天の橋立
『注意』 本作品は十訓抄(だったと思うが)のある作品を題材にして書いた フィクションです。ですので、必ずしもこの物語の人物像が実在の
ものと一致するとは限りません。また、歌合せの形式も僕の想像に よるものです。歴史や古典を専門になさる方、どうぞおおめに見て やってください。
『主な登場人物の紹介』
《小式部の内侍》 あの、和泉式部の娘で天才少女歌人とうたわれた歌人。若くしてな くなるがすばらしい歌をいくつか残している。本作品の「大江山 い
く野の道の 遠ければ まだふみもみず 「天の橋立」は百人一首に おさめられた作品。
《定頼》 小式部の内侍が上記の歌を歌うきっかけを作った男。本作品の主人公。
序章
「おい、おトキ。聞いたか?」
時は平安のとある帝の時代。都のさる貴族の邸宅に主人の張りのあ る声が響いていた。その声はうららかなその日の日差しににて明るい。
「はい、何でございましょう」
勢い込んで入ってきた定頼に夫人のトキは柔かな物腰で対応してい た。二十五を過ぎようというこの男の、このあどけなさを影から支 えていたのは他でもない彼女である。
「来月の望月に、宮廷で歌合せがあるというのだ」
トキはにこやかに相槌を打った。
「男女そろえて紅白各十人。これはよい機会だ。これに選ばれ、帝 の下で歌を詠めるなど、これほどの名誉があろうか。俺はこれから 歌の勉強に励む。邪魔せぬように」
「はい。がんばってくださいませ」
第一話
歌合せの噂はたちまちの内に都中に広がり、都の中のあちらこち らで身分の上下に関わりなく歌が詠まれていた。
「中納言定頼殿」
定頼はふと声をかけられて振りかえった。
「どちらへ、おいででしたか?」
そこにいたのは幼い頃からの友人であった。彼は実に多彩な男で正 直に述べると定頼はそれにある種の憎しみに近いほどの憧憬の眼差 しをさえ、送ったほどであった。そんな彼は早くに階位を捨て、出家の身となっていた。
「ああ、少し書を読みに行っていた」
定頼はそっけなく答えた。
「歌でございますか…?」
「そうだ。よければ私に歌を教えてはくれないだろか?君は兼ねてから歌が上手だったではないか」
僧はただ少し寂しそうに定頼を見た。
都には歌合せの話しがまさしくあふれていた。誰の歌が上手だの、誰が選ばれるだのと。それは荒涼とした都のささやかな楽しみと言 えた。僧はそんな都を折々よいものだと感じてはいた。
「拙僧が…ですか?」
僧は歌を教えろと言う定頼の提案に対して声を低くして確認をした。
「そうだ」
かつての友達である僧を見返して定頼は答えた。
「定頼殿が歌に興じられるのは非常に結構でございます。しかし、拙僧には貴方にお教えできるようなものは持ち合わせおりませぬので…。ですが、こうして都をぶらついてしまう拙僧のような低僧の言でよろしいのであれば、一言申しあげたいかと…」
定頼は頷くと僧の次の言葉に耳を傾けた。
「歌とは心で歌うものと存じております。どうか豊かな心をお持ち下さいませ」
僧はそう言い残して定頼のもとを去って行った。
「歌は心か…。あいも変わらず面白いことを言うヤツだ」
定頼は一人ごちると家へと足を運んだのであった。
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