ひき逃げの男 (前編) 久々にいい酒を飲んだと男は思った。もともと酒に強いほうではなく、仲間と飲みに行ってもさしたる量は飲まない彼であるが、今日の同窓の席というそれは普段のものとはいささか異なった酒を拝借することができたわけである。 第一に、肴が違う。普段のように仕事の問題や、上司や同輩についての話題というのはほとんどこれっぽっちもでてきはしないのである。ごくまれに、現在の彼らの仕事や家庭やそういった類の話がでてくることもあったが、それらの多くは次の話への繋ぎであって、深く、とりわけ深く込み入った話になることはなかった。 彼らにはかつての記憶という共通の肴がすでに用意されていたのである。それも、数年寝かされてこの上なく熟した、最高級の肴であるのだ。 とにかく、不幸にも彼はいつもよりほんの少しだけ多くの酒をのんでいた。 自分は酔っていると男は知っていた。だから男は細心の注意を払って運転はしていた。それでもなお、彼の眼前には先の同窓会での光景がまじまじと浮かび上がっては、フロントガラス越しにみている景色と重なってしまったりもしていたのである。 男の家は郊外の住宅地にあった。とはいえ、彼の「マイホーム」ではない。丁度海外転勤になった同輩から拝借しているのである。もちろん、ライフライン等々の維持費は彼が出資しているわけではある。それでも近年、彼は今、結婚話と平行に庭付き一戸建てのマイホームを建てる計算を繰り返していたのである。 彼は無意識にカーラジオのスイッチをひねった。 「九時のニュースです」 いつもの落ち着いた男性の声が彼一人が乗っている車内に満ちた。彼はしばらくその声を聞いてふと苦笑した。 なぜ自分はラジオをつけたのか。その答えはあまりにあっさりと浮かんできた。それはある種の癖というやつだった。彼はいつもこの時間になるとラジオを聞いていたからというだけである。たいていは仕事からの帰り道ということになるが、今日と同じように一人で車を運転していることになる。 そういった条件反射というやつで彼はこの時間になると無意識のうちにラジオのスイッチをひねるわけである。 彼は頭をかいた。せっかく楽しい酒を飲んできた帰りだというのに、仕事のために普段聞いているニュースを聞きながら普段の仕事と同じように帰宅する自分に気づいたのである。「聞かなければならないもの」だったニュースが「聞かないとものたりないもの」へと変わっていたのだ。 彼は何かさびしい気持ちになった。 フロントガラスから見える景色は次第に、恐ろしく背の高いビルから次第にその高さを減らし、通りの奥にはいくつかの民家も見えるようになってきた。ネオンサインは少しばかり後方で、今となってはどこか物寂しく美しい輝きをはなっている。 自分の、もとい自分が借りている家はここからまだ少し距離がある。自分の家がこの辺りにあれば便利だろうと彼は思った。今度この辺りをゆっくり下見に来てみようと思った。あわよく土地が手に入ればそこに家を建てよう。そして、彼女にプロポーズも… 彼がぼんやりとそんなことを考えていると暗闇の中からヘッドライトの前に踊り出るものがあった。 彼はギョッとした。そのせいかもしれない。あるいはいつもより少し多かった酒のせいかもしれない。どちらにしろ、現実として、彼の反応は普段の彼よりも極わずか、まことにわずかだけ遅れたのだ。 「ぐっ」 思わずくぐもった声が自分の口から漏れた。鈍く、かつ鋭い。重く、かつしなやかな感覚がハンドルを通して彼の心臓をわしづかみにした。「彼は助からない」男は直感した。人を死に至らしめるにあたいする手応えが自分の手の中に残っている。 どうしようかと思った。それ以前に彼は非常に恐ろしくなった。自分が人を殺したのだ。彼にははじめての経験だった。先ほどまで考えていた彼の未来はすべて消え去った。むしろ暗い未来が彼の脳裏には浮かんでは消えていった。 だが、男はこれは夢でないのかと思った。彼はそう思って自分の両の手をまじまじと見つめた。その手も、手に残る衝撃の感覚もこれが現実だと男につきつけているかのようであった。 男はギアをバックに入れるとそのまま車を反転させてアクセルを踏み込んだ。逃げようと思った。とにかくここから逃げてしまいたいと思った。 彼は半ばハンドルにしがみつくようにしてフロントガラスを凝視していた。バックミラーには「先刻の彼」が恨めしそうな顔で這いつくばって追いかけてくるような姿がまじまじと映っているような気がしたのである。 男はネオンサインが近づいてきたところで再び不安に襲われた。よもや、車のフロントさっきの「彼」の返り血でもついているのではなかろうか。だとすれば、自分はそんな物で逃げているというのか。 男はブレーキを踏むと車を飛び降りた。だが、彼に車のフロント部分を確認する勇気はなかった。男はそのまま走って逃げた。しばらく行けば駅があることを知っていたのだ。そのまま電車でどこか、誰もしらない街まで逃げようと思った。そして、不思議と男にはそれができるような気がしていたのだ。 とにかく、男は車をそのまま放り出すと走り出した。彼には自分がどこをどう逃げたのかわからなくなった。だが、それでもかろうじて彼は駅にたどり着いた。とにもかくにも彼は切符を買うと何もかもおかまいなしに、今ホームに来ている列車に飛び乗ったのであった。 列車は以外にも空いていた。男のほかにはサラリーマン風の男と女子高生が数人乗っている程度で男は自分の席を探す必要はなかった。 男は席に座ると疲れが吹き出てくるのがわかった。それと同時にこれで助かったのだと妙な、非常に不安定な安心感にとらわれた。やがてまどろみかけた彼の意識の中に心地よい電車の振動と列車の案内をする車掌の声とが聞こえてきた。 「八時二十分発…」 ☆ ☆ |
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1999.11.6