明日は晴れるか




カツカツと、耳障りなほどに足音が響き渡る。いつ来ても落ち着かない処だ。
東京都千代田区霞ヶ関211に威風堂々と聳える建物が、警視庁だ。通常、『桜田門』と言えばここを指す。狸穴が『ロシア大使館』の別称になっているのと同じようなもんだろう。
二年前はよく運転手としてここに通わされたものだった。刑事になりたての俺の初仕事が、本庁つまり本店の管理官付運転手。捜査の『そ』の字も感じられないようなものだった。今考えると懐かしい思い出になりつつある。とはいえ、ひとたび湾岸署に特捜でも立とうものなら、相変わらずの道案内兼運転手を務めさせられる確率は以前とさして変わらない。
で、今日、なんで俺が本店にいるのかといえば―――何のことはない、ただのお使いである。緊急を要する書類だからと、支店の人間自らお届けにあがったという訳だ。
「真下君一人じゃ、何かあったときにお父上に申し訳が立たないから、ね」
―――って、おい真下・・・お前、歳いくつだよっ?!
という俺の心のツッコミをキレイに無視してくれる刑事課長の隣りで当然のような顔をしてる真下にも呆れるが、これがここ空き地署の常識なんだからしょーがない。俺は「はいはい」と頷き、年下の係長、真下警部のボディガード兼運転手として、こうして桜田門までお供してきたという訳である。
届け物の落ち着く先は、3階の刑事部捜査一課課長席。真下にとっては特にどうということのない場所なんだろうけど、昔、応援で一度呼ばれたものの、結局、頭に来て思わずケーサツ辞めてやる!とブチ切れた俺にしてみりゃ、およそ好きな部屋じゃない。無機質で、『人』が働いているというより『コマ』が動いているという印象が強いからなんだろう。
島津一課長は席にいなかった。
真下が近くの席にいた男に書類を届けにきたことを説明する。胡散臭そうに俺達を見ていたくせして、『真下』という名前を聞いた途端、その態度がしゃちほこばった。かの、第一方面本部長との血縁関係をすぐさま察知したのだろう。こういうところは、いかにも本店だよなあと思う。
出入り口で一礼した俺達は、味気ない廊下をエレベーターホールへ向かって歩き出した。この気詰まりな空間から早いとこ逃れたくて、自然と足が進む。
俺と真下が肩を並べて歩いていると、突き当たりの角から人影が曲がってきて、姿を現わした。当然、こっちへ向かって歩いてくる。さすがに大人三人が同列に歩けるほど広くないスペースを考えて、俺の歩幅がやや狭まる。数メートルも進まないうちに真下の後方位置へ退くことが出来た。
更に数歩進んで、前方の顔へ見覚えがあることに思い至った。それは彼が一度湾岸署へやってきたことのある人物だったからだ。もちろん、真下も気づいていたらしい。俺より先にすれ違った後姿がさっさと会釈していった。俺も前方の係長に倣い、軽く頭を下げようとして―――いきなり腕を掴まれた。
ほんの一瞬だけ、俺と相手の動きが止まった。
「な・・・」
俺が問いかけらしき科白を口にするよりも早く、落ち着きのある声が囁いた。
―――公安が張りついている。気をつけろ。外部の誹謗中傷よりも内からのスキャンダルの方が致命的だ。
早口で呟かれた言葉が俺の中にその意味を形成してきた時には、既に腕が自由になっていた。
(・・・? 公安・・・って?)
思わず、振返る。がっしりとした背中が黙々と距離を置いていく様を俺は呆然としたまま見送った。
「せんぱーい、どうしたんですか?」
前方から、声がかかった。どうやら、後ろがついて来ていないことに気づいたらしい。
「一倉さん、何か用だったんですか?」
辺りに人がいないことを素早く確認した後、俺は小走りで真下が立ち止まっている位置へ追いついた。
「いや・・・何か、よくわかんないこと言われたんだけど―――」
心配そうにこちらを窺う瞳を前にして、適当な相槌をうつ。っていうか、コッチだって何のことだか、サッパリ解らない。俺達は再び押し黙って歩き始める。
エレベーターを降りて、駐車場内を車へと向かう最中に、真下がポロッと呟いた。
「そういえば、さっき会った一倉さん―――今、警察庁にいるって話でしたけど」
「警察庁・・・?」
なにしろ俺達所轄からしたら、本店勤務というだけでも充分『雲の上』の存在なのだ。更にその上の警察庁、各都道府県警察を統括する官僚達で占められる組織ともなれば、誰が何処にいるのかということなど、全く別世界の話に思えてしまう。
「ええ。何でも、やり手の官僚候補として、かなり評価されてるらしいですよ」
「フーン、そう・・・」
ポケットからキーを出して、車のドアロックを解除した。俺が運転席に乗り込むやいなや、真下はごく自然に助手席へ納まった。
今、ここに袴田課長がいて、これを見たら「ちょっと、青島君! なんで、後ろの席、使わないの? 事故にでも遭ったらどうするのよ?!」と喚き出すかもしれない。けれど俺は、敢えて後部座席へ乗り込もうとしない真下のこの謙虚さっていうか、己をちゃんと解っているところが、こいつの良さだと思っている。キャリアの場合、本人が望むと望まないに拘わらず、ふんぞり返らなければならない日々がいずれやって来るのだから。
エンジンをかけて、ゆっくり発進させた。そうして、日比谷通りへ出た途端、早くも渋滞を忍び寄らせ始めている夕方の喧騒と遭遇した。
正面へ顔を向けたまま、真下が話しかけてきた。
「ねえ、先輩―――先輩の入院中に、室井さんの降格が差し戻されたじゃないですか」
俺は見渡せる範囲内の赤信号の数に意識を集中させながら、相槌代わりに頷く。
「僕、思うんですけど・・・あれは、一倉さんが後ろで糸を引いていたんじゃないか―――って・・・」
「・・・へ・・・?」
つい先刻、御本人を拝んだばかりだからといって、なんで、そうなるんだよ・・・?
急に振られた話題は予想外もいいところだった。どう対処していいか判らなくて咄嗟に発した俺の声は、果てしなく間抜けたものにしかならない。
だが、真下が返してきた科白は、何かしっかりした事由に基づいているかのような真剣さを帯びている。
「だって、ヘンですよ。物事があんなに都合良く、一斉に起る筈、ありません!」
室井さんが参事官へ返り咲いた時の話は、俺も後から聞いて、一通りの流れを把握している。俺が刺されて、室井さんが降格させられて―――その直後に起きた出来事だった。
一連の告発騒動に巻き込まれていた当時は、とにかく大変だったそうで―――後で、署長や副署長には「君がいない間の出来事で、本当に良かったよ〜」と真顔で言われたくらいである。全くもって、失礼だよな。
そして、終わってみれば結果は然り―――世間の怒りを鎮め納得させる為に、理不尽な降格は差し戻された。この件に関して煮え湯を飲まされた警察上層部からすれば、面白くないことこの上無いに違いないのだが、そのまま何もせずにいて更なる警察批判を膨れ上がらせるよりも、降格処分取り消しで済ませる方が得策だと判断したようだ。さすがに、一般大衆をどこまでも敵に回すほど愚かではなかったらしい。
「でもさ、結局、犯人は判らずじまいだったんだろ?」
「だから、組織的なものを感じるんですよ」
「何でよ?」
「大体、偶然が重なったんだとしたら、何人かはボロ出してもおかしくないと思いません? それが、誰一人、捕まってないんですよ?」
確かに、結構な数の情報提供者がいたという話だったが―――
「タレコミなんて、身元バレちゃ、しゃーないって・・・民間人はとにかく、警官なら尚更だっての―――プライドにかけても尻尾掴ませないっつーのが、現職警官の意地ってモンでしょ?」
真下が(判ってないですねぇ)と言いたげに、溜息を吐いた。
「相手は公安警察ですよ? 我々と違って、その道のプロなんです。しかも、今回の事件はいわば内部の不祥事が発端になっているようなもんでしょう? 相当、血眼になって調査したらしいって―――第一、連中の目を潜り抜けるのは、並大抵のことじゃないんです」
「それで、誰かが陰で糸引きしてたってことになるってか? あのねえ、真下君―――それこそ、公安が一発目に考えそうなことじゃんかよ」
「当然、そういう線でも当ったでしょうね。だからこそ、その追及をかわして逃げ切るには、それ相応のアタマが無ければならないんです。優秀な指揮官がいたに違いないんですよ!!」
「あのさ・・・」
食い下がるその声にだんだん熱が篭ってきているのを牽制するつもりで、
「で、ソレがどうして、一倉サン―――つーことになる訳?」
そう切り返した途端、真下が息を呑んだ。その気配はすぐ隣でハンドルを握っている俺に伝わってきて、不思議な緊張感を車内に漂よわせ始めた。
俺は、努めてさり気なく聞こえるように、
「室井さんと同期だから、とか、そんな理由はナシだぜ?」
と、軽口を叩いたのだが、隣の顔色はどうもスッキリしない。
集中力の大半を運転業務へ向けながら、俺は真下を横目で軽く睨みつけた。なんか知ってんなら、勿体つけんなよな―――ハンドル握ってなければ、小突いてやりたいところである。
どう見ても育ちのいいボンボンにしか見えない真下だが、こいつの情報網は決して侮れない。第一方面本部長御令息に東大卒キャリアという、警察機構内ではまるで水戸黄門の印籠の如き威力を発揮するバックボーンと経歴もさることながら、本人の人懐っこさや適当に礼儀正しい性質がプラスに働いて、意外なほど多くの人の隙間に入り込み、その胸襟をするりと開かせてゆく。そうして、一見人畜無害な男の前に貴重な極秘情報が差し出されることになるのだ。
『営業』という前職を経験していたお陰で、俺も人の設けている垣根を比較的容易く乗り越えられる方だと思っているが、なんつーか、真下の場合はもう天性なんだろう。俗に言う『なんとなく憎めないヤツ』であり、得な性分には違いない。
その真下がこうまで頑なに言い張るのには、何某かの揺るがない根拠があるに違いなかった。室井さんの降格差し戻しについては既に済んだことだから、今更穿り返したって何かが変わる訳ではない。だが、真下の言うように、誰かが率先して動いていたのであれば、その人物が室井さんにとって今後も味方でいてくれる種類の人間なのか、それとも別の目的に基づき降格処分取消しを狙ったのか、知っておいた方がいいような気がした。
走行注意の必要な視界全てに気を配るかたわら、そっと隣の横顔を盗み見た。真剣な顔つきで前方を凝視している様子を目にする限り、巫山戯ているようにはとても思えなかったので、
「お前がそうまで言うってことはさ―――なんか、証拠でもあんの?」
と、更なる追い討ちをかけてみる。
誰かに聞かれていないかと気にするように、一頻り周囲をキョロキョロと見回した挙句、真下が少し運転席側へ頭部を傾げてきた。全く、走行中の車ん中でそんなことやっても意味ナイだろうが・・・と思ったが、敢えて口には出さないでおく。
「これ、本店の同期から仕入れた情報なんですけどね―――」
お得意のフレーズが飛び出した。俺は黙って頷き、次の科白を待った。
「告発メールに科研のメールアドレスが使われてたじゃないですか。あの騒ぎが起きる数日前、一倉さんが科研を訪ねているんだそうです」
話の行く先にてんで当りがつけられない俺は、目で真下に続きを促す。
「あそこって、プロファイリングの連中がウチに来たみたいに捜査協力で外に出向くことはしょっちゅうなんですが、逆に外部の人間が出入りすることは少ないんです。まあ、科研自体が一種の研究機関みたいなところですからね」
そうは言っても、のっぴきならない用事があれば、外部の人間自ら足を運ぶことくらい、するんじゃないだろうか。
「しかもですよ―――湾岸署に来た三人のうちの一人・・・確か、黒の皮ジャン着てて、一番生意気だったヤツ―――」
「中央君?」
「・・・先輩、よく名前、覚えてますね」
「だって、俺、あいつらのお守、させられたもん」
前職がコンピュータ業界だったというだけで選ばれたお役目だったのだ。個人的には、悪い連中じゃなかったと思うが、全てをデータに頼り、その結果弾き出された結論を信じて疑わない性急さと強引さに、疑問と驕りを感じさせられたっけか。
「そういえば、そうでした―――とにかく、その中央ってヤツに一倉さん、時間取らせてるんですよ。で、その数日後に例の告発メールが出回って、科研中が大騒ぎになったんです」
・・・・・・? おい、それだけで首謀者扱いかよ〜?!
半ば呆れた俺は、思わず真下の顔を見つめていた。だが、こちらの非難を込めた眼差しは全く伝わらなかったようで、真下は確信を漲らせた瞳を俺の方に向けてきた。
「それに一倉さん、吉田警視副総監にも直に面会を申し込んでるんです。警察庁の人間、それも一警視正が、ですよ。絶対、怪しいと思いませんか・・・?」
「でもさぁ・・・それだけじゃ、何の証拠にもならねーじゃん。お前、逆に名誉毀損で訴えられるぜ」
この、荒唐無稽な推測に、さすがの俺も心の中で溜息を吐いた。大体、公安も特定できなかった真犯人(という言い方にはやや語弊があるけど)を所轄でのうのうとしているキャリアの卵に見破られちゃあ、それこそ警備公安警察も面目丸潰れである。
そうはいっても、俺は真下のカンを馬鹿にしている訳ではない。必ずしも高い的中率は期待出来ないが、時々、正真正銘のビンゴとなることがあるからだ。こと、この件に関してはキャリアの裏事情に詳しいこいつが言うことだけに、妙な信憑性を感じさせられもする。
「で、一倉さんが本当に黒幕だったとしたら、どうだっての?」
「別に、どうかなる訳じゃありませんけど・・・あの人は東法(とんぽう)ですからね、これからも警察機構の中心を歩いていくことになると思うんです。優秀さでは折り紙つきですし、一部では次期昇格でもトップをいくだろうっていう噂です。だから、そういう人が室井さんの味方だったら、心強いと思いませんか?」
そういや室井さんは、こいつの『憧れの君』だったっけ―――
俺は「そうだな」と同意した。
東北大出身者の室井さんが上を目指していくのに、東大閥を敵に回さないで済むのならその方がいいに決まっている。真下のような若手だって、数年後には本庁へ戻り、力をつけて室井さんの援護をすることが可能だろう。多くの現場警官が、室井さんに期待している。だけどそれだけでは、警察機構を変えられやしない。より多くの、指揮する者達の意識が改革されなければ始まらない。
俺達所轄の人間に出来ることは限られている。しかし、やがて上に行く真下や、同期の一倉さんが室井さんの味方でいてくれるのなら、それに越したことはないんじゃないだろうか。
言いたいことを全て吐き出して満足したのか、真下は大人しくなった。俺も、今度こそ運転業務に全神経を集中させる。レインボーブリッジを渡ればお台場、更にそこから少し走って我が空き地署へ帰還した頃には、とっぷりと日が暮れていた。

戻ってみれば、少し前に強盗通報があったらしく、飛び出す寸前の和久さんに腕を引っ掴まれた。忠犬にでもなった気分で、共に現場へ向かう。あわや被疑者逃走となり長引くかと思われたが、緊急配備にとっとと引っ掛かってくれて、比較的早く片が付いた。最近、また一段と賑やかになったこの界隈だが、それと比例して、ちんまい犯罪は増える一方だ。
刑事課へ戻って雑務をこなすと、東京テレポート駅へ向かった。いつもならそのまま真っ直ぐ地下に潜り込むのだが、今日はその近くのバス停から『浜松町』行きの都バスに乗った。
それでも殆ど終バスに近い時刻だったせいか、乗客は少ない上に、その大半が疲れきったサラリーマン達で占められている。週末や祝祭日になれば、この時間のこのバスも若者達でぎっしりになるのだろうか。
終点で降りた俺は、煌煌とライトアップされている東京タワー目指して歩き始めた。芝大門をくぐり、増上寺の左手を更に進む。信号手前で右に折れ、ホテルの敷地内に入ると、俺は携帯をポケットから取り出し、メモリナンバーをプッシュした。
僅か二回、コール音を聞いただけで、相手が出た。
「青島です」
電話の向こうの声は部屋番号を短く告げるなり、さっさと通話を切った。

数分後、俺は室井さんと久しぶりに顔を合わせていた。
多忙な参事官殿はここのところ自宅に帰るのもままならず、都内のホテルを宿舎としている。詳しい事情は俺も知らないが、現在手掛けている案件の性質上、連日ここで待機状態を強いられてるのだそうだ。官舎との往復時間さえも惜しいということなのだろう。
何しろ、相変わらず分刻みのスケジュールで動いているひとである。食事も満足に摂れないでいるんじゃないだろうかという俺の懸念は、見事に具現されてしまった。頬から顎にかけてのラインが一段とシャープになっていたのだ。
「室井さん、少し、痩せました・・・?」
「さあ、どうかな・・・体重は変わってないみたいだが」
それを聞いても俺が表情を緩めなかったからだろう、「そんな、心配そうな顔、するな」と真顔で諭された。
んなこと言われたって、安心できる訳、ないでしょうが?
抗議するようなコッチの視線に屈して、室井さんがバツの悪げに白状する。
「―――最近、昼食抜きが多くてな・・・」
鏡を見なくたって、今、自分がどんな顔をしているかは解る。険しいままの様子に慌てた室井さんが、俺を往なそうとして言葉を続けた。
「来週からは、少し落ち着くんだ。だから、ちゃんと食事は摂る」
「んなの、当り前です!」
極力、責めるような口調にならないよう、俺はゆっくりと言葉を選んだ。
「室井さんが俺達現場の人間の為に上に行こうと頑張ってるのは解ってるし、俺との約束を守ろうと決めていてくれるのは嬉しいっすよ。でも、そのあんたが倒れちゃっちゃ、しょうがないじゃないスか」
「そうだな」
澄んだ瞳が僅かに細められる。
逢うなり、相手の様子に厳しいチェックを入れてしまったせいで、部屋の空気が少々妙な方向へ流れ出している。このままだと室井さんに詫びを入れられそうな気がした俺はそれを避けたくて、頭の中へ思い浮かんだことを咄嗟に口走っていた。
「あ、そうだ・・・昼間、一倉さんに会いました」
室井さんの不思議そうな視線が、俺の心を安堵させる。なんとか、当面の話題を変えられそうだ。
「今日、真下と二人で使い走りに出されたんスけどね。そん時、本庁の廊下で偶然―――なんでも、警察庁にいるそうですね」
別段意外なことではないというように、室井さんが一倉さんの近況を語った。
「あいつは――― 一倉は、今、警備局外事課の調査官になっている。公安第一課の隣と言えば、解り易いかもな」
「公安・・・っすか?」
「ああ。私も以前警備局にいたことがあったが、所属は警備課で、文字通り『要人の警備』を中心とする仕事しかしない部署だった。しかし、君も知っているだろうが、警備局というのは別名警備公安警察と言われる部署だ。公安第一課、第二課、第三課、警備企画課そして俗に警備二課と言われる外事課―――何れも全て、業務は諜報活動に近い」
何だよ、この符合って―――
俺は、一倉さんの発した単語を一つ残らず、心の中だけで反芻した。
「青島?」
打って変わったコッチの様子を窺うようにして、室井さんが俺の名前をそっと呼ぶ。
「どうした? 何か、あったのか?」
「いや、その・・・すれ違った時、突然、言われたんスけど―――公安が張りついてるからって・・・」
―――何で、こーいう展開になるんだか。も、頭痛い。空唾を無理矢理飲み込むと、俺は、室井さんへ一言一句をそのまま正確に伝えた。
「そうか・・・」
室井さんの眉間に、見慣れた皺が刻まれる。ああ、やだやだ。やっと逢えたってのに。しかし、こんな話題になったのも元はといえば自分の責任か。まあ、しょうがないと諦める。
小さな溜息を吐き出してから、室井さんが静かな声で話し出した。
「昨年、私の降格人事について、少々騒ぎが起きた。あのお陰で、結果的にはこうしてまた参事官に戻れた訳だが、あれ以来公安の目が一層厳しくなった」
俺は黙って、その続きを待つ。
「当時、君は入院中だったのだから、あの騒ぎに関しては無実だ。しかし、今までのことを考えると、今後は君も見張られる可能性が高い」
ちょっと、待ってよ。捜査情報の収集手段がモンダイだとか、その情報を隠匿してるだとか、今までだって痛くもない腹を探られてきたけど、トーゼン白だったってのに。また、自分の周囲が見張られると思っただけで、うんざりである。
俺のフテ腐れモードな顔を目にした室井さんが、苦笑するかのように表情を緩めた。
「君は、当時、民間人だった柏木君をわざと公務執行妨害で逮捕し、湾岸署へ足留めしたな。だが、彼女の拘留期間内に被疑者をちゃんと連行して、本庁へ引き渡した―――」
そう、何が何でも雪乃さんを引っ張っていかせる訳にはいかなかった。たった一人の肉親である父親を殺されたショックからやっと這い出し、自身の足で立ちあがろうとしていた彼女に、任意とはいえ取調べを受けさせるなど、もっての外だった。上からどう評価されようが、俺は今でも、あの時、間違ったことをしたとは思っていない。
君の気持ちはよく解っているというように、室井さんが頷いた。一呼吸置いた後、再び、淡々と言葉を続ける。
「一倉という男は、物事を冷静な目で見、判断出来る優秀な奴だ。君に対しても、あの頃は面白くないという感情を持っただろうが、今は何の恨みも感じていないと思う。だから―――あいつはあいつなりに、君を心配したんじゃないだろうか」
「一倉さんが、俺を―――ですか・・・?」
室井さんは黙って、首を縦に振った。
けど――――
室井さん。それは、きっと、違うよ。
あの人が――― 一倉さんが心配しているのは、あんただ。
確かに今、言われた通り、俺が室井さんの近くをウロウロしていれば、公安の監視にはコッチにも及ぶだろう。でも、あの人が俺のことを心配する訳がない。
当時、本店の薬対管理官だった一倉さんに俺が楯突いたのはもう二年近く前のことだ。岩瀬逮捕を本店へ譲る代わりに雪乃さんの任同をナシにして貰ったことは、コッチからすりゃ当然の取引だったが、一倉さん側はさぞかしムカついたに違いない。
でも、俺は刑事課の人間で、本来、おクスリとは無縁だ。あの事件にしたって、生活安全課へ捜査協力したから関わることになっただけだった。とはいえ、もしもあのアパートで張り込んでなかったら・・・と思うとゾッとする。俺の知らない間に雪乃さんが本店に引っ張っていかれ、身に覚えの無い罪を吐かされていたかもしれないのだから。
要するに、一倉さんにとって俺は、ただの所轄の『コマ』である。事件が終わって二年にもなるのに、その『コマ』を心配する、担当違いの元・管理官なんているもんか。
警察という組織に所属している以上、公安部との関わりを避けて通ることはできない。ましてや、俺達の関係は暴かれたら最後、警官人生へ終止符を打たされるに違いない種類のものである。その辺りまで一倉さんが感づいているかどうかは別として、これから室井さんがそういう監視の目を無事潜り抜けていくことを祈り、あの人は今日、俺にあの言葉を託したのだ。
尤も、一倉さんにとって、早晩、俺が室井さんと会う約束をしていたかどうかなんて関係なかっただろう。ああいう単語を並べれば、いずれそれが室井さんの耳に入ることを予見していたに違いない。真下が信じているように、背後で指揮を取り参事官の降格差し戻しを実現させたのが一倉さんであるなら、それぐらいは計算している筈だった。
だから、確信した。あの人は俺でなく、室井さんの身を案じている。
「ねぇ、室井さん・・・」
ひどく不愉快な『何か』を感じた俺は、そっと呼びかけた。もしかしたら表へ出てるかもしれない心の動揺に気づかれないよう、軽く頭を動かし、居もしない虫を追いかける。
「何だ」
「一倉さんとは、同期だって言ってましたよね? その―――同期って、やっぱ、仲いいんスか?」
今度は、室井さんがどこか別の宙へ視線を泳がせる。
「・・・仲のいい方に、入るんだろうかな―――」
「仲のいい方、って?」
室井さんの声音に僅かな困惑を感じた俺は、そのまま鸚鵡返しに単語を繰り返した。大きな黒目は少しだけ悩むような素振りを見せたけれど、すぐにはっきりした口調で話し出した。
「我々キャリアの場合、同期というのは一種のライヴァルだ。中には相手を蹴落とそうとして、策を弄する人間もいる。寂しいとも思うが、それが現実だからいたしかたない」
そういえば、真下もそんなこと言ってたっけか。その点、俺達ノンキャリは気楽かもしれない。何せ同期の数が多いだけに、誰が何処へ行ったかを一々気にしたところで、すぐに訳わかんなくなる。
「一倉とは、警察学校で席を並べた時から、なんとなく気が合った。確か、向こうから話しかけてきたんじゃなかったかな・・・東大は東大同士でつるむのが普通だから、あいつも、かなりの異端児だろう。現場へ出るまでは休日を一緒に過ごしたこともあったぞ」
「は? 休日を一緒に・・・っすか?」
この科白は滅茶苦茶ショック大きい。思わず俺は口をポカンと空けてしまった。
「ああ。よく、道場へ行って一日中、稽古した。尤も、こっちは柔道であいつは剣道だから、行き帰りが一緒だったと言った方が正確だな」
「あ、ああ・・・そういうこと、ね・・・」
ホッっと胸を撫で下ろした俺は、自分の中に芽生えた不快感の正体をその時、理解した。
なーんだ・・・
俺、一倉さんに嫉妬してるんだ―――

「室井さん、俺、ちょっと顔洗ってきますね」
俺は、出来るだけ自然に聞こえるよう念じながらそう言うと、動揺を悟られないうちにバスルームへ直行した。

棚にきちんと畳まれてあったハンドタオルを掴み、洗面台のコックを強く捻った。飛沫がシンクの中へ撥ね返り、殊更に大きな響きを返してくる。蛇口から迸る水音がこの狭い空間の中へ、もの凄いスピードで充満してゆく。
普段は猫が顔を舐める程度のことしかしない俺だが、石鹸をきちんと泡立たせると、時間をかけて丁寧に顔を洗った。そう―――まるで、自分の中に今在る幼稚な感情を一緒に洗い流そうとするように。
室井さんは俺よりも多くの時間を警察機構の中で過ごしてきている。入庁した時から一緒だった一倉さんに室井さんと共有した時間があるのは当然だということくらい、理屈では判っている。相手の過去にヤキモチを妬いても始まらないことは、今までの経験からだって明白だ。
じゃあ、なんで俺はこんなに、面白くない気分なんだろ―――
昼間、真下と交わした会話が頭の中へ甦ってきた。
俺には今、とても大切な人がいて、その人の為なら出来るだけのことをしたいと思っている。でも、仕事面に於いて俺が室井さんの力になれることは、大してありゃしない。支店の一捜査員という地位では、何に於いても、せいぜい足を引っ張った結果にならないよう気をつけるくらいしかない。
でも、東大卒キャリアの一倉さんなら―――
きっと、室井さんをもっと助けてあげることが出来るだろう。室井さんの力になれるだろう。
所轄の無力な刑事よりも、地位や学閥やその他諸々の権力を駆使することの可能な同期の方が、実際のところ、室井さんの役に立つだろう。
だけど、それが面白くないんじゃない。
俺では持ち得ない力を持っている一倉さんが羨ましいんじゃない。
室井さんはさっき「同期はライヴァルだ」と言ったけれど、一倉さんについて「物事を冷静な目で見、判断出来る優秀な人間」だと評した。つまり「そういう奴だから、君のことを心配したんじゃないのか」と言いたかったのだ。それは、室井さんが一倉さんをちゃんと認めて信頼しているということだ。そして、一倉さんが室井さんを心配するのも、互いが優秀なキャリアだからだ。
多分、同期の中で、室井さんが一目置いているのは一倉さんだけなんだろう。確かに、出世競争に於いてはライヴァルの一人でも、お互いが凌ぎを削り合ってゆける相手に違いない。それは、隙あらば足許を掬おうとする連中と異なって、正々堂々競える本当の意味での好敵手ということだ。言葉を変えていえば、親友ということなるのかもしれない。
俺と共有する夢や理想とはまた異なったものを、室井さんは一倉さんとの間に持っている。どうしてだか、それが悔しい。
全く・・・こんなコトで嫉妬して、ど―すんだよ―――ガキじゃ、あるまいし。
室井さんに東大卒同期の親友がいるなら、却って喜ばしいことじゃないか。四面楚歌でなくて、良かったじゃんか。
一倉さんは一倉さんで、俺は俺だ。室井さんの中でだって、俺達二人のどっちがどうということでもないだろう。

どんなに強く望んでも、人にはそれぞれ、出来ることとそうでないことがある。それまで自分が培ってきた能力の程度や置かれている立場や本人の性格によって、それらは一人一人異なってくるけれど、いずれ己の限界として目の前へつきつけられることに、誰しも違いはない。
俺は俺に許されている方法で、室井さんの為になることをするしかないと、頭の中では理解している。
けれど、人の気持ちがそう簡単に整理をつけられないものであることも、また、判っている―――

あんまり長いこと閉じ篭っている訳にもいかないので、まだ少しモヤモヤした気分のまま室内へ戻ると、音を消されたテレビの画面が、明日の気象情報を映し出していた。関東地方全体へもうじき雨音が聞こえてくるであろう予報を実に判り易い表示で知らしめている。
「ねぇ、室井さん」
前髪から滴る雫を手にしたタオルで拭いながら、俺は窓から外を眺めている後姿へ声をかけた。少しだけ身体を斜めに捩った室井さんは、俺のそんな様子を見て、淡く笑った。
「明日―――晴れるかな?」
俺の発した問いかけは、とってつけたような感じになってしまった。一瞬、深い色の瞳が見開かれ、覗き込む如くに視線を絡ませてくる。室井さんは何かを確かめるように、
「・・・大丈夫だろう・・・?」
と、言った。
嘘ばっか。一都六県、全部に青い傘マークが貼り付いてるの、あんただって見てるくせに。
「本気で、そう思ってます?」
「なんだ、本当に天候の話だったのか?」
やや困惑げにそう返されて、俺は唖然としてしまった。
―――ってことは、バレバレだった訳か・・・
俺の精神状態があまりよろしくないのをこの人はちゃんと見抜いていたらしい。尤も、そうなった理由までは探り当てられてないことを信じたいところだけど。
室井さん―――あんた、カン良過ぎるよ。こういうのは、捜査の時だけにしておいてよね。
窓際へ行き、俺も並んで其処に立った。少し目線を上げた室井さんが、真面目な顔で言う。
「なあ、青島・・・俺達の周りには、これからもいろいろな波風が立つだろう」
波風どころじゃないっすよ。台風並の嵐が吹き荒れると思ってた方がいいってば。
「公安に限っては、下手に闘うだけ無駄だ。黙って矛先が他に逸れるのを待つしかない」
警備局経験者の室井さんがそう言うのだから、異存があろう筈もない。俺は無言で頷いた。
「仕事の面でも私的な面でも、俺達は同じ夢を目指し、それぞれの場所で頑張っていこうと誓い合った筈だ。だから、青島―――お前は悩む必要無いんだ。お前は、お前の信じていることをそのまま持っていけばいい」
室井さん、あんたって人は―――
「―――お前が、お前でいてくれることが、俺にも力を与えてくれるんだ」
不安定になってる俺の前で、よくまあ、そういう殺し文句、言うよね。そんな科白、面と向かって言われたら最後、速攻で自惚れて立ち直るコッチの性格、ひょっとして、判っててやってんの?
だって、好きな人に真っ直ぐ見つめられて「お前のままでいいんだ」と言われることくらい、心強いものはないでしょ。
なんだか笑い出しそうだった。
あんたはいつだって、そうだ。こっちが参っているのを正確に探り当てるくせして、その原因を追及したりはしない。そうして、ただ、自分の信念を貫いて行けと言うだけだ。だけど、その時々で紡がれるあんたらしい一言が、俺にとってはどんなにありがたいものか―――どれほど俺の気持ちを奮い立たせてくれるかを、あんたは知らないんだろうね。
室井さん。俺は、あんたが俺を必要とする限り、あんたの傍から離れない。
俺に出来ることはたかが知れているけれど、それでもあんたの為にやれるだけのことはしたい。そして、あんたを信じて共に歩いていくと、決めている。
俺の中へ巣食っていたわだかまりは、既に跡形も無く消えていた。
この人が俺を信じて力づけてくれる限り、俺も前を向き、現場で踏ん張れるのだ。室井さん―――あんたがいるから、俺だってやれるんだ。だから、くだらない感情に囚われている暇なんて無い。夢と理想をカタチにするため、考えなければならない事や、しなければならない事が、俺達には山のようにあるのだから。
外の景色は、暗い夜空に垂れこめた重い雲の連なりを感じさせるけれど、俺の心は反対に明るくなっていた。
「明日、きっと―――晴れますね」
「―――無理かもしれんな・・・降ってきたぞ」
ガラス越しに天を睨んでいた室井さんが答える。
いつもの調子を取り戻した俺は、室井さんに笑いかけた。
「大丈夫。止まない雨はありませんから―――いずれ、晴れますって」
諦めるのはいつでもできる。だけど、機会を窺い努力を重ねてゆけば、必ず俺達の夢は叶うだろう。
だから、いつか晴れたその時に、室井さんと俺が手を携えている未来を信じよう。どんなに少ない確率でも、ゼロでなければ、賭けてみよう。そうするために二人、それぞれの手を伸ばし、その指を絡めたのだから―――
窓の向こうへ微かな雨の匂いを嗅いだこの夜、俺達は互いを相手に交す約束の固さを今一度、確かめ合った。

(2000/4/10)


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5000Hitsリクにお応えするべく頑張ったのですが……な、なんなんでしょう、これは…
お題は「青島くんと室井さんと一倉さん」で、「室井さんにとってかけがえもない友人としての一倉さん。青島くんはちょっとヤキモチやいてくれるとうれしいです」ということだったのですが、思いっきりハズしてますね……奈緒様、半年以上お待たせして、こんな話しか書けなくてすみません〜〜〜(平身低頭平謝っっ)
そもそも一倉の登場シーンより、真下の出番の方が多いのはナゼだろう…??? さすがに今回、暴走はしてないですが、それでも青島から見たら、充分暴言吐いてることになりますねぇ(苦笑)
ところで、東法(とんぽう)という言い方は、身近にいる東大卒の人から聞きました。文Tを『東法』、文Uを『東経(とんけい)』、文Vを『その他東大組』と言うそうです。尤もこれは、某大手企業キャリア内だけの呼称かもしれないですが。
それにしてもこの話、自分で書いててよく判らなかったです。あああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい〜 大変な、お目汚しでしたーーー(号泣)←泣きながら走り去ったらしい