EDENes
第1章 幸せな日々と君
#1
幸せってなんだろう?
………と誰もが一度は考えるものだと思う。幸福論というやつは人それぞれで、価値観によって全く違うものになってくる。
生きているだけで幸せだという者がいる。しかしその一方で死こそが唯一の幸せだという者もいる。人を救うことが幸せだという者がいる。しかしその一方で金こそ全てという
者もいる。
だがこれらの間にたった一つだけある共通点は、「欲求を満たす事」ただそれだけである。
どれだけフェミニストになったつもりでも結局人に奉仕する事で己の欲求を満たしているにすぎない。
ならば自分の思う通りに生きればよい―――――――のだが、そうもいかないのが人間社会の厄介なところであり、煩わしいところであり、それでいて人間が人間たる所以でもあったりする。それが更に厄介といえばそうなのだが……。
鈴鳴高校1年、森下裕嗣は窓の外を眺めながらそんな事を考えていた。眺めるといってもただ視線を窓の外に送っているだけで、特に何かを見ているということはない。
――――――― 2−3小津………
あの日以来、ずっと気になっている。生徒名簿で名前は分かった。
『小津深雪』
全く知らなかったが、自分と同じ町内に住んでいた。どうやら高校に入ってから引っ越してきたようだ。
自分の腕に包帯を巻いている彼女の姿は、確かに天使のように見えた。まさかそんな三文恋愛小説みたいな体験を自分がすることになるとは思ってもみなかった。
だが、事実だ。否定は出来ない。出来ないし、するつもりもない。
彼女は保健委員だ。だからあの日、保健当番であの場所にいたのだ。この学校の保健当番制は週に1回。彼女は水曜日の当番というところまで突き止めた。だが、そこからがどうしても踏み出せない。
……いきなり何の理由もなく保健室に行って「お話しませんか?」なんて不自然極まりないもんなぁ……。
「裕嗣。何、ど一したよ。ボーッとして。お前らしくね一ぞ」
「ん?ああ、冬夜か……」
「ああ、じゃね一っつ一の。そろそろ文化祭の名残は捨てないと期末でやられるぞ」
―――――― まあ、文化祭の名残といえぱ、そうかもな………。
裕嗣は話しかけてきた友人、的場冬夜の方に体を回転させた。冬夜はこの学校に入学して初めてできた友人だ。何でも剣道とはまた違う実戦剣術とやらの達人の息子らしく、冬夜自身も得物を持たせると鬼のように強い。裕嗣は一度、5人程のチーマーに囲まれた時に冬夜がそいつらを一瞬で病院送りにした現場を目の当たりにした事がある。
「それとも女の事とか?」
「分かりやすいな、お前」
冬夜が裕嗣の机に腰を下ろす。
「……まあ、俺には女の良さなんてわからんけど」
「おいおいおい、まさかゲイだってんじゃないだろうな」
「んな短絡的な……女嫌いなら必ずゲイってわけでもないだろ」
「まあ、そりゃそうだけど」
「それで」
冬夜の声が裕嗣以外には聞き取れないくらいに小さくなる。こういった話をする際のエチケットだ。
「相手は?」
「……2−3の、小津って人」
「小津?知らんなあ。どんな奴だ?」
「……髪は黒くて、腰くらいまであった。それで肌が白くて……」
裕嗣はそこで一息ついてから、照れ隠しに頭を掻きながら
「……天使みたいに見えた」
「あ、もうダメ。俺そ一ゆ一のダメ。理解できないわ」
「……だと思った」
冬夜が自分で女嫌いだと宣言したのはつい先程初めて聞いたが、そんな噂は前から聞いていたし裕嗣も何となく気付いてはいた。男尊女卑、というわけではないかもしれないが冬夜は、少なくとも同年代の女子を常に蔑視している嫌いがある。
ただ裕嗣には、冬夜がただの女嫌いには見えなかった。冬夜は自分達とは違う、自分達よりもっと高次元なものを見つめているような気がしていた。
だから本来、冬夜に恋愛などという低俗な話をすること自体間違っているのだが、今回に限っては冬夜から話を振ってきたのだからこちらに責任はないだろう。裕嗣も自分から話すつもりはなかったのだから。
しかし、自分でも『天使に見えた』は恥ずかしいと思う。いくら事実であっても、夢見る少女じゃあるまいし……と気が付けば自嘲している自分もいる。だが、それでもそんな経験をした己を誇りに思う自分がいるのも確かだ。
「大体な、女なんて何考えてるかわかんね一ぞ」
「そんなの、男でもわかんね一よ」
「それ言っちゃ話が続かね一だろ。でもな、女って怖いぞ。血が通ってね一んじゃね一 かってくらいひでえことする奴等もいるからな」
「例えば?」
「後輩を更衣室に呼び出して何人かでキレてるフリしてからかったり、気に入らない先公にはテニスのサーブボールぶつけたり、何よりシカトが酷いね。練習相手がサーブ打ってきてんのにそいつが気にいらないと無視したりとか」
「何、そいつはテニス部なの」
「うん、こないだの自習の時間に横で女子がそんな話してた。やっぱな、女は男に比べて陰湿だよ。信頼するに値しないね」
「言い切るなあ……」
駄目だ。こいつ相手に恋の悩みは通じない。こうなったら、自分1人で何とかするしか ない。そうさ、恋愛において人に相談するなんて事自体おかしいんだ!
当たって砕けろ!恋愛の基本だ!
「若いね一」
……冬夜君、君もまだ15でしょ……。
翌朝、裕嗣は自分の目を疑った。
登校中の電車内。同じ車両内。
そこに小津深雪がいた。
吊り革に掴まり、片手で文庫本を開く、その知性的な、―――――見る人によっては地味な印象を受けるかもしれないが―――――美しい顔立ち。裕嗣のまだ寝ぼけていた頭は一気に覚醒した。途端に、彼女の姿が、存在が、その全てが自分を満たしていくのがわかった。
久しく忘れていた感覚。これが恋というものなのだと。恥ずかしいながらも認識してい た。恋愛感情によって自分が救われている事も。
今までにも何度か恋をしたことはある。女と付き合った事もある。キスだってした。 しかし、小津は違うのである。今までに出会った女性とは全く違う、特殊な喜びを感じるのだ。
そう、今までに経験した恋が「興奮」を与えてくれていたのなら小津が与えてくれるものは「安らぎ」だ。胸の鼓動が高鳴るのではなく、むしろ落ち着くのだ。今まで、ずっと昔から一緒にいたかのような感覚……。
「……!」
不意に、目が合った。お互いに、驚いたような表情で。『懐かしそうな』表情で。そして小津は少しだけ、困惑したような表情で。
だがどちらも、小津も視線を外さない。互いに見つめあったまま、どれだけ立ち尽くしていただろう……?
「あ、あの……」
先に口を開いたのは小津の方だった。……裕嗣にとって、それが引き金になった。
「……?あれ、何で、俺……」
気が付くと双眸から涙が溢れ出してきていた。とめどなく、頬を伝い、顎の先からぽたぱたと雫を落とし続ける。何度拭っても、目を擦っても、溢れだす涙は止まらなかった。
小津は黙って裕嗣を見守っていた。
「……ごめん。迷惑かけて」
「いいの。気にしないで」
「いや、でも俺いきなり電車の中で泣き出したりして……」
小津の優しい言葉に裕嗣ははにかむしかなかった。
結局涙は止まらず、周囲の目も気になり始めたので裕嗣は慌てていつも降りる駅の2駅前で取り敢えず下車した。その際、小津も一緒に付いてきたのだ。
はっきり言って、情けなかった。とんだ醜態をさらしたものだ。
「……でも、何で急に泣き出したりしたの?」
小津は一緒に下車してからずっと裕嗣の様子に気を配っていた。ここまで関わってしまったら裕嗣が泣き出した理由を知りたいと思うのは当然かもしれない。勿論、裕嗣にとっ
ては恥ずかしい質問ではある。
「……分からない。……ただ、声を聞いた瞬間に何でか分からないけど凄く懐かしくな ってきて……」
「懐かしく……?」
裕嗣はホームのベンチに腰掛け、自分を労る小津の顔を見ずに頷いた。
「……私も、よく分からないんだけど……懐かしかった」
「何でだろう……今までにどこかで会った事……ないわよね。同じ学校に通ってるんだから、何となく顔を見た事くらいはあるかもしれないけど……」
小津はあの文化祭の日の事を覚えていなかった。自分はあの日以来、ずっと小津の事を 見てきたというのに……!
あの日は暑かったから、裕嗣と同じように貧血やらで保健室に運び込まれた者はそれなりにいたのだろう。裕嗣も、小津にとってはその中の1人に過ぎなかったのだから記憶に残っていないのは仕方のないことかもしれないが、何だか悔しかった。
「……会った事、あるよ」
「え?」
電車がホームに入ってくる。これを逃すともう登校時間には間に合わない。裕嗣は立ち上がった。
「俺、知ってるよ。……小津深雪さんでしょ。2−3の」
「……何で、知ってるの」
裕嗣は小津の顔を見なかった。ちょっと俯いて、ロに手を当てて電車が目の前で止るのを待った。
車両のドアがプシュゥ、と音を立てて開く。裕嗣はドアに向けて一歩踏み出してから、 振り返って小津の顔を見た。満面の笑顔で。
「好きなんだと思う。小津さんの事」
「!?」
「俺、1−6の森下裕嗣。……今日一緒に帰ろう」
to be continued……
PRESENTED BY 禍因
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