桜幻想




珍しく大きな事件は無かったものの連日何処からともなく湧いてくる細かい仕事に追われて、うんざりするような書類の山を減らせるところまで減らしたその日の夜、一本の電話が入ってきた。
「花見?」
「ええ・・・宴会する程の時間は取れないけど、1時間くらいだったら・・・ね?」
受話器の向こうの声が、遠慮がちに私の都合を伺っている。
「今夜、これからか?」
それでも、時計は既に22時をまわろうとしている。
「俺、明日泊りだから今日なら、と思って・・・あ―――やっぱ、忙しいっすよね・・・」
職務に関することであれば一歩も譲らない強引さを見せる男が、ことプライヴェートとなると途端に必要以上の気を配ってくれる。そんな愛しい存在に自分のささくれ立った神経が宥められていく。
「構わん・・・私も、じきに上がれる―――で、何処に行けばいいんだ?」
「え、ホントに付き合ってくれます? やったっ! あ、それじゃですね・・・」
心底嬉しそうな声の主に一刻も早く逢いたくて、待ち合わせ場所を記したメモ用紙を掌の中に小さくたたみ込み、私はそそくさと本庁を後にした。

「室井さーん」
改札を出ると、見慣れたモスグリーンのコートが軽く手を上げて合図する。4月に入ったばかりにも拘わらず、急な冷え込みがぶり返してきたお陰で、街行く人々の大半がコートの類を身に纏う日々が続いていた。かくいう私もトレードマークと化した黒いコート姿のまま、この隅田川沿いのJR駅に降り立ったばかりだった。
先に着いていた青島は、咥えていた煙草を駅構内の灰皿に押し付けると、私に向き直ってにっこり笑った。
「結構、早かったっすね―――こっちです、行きましょ」
促されるままに驛舎を出て、並んで歩き始めた。最初の信号が赤になり、立ち止まったところで訊ねる。
「で、ここから何処へ行くんだ? 墨堤沿いか?」
「まさか―――今日金曜だし、あの辺、花見客でごった返して、事件になりそーなトラブルの種もいっぱい撒き散らされてるでしょ。あんなトコ行ったら、俺達、この後も仕事する羽目になりますよ、多分」
それはそうだが・・・しかし、この辺で桜と言えば、誰だって隅田川両岸に跨る隅田公園の桜並木を思い浮かべるだろう。
私の訝しげな眼差しを受けて、青島が小さく笑った。
「この近くにね、ちょっと大きい公園があるんです。そこの桜、すっごく奇麗なんですよ」
とっておきの秘密を打ち明ける子供のように鳶色の瞳をキラキラさせて、私の一番好きな笑顔を惜しげもなく見せてくれる―――三十過ぎの、己と同じ理想を持つこの男が、自分にとって失うことなど考えられないくらい大切な存在になってどれくらいの時間が経っただろうか。決して世間に公に出来ない関係になってから日はまだ浅いが、共に過ごした時間の全てが私にとってはかけがえのない宝物のように思える。
控え目な街灯に照らされた夜道を私達の影だけが滑っていく。通りを挟んで前方に見えてきた店明かりを認めた青島が、私の横顔に視線をチラリと投げかけた。
「よかった、まだ開いてた―――この辺、一軒しか無いんですよね、酒屋。大通りの方へいくとコンビニがあるんスけど、どこも酒、置いてないんで・・・」
目だけで(飲むでしょ?)と訊かれて、無言で頷く。青島はさっさと店内に入り込み、酒類を物色しはじめた。
こんなに寒い夜ともなれば熱燗でもつけたいところだが、外で桜を見ようというのだから下手に酒を呷って身体を熱くするのも考えものだ。結局、缶ビールを4本とおつまみサイズの柿ピーを56袋おまけにつけて貰って閉店間際の酒屋を後にした時には、時刻は既に23時近かった。
人気の無い夜の公園は、静かに眠っているようだった。
側道から園内に足を踏み入れたすぐ傍に、案内看板があった。一見三角形のような台形の敷地で、よく見ると交差する二つの大通りへ面していている。公園の真ん中には大きな記念堂が聳えており、大通りの一つへ面した出口―――多分、そちらが正門なのだろう―――の脇には洋風の資料館が見える。
その正門の方からエントランスのように広場が続き、両脇にはかなり背の高い銀杏の木々が連なっている。銀杏並木の右側に資料館が、左側には日本庭園風に流れがつくられていて、池の中には鯉も放されているらしかった。
図面で見る限り、記念堂と資料館の占める割合がばかにならないのだが、一歩一歩公園の奥へと進んでいくにつれて、上空に向かって拡がりを感じさせる不思議な空間が目の前に開けた。私達は記念堂の裏側から正面へとまわりこみ、ぽっかりと宙に浮かんだような広場に辿り着いた。
「変わった公園だな・・・普通、真ん中にこれだけ大きな建造物があったら、敷地が狭く感じられる筈だが―――妙な奥行きがある・・・」
私は自分の第一印象に逆らわず、思ったことを口にする。
青島は一瞬きょとんとしたが、すぐに同意した。
「そーですね・・・俺も初めてここ来たとき、そう思いましたよ。周りに高い建物が無いからっすかね?」
そう言われて見回してみると、確かに都心になら林立している高層ビルの類が一切無い―――そこそこの高さのマンションや雑居ビルがあるにはあるのだが、それらが公園内の背の高い木々に遮られて、視界の邪魔にならないせいなのだろうか。
広場から日本庭園の方に向かうと、記念堂を挟んで先程自分達が入ってきた側道のちょうど反対側に出た。更に少し進んで、石のベンチが幾つか設えてあるコーナーに向かう。ベンチの殆ど真上に覆い被さるようにして、淡い色のビロードのような小さな花を幾重にも纏った見事な桜の木が大きく枝を拡げていた。
「これは・・・」
『綺麗だ』とか『美しい』とか、ありきたりの賛辞を口の端にのせるのが躊躇われるほどにあでやかな―――夜気を通じて伝わってくる、仄かな香りがむせ返るようなものである筈がないのに、まるで頭の奥からクラクラと眩暈を感じるような。
「凄い―――」
思わず口を開けて見蕩れてしまった私の袖を青島がそっとつつく。
「こっち、座りましょ」
ベンチの一つに腰を下ろすと、コート越しにもヒヤリとした石の感触が伝わってくるような気がした。正面を記念堂の側壁に遮られているからか、風が吹き込んでくることが無く、慣れてしまうとあまり寒くない。半透明のビニール袋を足元に置いた青島が、中から缶ビールと柿ピーを取り出して寄越した。プルトップを引き上げ、缶同士を合わせて乾杯する。冷たいビールが喉に程よい刺激を与え、不思議と気持ちよく感じられた。
頭上には、夜空をバックにしているせいか薄紅色というよりも純白に近い色の桜の花が、零れんばかりに咲き誇っている。もちろん公園内には他の場所にも幾本か桜の木が植えられていて、その何れもがほぼ満開の様子を呈していたが、今私達の座っている後方にたおやかに佇む巨木が傑出した見事な姿を誇っているのは一目瞭然であった。少し顔を上げただけで、まるで桜の花の中に埋もれているような錯覚に襲われるほど近くに花をつけた枝は、今にも降り注ぎそうな花びらを懸命に風に攫われまいとしているようである。
辺りに人の気配は皆無で、遠くから聞こえてくる車の行き交う音だけが、微かに耳につく程度だ。日本庭園の背の高い木立を後方に従え、記念堂の黒々とした壁に前方を切り取られた奇妙に落ち着ける空間に、青島と二人、閉じ込められているような気がした。通りから洩れてくる僅かな水銀灯の光を受けて白く輝く雪のような花びらが、静かに私達の間で舞いを舞う。
暫く無言で花見をしていたが、青島が私の方に身体を寄せ、耳元に囁いた。
「ね、ここ、なかなかイイでしょ? 人、いないし、静かだし・・・」
「ああ―――よく、こんなところ、知ってたな。管内でもなんでもないだろう?」
青島の悪戯っぽい瞳が私の視線を捕えた。私よりも上背があるのに、一緒にいると少し背を屈めて下から掬い上げるようにこちらを見つめてくる。この上目使いの、下方から人の気持ちを絡めとるような表情が、私の心臓を締め上げるほどに魅力的なものであることをこいつは知っててやってるのかと疑いたくなる。
「正門の方の角にね、派出所、あるんです。あそこに前、警察学校の同期がいたことがあって・・・それでここ、何度か来たこと、あんですよ」
青島も私もこの世に生を受けてから警察機構の中で出会うまで、共に三十年近くを別々に歩んできた。育った環境も受けてきた影響も違って当然で、様々な交流や付き合いがあっただろうというのは解っているのだが・・・
「そうか」
平常心を装って答えてはみるものの、心には一抹の寂しさが巣食う。
私が彼に友情以上のものを求めて恋焦がれ、青島もそれに応えてくれて、今二人でこうして一緒にいる。こんな夜更けにたった数時間でも逢えるのなら逢いたいと連絡してくるこの男の心の大半が私のことを占めている事実を疑っている訳でもないし、ましてや不満に思っている訳でもない。だが、私よりも人付き合いの良い、他人と接する術をよく心得ている青島の口から自分の知らない交友関係を聞かされると、何故か不愉快になる。私のような仕事漬けのつまらない人間の傍らに、この明るく知己の多い魅力的な男がいつまで一緒にいてくれるのかと不安になってしまう。
「室井さん、どしたの? あ・・・もしかして、酒、足りないとか?」
押し黙ってしまった私を心配して、青島が覗き込んできた。
「大丈夫だ・・・足りてる。いいから黙って、花を見たらどうだ」
この男に関することであれば、どんな些細なことであっても胸騒ぎを覚える程に自分が子供じみているとは思わなかった。そんな心の動揺を隠そうと、つい説教じみた口調になってしまい、自嘲する。青島が頭を掻きながら、少しばかり責めるような目で私を見た。
「黙って―――って、そりゃ、奇麗なモン前にすると、言葉が出なくなるって言いますけどね・・・せっかくだから、話、しましょーよ。最近忙しくて、俺達、ロクに逢えてないんスから」
その、拗ねたような物言いが愛おしくて、つい頬が緩んでしまう。ちょっと何、笑ってんスか―――と尖らせた口ですら可愛いと思えるのだから、私の感性はとっくに常識の枠から放り出されてしまったといっていいだろう。
気がつくと私は、栗鼠のように頬を膨らました青島を前にくすくすと笑いだしていた。
「いや、つい・・・その、すまない」
「もー、笑いながら謝られても、真実味が無いっすよ。室井さん、全然、ワルいと思ってないでしょ?」
まさか、君があんまり可愛い顔をするからだ―――とは言えず、一頻り笑わせて貰った。漸く息を整え、もう一度、きちんと詫びる。
「本当に―――すまなかった。笑うつもりじゃなかったんだが・・・」
「別に、いいっすよ、もう。」
特に怒っている様子では無いがプイと顔を背ける仕種に、やはり機嫌を損ねてしまったかと気に病む間もなく、穏やかな言葉が降ってきて私を安堵させる。
「室井さん、いつも顰めっ面だから・・・俺といて、笑ってくれると嬉しいっすよ。でも、人の顔見て笑うのは、いくら何でも失礼だよなー・・・性格、悪いって言われたこと、ありません?」
ブツブツと恨めしそうに呟くその姿は、緩く香りの立ち込める桜の天幕に覆われながら、それでも、とても寛いでいるように見える。
「ああ、言われたこと、無い」
「あんね―――その言い方、ホント、可愛くないっすよ」
「お前に、可愛いと言われたくないぞ」
寒空の下でごまかし程度に飲んだアルコールの力を借りなくても、何時からか私も青島の前ではかなりリラックスして自分を出せるようになっていた。付合いはじめた最初の頃は、この年下の一途な男に何処まで自分を曝け出していいものか、戸惑いと矜持に随分と悩まされたものだった。自分で自分の気持ちを扱いあぐねて、青島当人に嫌な思いをさせたこともあったのだろうが―――彼はいつでも、その時々に彼の持てる精一杯の力で私の我侭を受け止め、消化してきてくれた。時に組織の濁った水に溺れそうになる私の身体を引き上げ、腐敗土に足を取られた私の手を取り導き、穢れた取引きに身を任せそうになる私の心を真正面から糾し励ましてくれた。
いつも真っ直ぐな瞳を逸らさず、絶対の信頼と、好意―――というには複雑すぎる感情を差し出されて。
自分の中にかなり以前からあったものとほぼ同じその想いを受け取る決心をしたあの時から、私達はただの同志では無くなり、お互いにとって唯一人の存在となり得た訳だが・・・
何故、この男が自分にとってこれほど大切なのか、理由など考えるだけ無駄なような気がしてくる。
持て余していた感情の正体を認めたくないと思いながらもそれに対峙するつもりになった当初は、一般的には首を傾げたくなるような気持ちを持つに至った原因に説明をつけ、何とか自分自身を納得させようと、頭の中で様々な言い訳と理屈を捏ねくり回したものだった。
だが今は、私の前で無邪気に笑う、柔らかな陽光を思わせる笑顔を見せてくれるだけで―――それだけでいいと思ってしまう。この男が傍らにいてくれるだけで、幸福だと感じる自分に満足してしまう。
音の途絶えた宵闇に、幽玄の美を纏った大木を背にした青島が上空を振り仰いで呟いた。その伸びやかな姿が何か特別なもののように思えて、私は眼を見張る。
「そういや、なんかの本にありましたよね・・・桜の咲いてる下で、男が女を殺しちゃった―――っての・・・」
「『桜の森の満開の下』だろう・・・山賊と魔性の女房の話だ。満開になった桜の木の下では、風がないのにゴウゴウと音が鳴り、魂が散っていのちがだんだん衰えて行くようで、気が狂いそうになるから人々は怖れて近付かない・・・気がつくと山賊の背負っていた女房が鬼の姿になった―――」
「あ、そうそう、それ―――で、絞め殺しちゃうんスよね・・・暫くして見たら、死んでたのは自分のかわいい女房だった」
「その屍体の上にひそひそと花びらが散り続け、山賊が途方にくれて泣き佇む・・・」
「狂気に浮かされて、殺しちゃうなんて―――やっぱ・・・桜の木って、人を狂わせるもんなのかな・・・?」
話の展開が理解出来ず不思議そうな顔をした私に、青島は日本庭園側の外の一般道を指差した。
「そこの通りの向こう―――見えます? 私立高校なんスけどね」
指し示された方角には、背の高い木々の合間から、いかにも校舎という感じの建築物が見え隠れしている。
「何年か前の今くらいの時間に、あの辺りで塾帰りの女子高生が襲われたんです―――幸い、巡回中の警官が現行犯で取り押さえるのに成功して、大事には至らなかったんスけど」
青島が首だけを捩って、その一角に派出所があるという正門の方を見遣った。
「逮捕したのが、その、俺の同期のヤツで・・・同じ頃、俺も吉田のおばあちゃん家に入りそうだった空巣、捕まえたんで、同期会で再会した時に色々熱く語り合っちゃいましたよ」
先程、自分の胸に刺さった小さな棘がチクリと音をたてるが、青島の話はまだ続く。
「確かに、この公園自体かなり広いし、学校の校舎って夜、宿直が一人いるかいないかだし・・・とにかく道の両脇、人ッ気ゼロでしょ―――悲鳴上げても、この辺、いわゆる人家も少ないから・・・」
淡々と告げる青島の横顔が真綿のような花をバックに揺れたように思えたのは、気のせいだろうか。
「被疑者はごく普通の、この近所に住んでる二十代後半の独身サラリーマンで、初犯―――ホント、魔がさしたって言うのか・・・計画的な犯行じゃないってのは、直ぐに解ったんスけど。だって、幾ら人通りが無いったって、大体、こんな近くに交番があるトコで襲わないでしょ―――」
「まぁ、普通はそうだな」
「事件があったその日、ね・・・桜が―――ここの桜が狂おしいほど綺麗だったって・・・後で取調べした刑事に、その男が放心したように言ったって・・・同期のソイツが話してくれたのが、今でも心に残ってて・・・」
軽く目を瞑った青島の浅黒い肌が、砥粉色と一斤染を混ぜ合わせた淡い淡い花の光を受け、くっきりと輪郭を描いて浮かび上がる。
「よく、新月とか満月とか・・・月が人を狂わせるって言いますよね。欧米じゃ、そんな研究もあるみたいだけど・・・こんな、奇麗な桜なら―――花に狂わされること、あるかもしれないっすね。満開の桜の花の下で熱病に浮かされたように、狂気に誘われる人間もいるのかもしれない・・・」
青島がふわりと微笑んだ。上質の紗を重ねあわせたような春雪色の桜を背にして、蕩けそうなほどに艶やかなその笑みに私は魅入られて、息をすることも動くことも出来ない。
青島―――お前は知っているか?
どれほど私が狂おしく、お前のことを想っているか。
この満開の桜の木と同じように、お前という存在に魅入られて、私の胸がどれほど熱く恋焦がれているか。
驚くほど強く途方も無い信念を持ったお前に心を奪われ、手放したくないと思った時から、私の歩む道は真摯な正義に裏打ちされた確固としたものとなったが、同時に険しい崖っ縁の上を手探りで進んで行くような危険を孕むようになったのも事実だ―――しかも、公私共に。
それでも後悔はしていない。お前と出会ったのは私の運命だったと思っている。
歓迎されることのない関係でも、少しづつ時間を積み重ねていくことで脆く崩れそうな足場を徐々にしっかりしたものに変えていくことが可能かもしれない。
いつか、離れ離れになる時が訪れるとしても、それまでは地道に努力と忍耐を惜しまないようにすることで、私達二人が一緒にいられる時間を少しでも長くする確率を高められるかもしれない。
その僅かな望みを頼りに、お前と二人、前だけを見て歩いていこう、と思う。
青島―――これからも私と共に、いてくれるか?
上空にたなびいていた雲が緩やかに動いて、空中に淡雪のような花びらをひとひらづつ舞わせ始めた。私の手が一回り大きな青島の手に包み込まれる。
「やっぱ、少し風、出てきちゃいましたね・・・室井さん、手、冷たい」
「お前の手は、暖かいな」
「そりゃ、俺の心とおんなじっすから。手の暖かさは心の暖かさの証拠―――ってね」
「逆だろう・・・『手が冷たい人間ほど心は暖かい』と言うんじゃ、ないのか?」
青島の瞳が私に向かって苦笑する。
「室井さん・・・ほんっとに、可愛くないっすね〜」
「お前に可愛いと言われたくない、と言ってるだろう」
こんな他愛のない事で巫山戯合っている時間ですら、私は輝く宝石をまた一つ手に入れたような気分になるのだ。
お前といられる時間の一分一秒が惜しいほどに、私は―――青島、お前に参っている・・・
きれいに飲み干されて残骸と化した缶を手早く纏めると、青島が私の手を取ったまま立ち上がる。
0時、まわっちゃいました。終電、行っちゃったかも」
全然困っていない口調から、この後どうするかについては自分と同じ事を考えているに違いないと確信する。
再び並んで歩き始め公園を出ると、一応、駅の方角へ足を向けた。隅田川が近いせいか、仄かに香る若葉の匂いに混じって、風の中に川面を渡ってくる湿気が含まれているのが感じられた。お互いの肩が触れるか触れないかくらいの距離を保ちつつ、今や人通りの完全に途絶えた街を愉しむ。点滅信号に変わった交差点の向こうには、高架の線路が見えている。
「身体、すっかり冷えてきちゃった・・・室井さんも、でしょ?」
「ああ。早く風呂にでも入って、暖まった方がいいだろう」
私達は顔を見合わせ、各々の表情から読み取った思惑に納得して、駅の向こう側を目指して歩き出す。
「来年は、もっとゆっくり、花見、出来るといいっすね」
「そうだな―――今年は時間が無さすぎた」
駅前ロータリーにさしかかった矢先、すぐ脇の植込みにそこそこの高さの桜が三本あるのが視界に入ってきた。先程堪能した公園のそれとは比べるべくも無いが、それでも華やかに咲き零れている淡い色が夜風に煽られ、舗道に降り注ぐ花吹雪の量を増しつつある。やはり薄紅色の、満開の花びらを頭上に冠して、青島が秘めやかに私に囁く。
「室井さん・・・来年も、また一緒に桜、見ましょうね―――約束っすよ」
「ああ、約束だ」
今度、二人で桜を見る時は。
日常の雑事や煩い人目を気にしないで済むような自然の中がいい、と思う。
何処か遠くにある桜の森で花見をして、お前の存在だけに狂い、酔いしれることが出来たらいい、と思う。
どんな場所であるにせよ、青島、お前は桜の下で、ただひたすらにその美しさに感心して表情を和らげるだろう。
そして私は、満開の桜の花の精のように微笑むお前を目の当たりにして、相変わらず恋焦がれて魅入られて、声も出せず立ち尽くすばかりだろう。
来年こそは。
そんな、ささやかな望みが叶えられることを願って。
明日をしっかり踏みしめて一歩づつ進んでいくことが、共にいる未来に繋がっていくことを固く信じて、私達は甘い匂いのする夜の道を歩いていた。

(1999/4/8)


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室井さん一人称です。忙しくて花見の出来なかった自分に代わって、二人に花見をしてもらいました。
当初、青島くんの警察学校の同期の友人というのは、プロットにありませんでした。桜にかこつけて坂口安吾の『桜の森の満開の下』を語らせたくて、その延長上の話として暴行犯エピソードを作って、で、公園脇の派出所の警官に逮捕させて、その警官が青島くんの友達だったらこの公園知ってた理由になるし…という作り方だったんですが、書き出したら室井さんが勝手に悶々としてくれて(笑)、ああなりました。彼らの場合、お互いの知らない同性の友人というのも結構気になるだろうとは思うけど…でも、室井さん、あれくらいでヤキモチ妬くなよ…(爆)
他愛無い話を書きたかったんですが、どうでしょうか…