振るっているインフルエンザは結構恐ろしい―――インフルエンザから移行した肺炎を拗らせて死亡した例が、新聞の紙面を賑わしたのはつい最近のことだった。
青島くん、明日は出てこれるよね・・・?
あたしの、とりとめの無い思考は真下くんの嘆きに中断された。
「もう、ウチに特捜が立たないよう、祈るしかないですよぉ・・・また新城さんが来て、青島先輩のことイジメるのかと思うと・・・」
「あたしだって、特捜はゴメンだわ。雑用、増えるし―――ねぇ、新城さんがウチの署の担当管理官じゃなくなればいいんじゃないの? つまり特捜が立っても他の管理官が来る分には・・・」
真下くんがゆるゆるとこっちに顔を向ける。
「あんたのお父上―――ウチの方面本部長でしょ? 何とかならないの?」
目の前のお坊ちゃまに期待を込めて聞いてみる。
あたしも、あのヒステリックな管理官の指図は極力受けたくないし。
「―――そっか! その手がありました!」
「期待してるわよ、ま・し・た・け・い・ぶ」
あたし達は漸くコンピュータルームから這い出て刑事部屋に戻ると、己の仕事を再開した。

次の日。
予想はしてたんだけど、青島くんは、とっても幸せそうな顔でやってきた。
今まで、あたし達が見たことのないような笑顔。
何て言ったらいいんだろう―――そう、とろけそうな、とでも表現したくなるような。
青島くんは、まず魚住さんのところにいって挨拶すると自分の席に戻り、いつものように椅子ごと移動してきて、背中ごしにあたしの顔を覗き込んだ。
「昨日は、すんません―――」
「いいえ、どういたしまして」
あたしは青島くんにだけ聞こえるように、小さな声で囁いた。
「何か、いいことあったの? すっごく幸せそうな顔、してる」
「そ?」
返事はそれだけだったけど、その時の青島くんの表情をあたしは一生忘れないと思った。
極上の笑顔―――咲き零れる寸前の蕾がふわっと開くような、本当に素敵な笑顔。
ずいぶん一緒に仕事してるけど、青島くんの顔を間近で見て、ドキドキしたのは初めてだ。
まるで彼の幸福感があたしにも伝わってきたみたいで。
よく見ると、褐色の肌に少し赤みがさしている。
「恋人でも、できた?」
青島くんが正直に頷くとは思えないけど、やっぱり確認したくて聞いてみた。
敢えて『彼女』と言わないところがミソである。
今や耳の付け根まで真っ赤になってしまった青島くんは、黙ってあたしの視線を避けようとしている。
それ以上ツッコむのはさすがに気の毒なので、あたしは無言で微笑むと自分の机の上の報告書に視線を落とした。
青島くんが身体を乗り出して、内緒話をするようにあたしの耳元に手をかざす。
「室井さんが、すみれさんに何が食べたいか、聞いといてくれって―――」
恥ずかしそうにそれだけ言うと、自分の席に椅子を戻した。
実際には、あたし、何にもしてないんだけどな。
結局、課長には青島くんの欠勤、報告せざるを得なかったし―――でも副署長以上(果ては某管理官まで伝わってたかもしれなかったんだけど)への報告は上げさせなかったから、ま、奢ってもらってもいいかな。
ちなみに課長は、今日、またお休みしている。まったく、昨日無理して出てくるから・・・でも、おかげで弐号機の企みが発覚したし―――まあ、知らない方が良かったかもしれない人間関係も判っちゃったんだけど。
青島くんの後ろ姿を見ながら、
―――きっと、これからが大変よ。頑張って!
と、あたしは応援してあげたくなった。

(1999/2/26)


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青島くんが風邪をひいて室井さんに看病してもらっていた時の、湾岸署サイドのお話です。
コメディを書くつもりで失敗しました。冒頭で強行犯係を無理矢理全員出した以外は玉砕(!)でした。スリアミ、書きたかったのに〜〜〜
それにしても、真下くんがいきなり暴走してますね。青島先輩を想うあまり、同期の情報を自己流に解釈した結果、新城さんがただのアブナい人に成り下がっていますが、新城さんには苦悩する自身の心の中を凄く真面目に分析している話がちゃんとあります。
勘のいいすみれさんが、二人の社内恋愛の影の理解者になったキッカケ話といったところでしょうか。