月だけが見ていた




深夜2時頃―――
新城賢太郎は一人、眠れぬ己を宥めようと、飲みたくも無いアルコールと格闘していた。
警察庁官舎の自室はそっけないくらいのシンプルさで、余分なものは何一つ置かれていない。今日のように気分がささくれだっている時には、普段気にもとめない、そんなどうでもいいことさえ苛立つのに充分な理由となってしまう。
原因は判っていた。
退庁する直前に顔をあわせた男―――青島俊作、警視庁湾岸署刑事課強行犯係巡査部長。
特捜本部が設置されている大泉署から戻ってきた時に、どこかの階で報告会をやっているらしいということは聞いていた。捜査一課に戻って残務処理を片付け終わったのが22時半過ぎ、なかなか来ないエレベーターに痺れを切らして、非常階段へ向かった。一階通用口付近に通ずる非常ドアのノブを廻した途端に視界に入ってきた青島が、誰かを待っているらしいことは一目で見て取れた。あの前を通らずに正面玄関へは抜けられないし、今の自分には青島を無視する理由も無かった。
「おや、これは」
「あ、どうも・・・」
びっくりしたような視線が自分に注がれた。
「もう、いいのか?」
「はあ、もう大丈夫です。通常勤務に戻りましたから」
昨年の副総監誘拐事件で負傷した青島が退院して本庁に挨拶に来て以来、顔を見るのは久しぶりだった。かなりの鼻声に風邪でもひいているんだろうとは思ったが、大体の様子は元気そうだ。何か言わなければ―――と思い、自分でも耳を疑いたくなるような科白が口をついて出た。
「まあ、せいぜい頑張りたまえ――――室井さんの足を引っ張らないようにな」
青島が弾かれたように顔を上げた。当然だろう、ここでいきなり室井の名前を出してしまった新城の方が驚いているくらいだ。最も、青島と見ると常に室井を意識してしまう自分を改めて実感させられただけなのだが。
「新城さん、あの・・・」
青島が言葉を発したその時、室井の車が通用口に廻って来た。大体、青島が待つ可能性のある本庁の人間といえばたった一人しかいないのだから、当然といえば当然である。次の瞬間、胸に苦々しいものがこみあげてくるのをどうにも抑えられずに、イヤミな言葉を投げつけていた。
「噂をすれば・・・だ。これから、室井さんとデートでもするのか?」
後ろで青島が何か言っていたが、それには構わず玄関ホールに向かって歩き出して、本庁を後にした。
あれから、3時間―――
ベッド脇のサイドテーブルに置かれたブランデーボトルの中身は、封を切ったばかりにもかかわらず、半分以上減っている。神経が高ぶっている時に寝酒を嗜むことはごく偶にあるが、これだけの量を空けてもいっかな眠りが近寄ってこないのは初めてかもしれぬ。身体に流し込んだアルコールの量に反比例して研ぎ澄まされていく神経が、今まで何度も自問自答してきたどうどう巡りの繰り返しへと嵌まって行くのが解る。新城は今や安眠を完全に諦めて、ベッド脇の窓を覆っていたカーテンを半ばまで開いた。
月の奇麗な晩である。

―――何故、私は、あの二人を気に懸けるのだ?

あたり一帯を静寂が支配している。窓から洩れてくる静謐な青白い光が、自分の先輩に当たる警察庁刑事局参事官、室井慎次の端正な横顔を思わせるような気がして、思わず視線を室内に戻した。

入庁する前から、室井さん、貴方に憧れていた―――東大卒の先輩達から、貴方の噂は聞いていた。
貴方は、東大閥が幅をきかせるキャリアの犇めく中、警察学校に籍を置いていた頃から『優秀』の二文字がついてまわったひとだった。
入庁後、初めて貴方の姿を見かけた時のことは、今でもハッキリ覚えている。
整った凛々しい顔立ちに、静かに溢れている自信とピンと伸ばした背筋が、一見小柄な体躯を大きく見せていた。単純に「格好いい人だ」と思い、貴方の存在が私の心に大きく刻み込まれた。その後、自分も同じ組織の中を異動するようになり、先を歩く貴方の有能さを実感させられるにつけて『憧れ』が『目標』に変わったのは当前のことだった。私も室井さんのようになりたい―――目指すものがあれば努力を怠らないでいられる私にとって、ごく近くに『お手本』があることは望ましいことだった。
―――室井さんに恥じないように、私も頑張らねば・・・
どういう訳か、私の前任者はことごとくと言ってもいいくらい、室井さんであることが多い。室井さんが辿り、私が後を追うそれらのポジションは、キャリアが通過するいくつものルートの中でも、かなり上り坂の出世コースだ。室井さんが東大卒ではないどころか、東北大の派閥にも加わっていないことを考えると、いかに優秀であるかが解る。
組織の中で上に立つ者に必要な、冷静な判断力、周囲の騒音を跳ね返す精神力、そして信念に基づいた行動力と優秀な分析能力をもってその時々に的確な指示を与えられること―――事件解決に至るまでに困難な要因が多ければ多いほど、貴方の鮮やかな手腕が冴えわたった。小さなミスも許されない状況にありながら、次々にハードルを飛び越えて前進していく姿に、関わった人々の大半は、将来、日本の警察を背負って立つに違いない室井さんのことを評価しない訳にはいかなくなるようだった。
最も、本当は貴方を認めたいのにキャリア組東大閥というプライドが邪魔して、内心の羨望と嫉妬をひた隠し、貴方に対してあからさまに冷たい態度をとる輩もいる。私とて、東北大卒が東大卒より上を行っているというのは、内心面白くない。だが、貴方だけは例外だ。だからこそ私は堂々と貴方に近づき、年下であることと『後任』という立場を理由に相談を持ち掛けることを度々した。私が考えているのと同じ結論が、優秀な先輩である貴方の口から告げられると、誉められているような気がして嬉しかった。貴方が全く違う判断を下すこともあったが、それはそれで事件に対して別の切り口を提示してくれることになるのだから、どちらにしろ有り難いことだった。
私自身、あまり人付き合いが得意な方ではない。上を目指して足の引っ張り合いをするキャリアの浅ましさを思うと、無駄な付合いはしないに限ると思ってしまう。そんな中で学閥の後ろ盾を拒否して、己の実力だけで上に行こうとする貴方には、私のことを嫌ってほしくなかった。
何時からだろうか。
東大閥の中にいる私が本当はどんなに貴方に憧れて惹かれているか、室井さん自身に知ってほしいと思うのと、面と向かって賛辞を送るのはやはり東大卒のプライドが許さないという思いとが、攻めぎ合うようになったのは。
他人が貴方を優秀だと評価しているのを耳にするのは、自分のことのように誇らしかったが、自分もそうしたいという気持ちを抑えようとすると、他人に語る時でも貴方と接する時でも、言葉はそっけなく、つっけんどんになってしまう。
そんな私の態度は、貴方を不快にさせていたのかもしれない。が、相談をもちかけると貴重な時間を割いてアドバイスしてくれるということは、嫌われていない証拠なのだと―――あの頃の私は、必死に自分に言い聞かせていたのだ。
このまま、先輩・後輩として、共に上への階段を登っていければいい。
私は―――室井さん、貴方を追い越せなくても構わない、と言ったら嘘になるが、貴方の後ろなら歩いてもいいと思っている・・・
いつまでも、道が続くと思っていた。
室井さんの背中を追いかけて、時々貴方が振り向いて私が後ろにいることを確かめてくれるのを支えにして、やっていくのだと信じて疑わなかった。
そう、あいつが貴方の前に現れるまでは―――

新城は部屋に零れる月の光に手を翳した。柔らかだが冷たい光が指の間をすり抜けてゆく。決してこの手に掬うことの出来ないものが、この世の中にはあることを殊更に知らしめるかのように。

―――湾岸署に配属されたあの破天荒な脱サラ刑事に関わってから、室井さん、貴方は変わってしまった・・・
最初に青島の名を耳にしたのは、室井さんがあの男を捜査一課に応援で呼んだ時のことだった。
青島を投入しての被疑者確保は失敗に終わったが、所轄の強い仲間意識のお陰で、なんとか逃走前に取り押さえることができたのだった。本庁に戻ってきた捜査員が「俺達一課の人間だけでやってりゃ、空き地署ごときにナメた真似させないで済んだものを・・・これで、室井管理官も目が醒めたろうよ」などと嘯いているのを耳にしたが、私は内心呆れていたのを覚えている―――本庁一課の捜査員共と青島、そして室井さん、貴方にも。
室井さん、一体、何をやっているのだ、貴方は?
所轄の刑事を投入した所為で、規則よろしく貴方の命令を遂行する筈だった一課の連中の足並みを乱れさせて、何の得があるというのだ?
青島も―――貴様は、室井さんがどんな立場にいるのか解っているのか?
事件に大きいも小さいも無いというのは正論だが、世の中、それだけで渡っていけないのは、過去、民間人だったお前なら良く解っていることではないのか?
そして、一課の犬共め! 機転の利かないことこの上ない。揃いも揃って被疑者を取り逃がすとは―――青島一人が別件で騒ぎを起こしたなら、逆にそれを利用できた筈だ。人数ばかり多くて役に立たないとは!
私は初めて室井さんに苛立ちを覚えた。こんな、失点にも繋がるような不手際は、あまりにらしく無かった。
その頃から、私の心配を他所に、室井さんの視点は所轄寄りへと傾いていった。
東大卒の先輩である一倉さんも、大麻密売絡みで共に湾岸署へ出向いた時の室井さんの態度を心配していた。
そして、極めつけは―――真下第一方面部長の子息、湾岸署刑事課の真下正義警部が撃たれたとはいえ―――上の命令を無視しての、青島と一緒になって暴走した単独捜査だった。
あの時は、心配を通り越して憤りに近い感情が、私を支配していた。
室井さん、貴方はどういうつもりだ?!
上層部の命令を無視することが、どういう事態を招くのか、貴方が解っていない筈は無い!!
何故そんなに、所轄に―――青島に肩入れするのだ?!
査問会にかけられている間中、処分内容が心配で心配で仕事が手につかなかった私を―――結果として訓告で済んだのは、優秀な貴方にとって幸いだったが、青島への厳しい処分に不服を唱えて危うく一悶着起こる寸前だったことを聞いて眩暈がしそうになった私を、貴方は知らないだろう。
まったく、貴方という人は―――!!!
だが、青島の方が自分の落ち度と立場を弁えていたということか、憤懣やるかたない室井さんを宥めて、言い渡された事実を受け入れた為、二人の処分は当初決められていた通りに決定した。そして、室井さんは元のように警察官僚として私の前を歩くようになり、青島は何処かの交番で一からやり直すこととなり、約三ヶ月間にわたって騒ぎの続いた湾岸署絡みの事件ラッシュには一応の決着がついた筈だった。その後、室井さんは警察庁警備局へ昇進し、私自身が湾岸署を担当する管理官としてポストを引き継いだ。
ところがどうだ―――呆れたことに、室井さん自ら刑事局長に掛け合って、青島を湾岸署に復帰させるとは!
私が管理官に就任して以来、初めて湾岸署に特捜本部を設置するために乗った公用車の中で、一課長からその話を聞き、胸くそ悪くなるのを抑えるのにどれほど苦労したことか!
私にはあの男、青島は室井さんの将来を駄目にする邪魔者にしか思えなかった。
室井さん、貴方は、一体どうなってしまったのだ?
あいつは貴方の地位を危うくしてばかりなのに、何故、青島を刑事として使いたがる?
そんなに、あの男は優秀なのか―――この、私よりも?
私は、青島を絶対に認める訳にはいかない。
室井さん、いくら貴方があいつを評価しようとも、組織の命令に従えない刑事は必要ない。
そんな男を使わなくても、私は事件を解決してみせる。
それが、青島より私の方が上だと―――室井さん、貴方に証明することにもなるのだから。
あの時から。
私は、これ以上貴方が青島達に関わって、出世への階段を踏み外すような真似だけは絶対にさせまいと決めたのだ。私の憧れた室井さんが、迷わずに、真っすぐに上に向かって進んでいけるように―――
だから、「湾岸署の女刑事が、放火殺人未遂事件の被疑者を故意に逃走させたんじゃないか」という上層部の寝言にも等しい与太話がふりかかってきた時に、私は個人的に行動を起こした。そう、貴方と湾岸署もとい青島との信頼を断ち切る為に―――こんな、願ってもないチャンスを利用出来ないようでは、それこそ無能だ。
先行して署長室に仕掛けておいた盗聴器は抜群のタイミングで、被疑者が署内に女刑事を訪ねて来た事実を本部に隠そうとする所轄の人間の会話内容を捉えていた。しかも、そのうちの一人が青島だったという、あまりにも出来過ぎた偶然を知ったときには、私は天が味方してくれているような気さえしたものだ。結果として室井さんは、湾岸署の刑事二人に服務規定違反による三ヶ月の減棒を言い渡し、青島との信頼関係を完全に絶ちきって、警察庁刑事局参事官へと昇進したのだから。
そして、私も安心して、また貴方の後ろを歩いてゆける筈だった―――その、私の心の束の間の平和は、あの副総監誘拐事件であっさり吹き飛ばされてしまったのだが。
室井さん―――
あの三日間の間に、貴方と青島の間に何があったのか、私は知らない。
本庁が湾岸署へ特捜を設置した初日は、貴方と青島の間は査問会の時と同じ、険悪な状態のままだったのに。
翌日も捜査本部に詰めっきりの貴方が、青島と接触する時間など無かった筈だ。
だが、三日目には―――
被疑者を特定した青島は、もう、何も迷っていなかったではないか?
ただ、真っ直ぐに貴方だけを見つめて、信じて、貴方の命令だけを待っていたではないか?
―――青島! 確保だ!!
貴方に黙ってコートを渡したあの瞬間から、私は―――貴方を心から羨ましく、そして憎く思った。
何があっても、自分に誠意と信頼を差し出してくれる部下を得た室井さんに、激しく嫉妬した。
青島がそれなりに優秀な刑事であることは、認めなければならないだろう。
悔しいが、被疑者を割り出したのも所在を特定したのも、本庁の捜査員ではない―――青島だった。
その青島が負傷したと聞いたとき、私の中で何かがブチ切れたのだ。
現場の刑事をコマとしか思っていない上層部に対して、凄まじい怒りが爆発した。今まで私自身、青島たち所轄の刑事にしてきたことは棚に上げて。
あれから私は所轄の刑事達の現実に少しは目を向ける気になった―――正確には、湾岸署の青島という刑事に。
その時まで私は、青島個人について、殆ど情報を持っていなかった。後日、青島が湾岸署で過去、どんな事件を処理したのか、記録を調べることから始めた。青島に関する情報はすべて湾岸署から上げさせた。そして、あの型破りな男がその時々に応じて、マニュアルを無視した幅広い方法で情報を集め、捜査していることを知った。服務規定違反ギリギリのやり方もするようだが、境界線内にとどめていることを考えれば、何処ぞの応用の利かない捜査員より、余程バランス感覚に優れている。青島という男は、確かに一課の、命令されたことだけしか遂行できず、出世だけしか頭に無いコマに比べると格段に上をいく逸材だ。室井さんは、とんでもない男を手に入れたのかもしれない。
その、青島の心をしっかり掴んでいる貴方が、憎い―――
そして、青島―――私はお前も羨ましく、憎い。
私の憧れである室井さんの心を捉えて離さない、お前に嫉妬している。
多分、私はずっとお前に嫉妬していた―――室井さんがお前と関わるようになってから。
室井さんが命令違反をした原因を作ったお前を私は許すものかと思っていた。お前の所為で危ない橋を渡る羽目になっても、当たり前のようにそれを乗り越えて前進する姿を黙って見ていられるほど、私にとって室井さんはどうでもいい存在ではなかったから。
過去に私に向けられた感情よりもはるかに上をいく、室井さんがお前に注ぐ感情を羨み、妬んだ。
私は、室井さんの信頼を一身に受けているお前が、ずっと憎かったのだ―――

気がついた時には、時刻は5時半をまわっていた。
カーテンを開けたままの窓からは、仄暗く冷たい光の残滓が跡形もなく消え、東の空から暖かみのある白っぽい光が差し込みはじめていた。グラスの中の氷はとっくに溶けきっている。
(今日は長い一日になりそうだ・・・)
新城はサイドテーブルの上を手早く片付け、軽くシャワーを浴びる為に浴室へ向かった。

登庁してみると、抱えている三つの特捜本部のうち、世田谷中央署に進展があった。被疑者特定の為の、有力な目撃証言が出たのだ。新城は、午前中を世田谷中央署へ出向き、特捜本部での指揮に費やした。
昼少し前に、今度は大泉署で進展があった。凶器が特定できたらしい。
車で移動している間に、以前勝どき署に特捜を設置した事件の時も似たような凶器によるものだったことを思い出した。自分の担当では無かったが、あの事件は凶器の入手ルートの特定が困難だった上、関係者の一人が某政治家と縁続きで、上からの要請で室井が調整役をさせられ、あちこちから横槍が入って解決まで長引いたので、記憶に新しかった。
新城は、車中から本庁に電話を入れ、データベースから勝どき署の事件を検索させたが、欲しい情報は無かった。例の政治家と遠縁の要人は凶器の入手ルートに関係していたのだ。本庁のデータベースから抹消されているかもしれないという予想が当たってしまった。
(だが、室井さんなら個人的に資料を保管している可能性がある)
続けて、警察庁刑事局参事官席をダイヤルする。
室井が有休を取っていたのには、少なからず驚きを覚えた。同時に、昨晩、風邪をおして室井を待っていた青島の存在が浮かび上がってきた。
(青島の風邪が感染ったか? どこまでも、室井さんの足を引っ張る奴だな、あいつは・・・)
勝手に決め付けておきながら、突然、胸の奥に小さな棘が刺さったかの如く、チクリと痛んだ。自分でもなんとも言いようがない、だが本能的な不安感が新城を襲う。
(馬鹿な―――もし、室井さんが本当に青島から風邪を感染されたとしても、それがどうだというのだ。第一、風邪のウィルスは空気感染ではないか? 私は―――私は、何を考えている?)
どうしても欲しい資料ではなかった。明日以降にまわしても、おそらく捜査の進展にはさほど影響が出ないと思われた。だが、こんな混乱した精神状態のまま残り二つの捜査に没頭できるとは思えず、新城は前方を睨み付けたまま、室井の官舎の番号をダイヤルした。

本庁の会議室の一角で、新城は室井と対峙していた。
「お休み中のところをわざわざお出まし頂いて、申し訳ありませんでした。家まで取りに伺いましたものを」
世田谷中央署から本庁へ向かうルートの途中に、室井の住む官舎がある。
―――何も本庁まで出向いていただかなくても、ここからなら其処に寄る方が近いですから・・・
自宅というプライヴェートな空間に電話を入れたという後ろめたさをひた隠しにしながら、新城は、室井の持つ捜査資料が必要であることを訴え、今から官舎に寄らせていただきたいと丁寧に申し入れたが、ついでに都心に出て用事を済ませるからと室井に食い下がられ、結局ここで落ち合うこととなった。
「風邪だ、と聞きましたが?」
「―――少し、体調が優れないだけだ。今日は特に抱えているものもなかったから、大事をとったまでだ」
確かに、顔を見る限りでは、風邪を患っている様子は微塵もない。
その時、新城の口からは、車中で思い巡らしていたことそのままに、極めてサラリと言葉が出てきた。
「私はまた、青島から感染されたのかと思いました」
「―――!」
室井の目が怒ったように見開かれたが、そのまま言葉を続けた。
「昨夜、通用口の手前で、貴方を待っている青島を見かけました。声が完全に鼻声でしたから」
「―――熱があったから、送ってやっただけだ」
ぶっきらぼうに言い放たれ、心の表面に立っていた漣が凪いでゆく感触が新城を戸惑わせた。
目の前の室井は、早速鞄から資料をファイルしたバインダーを取り出している。
「これは、私が個人的にファイルしていたものだ。役に立つなら使ってくれ」
「今、写しをとります―――その間にコーヒーでも如何ですか?」
そそくさと立ち去ろうとする室井を少しでも引き止めようと、新城は部下に目で飲み物を持ってくるよう合図した。断られるかと思ったが、室井は特に急いではいないらしく、腰を落ち着けたままである。
暫くして二人の前にコーヒーカップが置かれた。
新城は、不自然にならないように慎重に言葉を選びながら話しはじめた。
「室井さん―――なぜ、貴方はあの男にそんなにまでして関わるんです? 貴方ならいくらでもパートナーを選べる筈だ。もっと御自分を大切にした方がいい。貴方がどんなに青島をかっていても、あいつが貴方の足を引っ張っていることに変わりは無い」
室井は黙って新城の後方にあるボードに視線を泳がせている。表情に変化はなく、目の前の男が今、何を思っているのか、新城には皆目見当もつかないが、とりあえず気分を害した訳ではないようだ。
更に言葉を選りすぐり、頭の中できちんと文章を組み立てて、話を続けた。
「貴方ほどの人が、今の危険な立場を理解していない訳ではないでしょう? もっと優秀な人材と組むべきだと言っているんです。青島が、所轄にしては珍しく優秀な刑事であることは、私も認めましょう。だが、所詮所轄は所轄、貴方の微妙な立場を理解させるのは無理と言うものです。貴方には、もっとふさわしい相手がいる筈だ・・・」
暫しの沈黙の後、室井が発した言葉からは、軽い驚きが感じられた。
「それは、忠告してくれているのか?」
「―――警告です」
新城はそう答えるしか、無かった。

街の灯を受けて、鈍く輝く月が上空にかかっている。
新城は運転手に無理を言って、いつもは官舎の入口まで送ってくれる公用車を少し手前の公園の近くで降りた。
暫く、一人で歩きたかった。
昨晩のはっきりした月明かりに比べると、夜空全体に霞がかっているような感じである―――朧月というやつだ。

―――何故私は、こんなにもあの二人が、室井さんが、青島が、気に懸かるのだ?

本当のことは、判っている。
室井さん、私は貴方の隣に、私の居場所を見つけたかった。
それと同時に、青島の隣にも自分を置きたかったのだ。
今からでも、私は、室井さんを―――そして青島をも手に入れたい、と思っている。
そして―――
この気持が何処からくるものなのか、私は、気づいてしまった。
でなければ、日中、車の中で、あんなに不安定な気持になることなど無かった筈だ。
憧れている相手だから、信頼を得たいからというだけで、相手を手に入れたいと、普通、思うか?
そうとも、そんなこと思いもよらないかったからこそ、私は室井さんにも青島にも辛く当たってきた。
室井さんに対して、私が望んでいることは―――きっと、あの人にとっては、予想もつかないことだろう。
そして青島―――お前の方が、私の気持に対する驚きが大きいだろうな・・・
昔から、目標を定めて努力を重ねることは私の得意とするところだった。自分には到底手に届かないと思われるものでも、足場を固めて一歩づつ登ってゆくことで、克服し、手に入れてきた。
だが、人の感情に根差すものは、それだけで片付けられないことくらい、自分でも解っている。
今まで、心がこんなに切なく、不安にうち震えたことは無かった。
人生にもしも、は無いけれど―――
室井さんが出会うよりも先に、私が青島と出会っていたら、何か変わっていただろうか?
室井さん、貴方と私との関係は、何も変わらずに済んだだろうか?
青島、お前は―――お前が今室井さんに寄せているような信頼を私にくれただろうか?

世の中には。
考えてどうにかなる事と、どうにもならない事がある。
考えてもどうにもならないものに拘るのは、愚か者のすることだと、新城は常々思っていた。
だが、今の自分の思考は、結局其処にしか辿り着かないのだ。考えるのを止めようとすればするほど、時間を止められた深い闇の底に放り出されたような錯覚が纏わりつき、新城の身体を重くする。
今夜も眠れないようでは、困る―――
半ば諦めながらも、新城は、朧夜の底を自宅に向かって歩き出した。
その、背筋をピンと伸ばした小さな体躯を遥か彼方の上空から、月だけが見ていた。

おまけ
新城が車中の人となっていた頃―――
まだ本庁に残っていた島津一課長が、捜査員の一人に声をかけていた。
「今日は、湾岸署からの報告は?」
「それが、珍しく、ありませんでした」
「そうか―――それは良かった。全く、あそこの署長は、何を考えているのか解らんよ。確かに新城君は、青島刑事の扱った事件について、過去のものを参考にしたいから、関連資料を逐一上げるようにと要請したらしいが・・・何も、勤態まで一々報告してこなくても・・・ねぇ」
「全くです・・・」
連日、湾岸署から最低でも三枚(就業報告、出動報告、残業報告)は送信されてくるFAX用紙の束を手に、溜息をつく島津一課長と捜査員を、月だけが見ていた。
翌日。
「あー、秋山君、昨日の青島君の報告、本店に上げてくれたよね?」
「は、私は、存じませんが・・・袴田刑事課長から直接、報告したんではないかと」
「あ、そう? 報告さえ上げといてくれればいいのよ。ほら、あの管理官、怖いじゃない、ねぇ? 何でもかんでも上げときゃ、文句言われることないでしょ?」
「それはもう、署長のおっしゃる通りで・・・」
今日も平和な、警視庁湾岸署署長室の朝の風景がそこにあった・・・

(1999/3/5)


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新城さんのポジションをどうしたらいいか決め兼ねていた時に書いたものなので、結構グズグズしていますね。でも、私の中の新城さん像って元々こんなものかもしれない(笑) キーワードとしては『不器用』『偏執狂的傾向』『欲張り』『保身』…ちょっと、私、本当にカケイストなのか?!(爆)
元々、「風邪」と「湾岸署の極めて平和な一日 −もう一つの『風邪』物語−」と「月だけがみていた −『風邪』番外編−」は一つの物語でした。正味一日半の出来事をこんなに長々と書いて、視点がごっちゃになった為、強制的にぶった斬りました。しかも、この「月だけが見ていた」は、最後がメンドくさくなって無理矢理終わらせてます。苦情は遠慮無くメールして下さい。精進します。