緋色の龍
第三章 北の塔 (3)
* *
完成した『椿』には、何も宿ってはいなかった。
当時、サリクは二十歳。
自らの命を『椿』に宿すことで、破魔の剣を完成させたのである。
シエラと『椿』の最初の出会いは、それから十年ほど後のことになる。
シエラはすでにザークの魔導剣士として生活していた。気紛れな生活のおかげで、彼の名前を知る人間は少なく、そして彼もまた、名前を捨てたがっていた。名前よりも、力が欲しいと嘆いていた。
そこで『椿』は契約を持ちかけたのだ。
破魔の剣としてシエラに仕える変わりに、自分の望みを適えてほしい、と。
シエラは承諾した。
チェリアは知らないが−もっとも歴史にさえ残っていないことだが、百年以上前、『椿』が有名になった。そして、『椿』のパートナーの魔導剣士のことも。このことを記した文献は戦で消失した。もうこのことを知る人間は生きてはいない。だから、不明な点が『椿』には多くあるのである。
ある日のことだった。旅先の村に魔族が出現したのだ。影を操り、人間をさらうのである。しかも、美人の若い女性を。犯人に、サリク−『椿』は心当たりがあった。自分から愛しい人を奪ったあの魔族。
北の主に違いない。
シエラは村人から娘を救ってくれるように懇願された。
『椿』もまた、それを望んだ。自らの刃で相手を傷つけたいと。たとえ世界が崩れたとしても−。
たった一人でやってきたシエラを、魔王は気に入ったらしい。コレクションルームに案内してくれた。
《ロージア!》
そこに、彼女はいた。あの時と変わらぬ姿で、水晶の中で眠っていた。そのとなりには、村でさらわれた娘も。
『きみたちの勇気を誉めよう。僕に戦いを挑むなんて、なんて命知らずなんだ。でも、僕はそれが気に入ったよ。きみたちが探している二人、とっておいてよかったみたいだ』
笑う魔王に、シエラは戦いを挑んだ。
命を削る戦いだった。
魔術は効かない。
自分の腕と、『椿』だけの戦い。
最強だと信じていたコンビ。それでも勝てなかった。
体中に深手を負い、命の灯火もあとわずかになった。このまま相手の手中であっけなく死んでいくことが、悔しかった。
そのときだった。魔王が賭を持ち出してきたのだ。
『僕はね、きみたちをここで殺してしまうのは、不本意なんだ。そこで、ちょっと賭をしようじゃないか』
きみたちが賭に勝ったら、ロージアを返そう。
魔王はそう言った。
『今の戦いできみたちは相当な力を消耗している。元に戻るまで、待ってあげよう。でもその間、僕の力でバラバラにさせてもらうよ。何十年後になるかわからないけれど、再びきみたちが巡り会ったとき、もう一度ここにおいで。その時まで十分に力をつけておいてよ。そうしてもう一度勝負しようじゃないか』
それまではロージアはとっておく。
『信じられねえよ』
『だったら、こうしよう。この娘を返そう。そして、僕の名前を教えてあげる。どう?』
魔族にとって名前は命みたいなものだ。敵に名前を預けることは、命をあずけることと同じ。
危険な賭けだとはわかりきっていた。けれども、それしかなかったのだ。
北の主を倒すためには、そして、ロージアを救うためには奇跡に近い賭けに勝たなければいけないのだ。それは十分に承知していた。
承諾の返事と共に、それは起こった。
それは魔王の持ち出した賭による副作用だったのかもしれない。『椿』に宿っていたサリクの魂が、シエラの魂と融合したのだ。そして、シエラを基に新たな人格が生まれた。サリクとしての記憶も宿すことになったのが、今のシエラ。
サリクは完全に『椿』になった。
シエラの瞳と同じ、緋色の髪を手に入れて。彼から幾つかの魔力をもらって。
それが、『椿』の実体。
一回目の戦いが、いまからざっと百年前だ。
娘を救出してきた剣士を、村人は丁重に持て成した。傷を癒す間、家を提供してくれた。けれど、ある晩、『椿』は忍び込んだ盗賊のためにシエラの手元を離れてしまった。
長いながいゲームの始まり。
それからシエラは『椿』と出会うことはなかった。
力をかなり失っていた『椿』は、当時はガラクタ以外の何物でもなかったのだ。そしてシエラもまた、長い眠りを必要とした。
五十年前の戦で、『椿』が再び世に出始めた。
ザーク家の滅亡から逃れたシエラも、本格的に『椿』を求め始めた。
そして、やっと巡り会ったのだ。百年の年月をかけて。
数週間前に。
* *
「起きろよ、『椿』。着いたぞ」
手にした剣が熱い。
《シエラ…》
「そろそろいいんだろ? ほら、シャンも待ってる」
《やっと…、やっとたどり着いたのか? 北の塔に》
「ああ。長かったな、いろいろと」
行くぜ、とシエラが笑う。
これでやっと願いが叶うはずだ。
シエラと『椿』が重なり合った。
茶色かった髪が瞳と同じ色になる。
「元に戻れたな、お互いに」
唇がそう動いた。
それがスタートの合図。
* *
そのときあたしは、深い眠りの中で夢を見ていた。
そばには『桜』がいてくれた。
* *
シャンは最後まで冷ややかに笑っていた。
長い裾を翻して、宙に舞う。氷の剣がシエラを狙った。それは紙一重で交わされ、反対に『椿』がシャンを襲う。
守っていても、攻めていても、その表情は変わることはなかった。戦いを楽しんでいる。
どちらが傷を負っても、楽しそうだった。
そしてまた、シエラもそうだったのだ。
魔王と呼ばれるシャンには、魔術は効かない。むしろ、向こうに利があった。ここはシャンの居城。シエラの放つ魔術は、すべて吸い取られ、魔王の力に変化する。
「無駄だよ」
楽しそうな言葉に、シエラは冷たい笑みを返す。
「最後までわかんねーよ」
利き腕からは止め処無く血が流れているというのに。
肩で息をするほど疲労しているというのに。
シエラは笑っていた。
真剣な瞳はそのままで、それでも楽しそう。
何に対する歓喜なのか、あたしには検討もつかない。
ふと、シエラの言葉を思い出した。
たしか、パートナーであったと言っていた。その言葉は嘘じゃない。彼のために創られたのかと思うほど、『椿』のために存在しているのかと思うほど、相性は抜群だった。それ以上に、一つになっていたのだ。
二人で一つ。
どちらが欠けてもシエラではなく、『椿』でもなかった。『椿』だからアイツに勝てると思っていた自分が、浅はかであったことに気づく。たとえ自分が手にしたとしても、きっとアイツは倒せない。好奇心だけじゃ、なにもできない。
シエラと『椿』が一緒になって、初めて本当の力が出る。
妖刀だと言われているが、『椿』はチェリアの知る妖刀ではない。
妖刀になったのは、シャンのかけた魔法のせい。
『椿』自身は、紛れもなく破魔の剣だ。それも最高の。
人間が魔族に対抗するために得た力を注ぎ込んだ、破魔の剣。生半可な意志では創れない。魔族に対する深い深い復讐心−己の命を捨てるほどの−が無ければ、剣は何も切れ
ない。
閃光。
剣士と、破魔の剣と、魔王の間で。
背中がゾクリと震える。
緊張と恐怖と、ほんの少しの喜び。
彼についてきて正解。
あたしはそう実感した。
カラン−。
剣がはねとばされる音。握っていた腕が、肩のあたりからざっくり切り取られていた。
誰の?
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